12 光の向こう側
柔らかな日射しに、思わず瞼を震わせた。
今何時だろう。侍女の気配を側に感じないということは、まだ起きなくてもかまわない時間なのだろうか。もう少し、このまま微睡んでいたい……そう思っていつものように枕に手を伸ばそうとして、それがないことに愕然とする。それよりも、ここはどこ? 私は急速に覚醒する意識の中、周囲を見渡して状況把握に努めた。
すっかり昇りきった太陽が目に眩しい、そして芳しい薔薇の香り。
私はこの景色に見覚えがあった――どうやらここは例の中庭のようだ。でも、どうして私はこんな場所で眠っていたのか……と、その瞬間に意識が落ちるまでの記憶が一気に蘇ってきた。
「――アレス、アレスディール!?」
周囲を見渡しても、彼の姿はない。
月明かりの下、冷たくなっていた彼の姿が何処にもない。
この場所は人目につきやすい、多くの王宮の住人が利用する憩いの場所だ。アレスが倒れていたら誰かに発見されて、場所を移されるのは分かるけれど、それでは私が放置されている理由が分からない。
そしてアレスが倒れていた辺りの石畳には血の跡はどこにも見当たらない。
一体どうしたというのか。あれはもしかして夢だったのか?
そうであればいい、と切実に思った。アレスが死んでしまうなんて、夢でいい。
私は混乱する頭のまま、取り敢えず王宮の中に戻ってみることにした。
誰か人を探して話を聞きたい。何だか得体のしれない不安に、鼓動が跳ねてたまらない気分だった。
中庭から王宮に通じる硝子扉を開くと、回廊には何かあったのか大勢の騎士がバタバタと走り回っていた。騒然とした雰囲気に、アレスのことがあったからだと、私は詳しい話を聞こうと思って駆け寄った。
「ねえ、そこの貴方。ちょっといいかしら?」
見たことのない顔だったけど、この際仕方ない。私は一番近くにいた若い騎士に声を掛けた。彼は全身を黒い鎧で包み、その表情はとても険しい。話掛ける相手を間違えたかも、と後悔したが、彼は聞こえなかったのか全く応えがない。聞こえなかったのかと思い、もう一度声を掛けたが、また無反応。ちょっと、この私を無視するなんていい度胸じゃないの! 苛々して他の騎士に声を掛けたが、これもまた無反応。その他の騎士も以下同文。いくら何でもおかしいと思って近くの騎士の腕を取ろうと思った私の手が、空を切った。あれ? もう一度手を伸ばすけれど、私の手は何も掴むことができない。どうしたというのか、私は思わず中庭に向かう硝子扉を振り返った。美しく磨かれた扉は鏡のように多くの騎士たちを映し出していた――が、どういうことか、その中に私の姿が見当たらない。
「どうして?!」
慌てて扉に駆け寄ってすぐ側に立っても、その澄んだ硝子に私の姿は映っていなかった。
これは一体どういうことなのか、訳が分からないまま王宮中を駆け回ったけれど、私の姿は誰の目にも映らず、私は誰にも何にも触れることができず、どうやら私は空気のような存在になってしまったようだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は昨夜の記憶をもう一度手繰り寄せる。深夜に部屋を抜け出して、中庭でテラスにいた不審な様子のアレスを発見してテラスに向かい、彼の自害を止めようとした流れでテラスから転落して、気がついたら恐らく私を庇ったアレスが冷たくなっていて……その後の記憶が曖昧だ。
もしかして、私も死んでしまったのだろうか。
思い当たった考えに、さっと血の気が引いていく。だって今の状態はそうとしか考えられない。何てこと……! 私はまだまだやりたいこと、叶えたいことが山程あったのに! 失恋したまま死ぬなんてあんまりだ。これはお母様の言うところの信仰心が足らないから、神に見放されたということなんだろうか。
私は絶望的な思いを引きずりながら当てもなく王宮中をさ迷った。
やっぱり誰も私に気付いてくれる人はいない。
足取りは重く、どうしたらいいのかも分からず、ただふらふらと歩いていると、気がついたら王宮の正門前に来ていた。ここは何時も賑やかなところだけど、今日は更に人が多い。
「いよいよザカの軍が国境を侵しそうだって話だぞ」
聞こえてきた穏やかではない声に顔をあげると、王宮の文官と思われる男の人たちが集まって話をしていた。
「今回は陛下の体調が優れないとかで、王子が騎士の指揮を取られるらしい」
「おいおい、大丈夫か? 王子は陛下に付いて出陣されたことはあるが、まだ年若いし実戦経験が浅いじゃないか」
「いくら槍の腕は騎士団長から二本に一本は取る腕だって言ってもな」
「いや、大丈夫だろう。きっと側近の騎士たちががっちりと補佐するだろうさ」
王子? 王子って誰? 今は王子はいないわよ。お父様の子は私だけ。一体どういうことなんだろう。
私の疑問など勿論彼らに聞こえるはずもなく、彼らの会話は続く。
「……だから今回の出陣式にはな……」
彼は一旦言葉を止めて、周囲の同僚の顔を見渡す。勿体ぶった彼の態度に同僚たちが苛立って眉をひそめると、軽薄な表情でニヤリと笑った。
「かの月華の君もお出ましになるらしいぞ!!」
おお、と一斉に歓声が上がる。
「麗しの姫君のご尊顔を拝せるのか!」
「それは本当か?! 王子が溺愛しすぎて奥宮に監禁してるって噂の?」
予想通りの反応に満足したのか、彼は得意気に続ける。
「おいおい、監禁だなんて人聞きの悪い。王子殿下のお耳にでも入ったら、ご愛用の槍で串刺しだぞ!!」
どっと爆笑が起きる。その後も不敬な文官たちの噂話は続く。
要約すれば、この王宮には槍の得意な勇猛な王子と、女神もかくやという麗しの姫がいるらしい。王子は姫をそれはそれは溺愛していて、姫に何かあろうものなら命の保証は全くないらしい……ん、どこかで聞いたような……。
その時、正門前の広場から大きな閧の声が響く。文官たちもそれに反応して、広場に駆け出したので、私も後に続いてみる。そうして荘厳な造りの正門をくぐり、広場に抜けると出陣を前にした大勢の騎士たちが整列し、国王からの激励を受けているところのようだった。
国王はお父様ではなかった。
お父様は中性的な美丈夫だが、騎士たちの前に立つ王は太い眉に鋭い眼光、服の上からでも分かるほどに鍛えられた体躯を持つ、とても男らしく精悍な人物だった。王は身の丈ほどの大きな剣を持って、正面に跪く人物に戦前の儀式として、祝福を与えていた。
そして祝福を受けている騎士はまだ年若い少年のようだ。白金に輝く髪に蒼い瞳、真っ白な鎧を纏う姿が凛として高貴な佇まいの彼は、その意思の強すぎる眼差しがなければ少女と見紛うほどの絶世の美少年だった。
「イグニス騎士の誇りに掛けて、必ずや陛下に勝利を捧げることを誓います!!」
澄んだ空に、少年の宣誓が厳かに響く。居並ぶ騎士たちも真剣な面持ちでそれを静かに見守っている。
「勇荘なる騎士、フィラルラーズよ。そなたに聖なる主神の加護を」
王が厳かに告げると、王の側に控えていた小柄な人物が前に進み出た。その人は花嫁のような長い純白のヴェールを被り、同じく純白の生地に紅い繊細な刺繍を裾にあしらった長衣を纏っていた。
「我らが勇敢なる騎士に偉大なる神のご加護がありますよう……」
鈴の鳴るような、美しく優しい声がした。彼女は騎士の前に跪くと蒼い宝玉の輝くサークレットをそっと少年の頭にはめる。彼は恭しくそれを受けるとゆっくりと彼女のヴェールに手を掛けた。
俄に周囲の気配が変わる。
固唾を飲むような、静かな緊張感が一様にこの広場を満たしていった。
「どうかご武運を、フィラル兄様」
ヴェールの下から覗く少女の顔を見て、私は声を失った。
そこには私がいた――否、20年前に亡くなったはずのフィリアリーゼ王女がいた。




