第7話 とある過去の喜劇
「……っ!! やっぱり嫌!!」
そう叫ぶなり、私は覆いかぶさろうとする青年を蹴飛ばした。
私の足は、その脇腹に見事なまでのクリーンヒットを決める。
ぐほ、と苦痛の声を漏らしてベッドの隅に転がったのは、金髪碧眼の見事な美貌を持った青年――魔法大国と名高い『聖国ファルス』の正当な王位継承権を持つ、正真正銘の王子様だ。
「ギアン、ごめん。でもやっぱり無理なものは無理!!」
そう言い残して、夜着のまま部屋を飛び出す。
「梨乃!? 待つんだ、梨乃!!」
王子様――ギアンの声を背中に受けながら、ひたすら走る。
待てと言われても、従う気はさらさら無い。純朴な乙女の気持ちを弄んだ罪だ、ミドルキックの一発くらい多めに見ろ、コノヤロウ。
指笛の音が遠くで響いている。近衛兵が出動したのだろう。王子様を足蹴にしたのだから、まあ当たり前か。
捕まったら不敬罪で罰せられるのだろうな。あんな男でも、一応は王族なのだから。どうせ罰を受けるなら、もっと殴っておけばよかった。
私の心は軽やかだった。今まで心を縛っていた枷が、音を立てて崩れてゆくのを感じる。
清々しい。こんな気分は久しぶりだった。
自慢ではないが、体力だけは取柄だ。
それでも、屈強な兵士に取り囲まれればひとたまりも無い。捕らえられるのは覚悟のうえだった。
ただ今は、逃げ出したかった。あのスケコマシ王子に黙って抱かれるなど御免だ。牢屋の壁のシミを一日中数えている方が、よっぽどマシなように思う。
後宮と王城本館を繋ぐ連絡通路を駆け抜ける。深夜だけあって、人通りは皆無だ。
月の綺麗な夜だった。こんな夜に愛する人と結ばれたら、どんなに素敵なことか。そんな事を考えて、今の自分の状況を顧みる。ロマンチックの欠片も感じられないこの状況に、思わず笑いが込み上げた。
「――梨乃!!」
王城本館に辿りついてすぐに、私はラグに呼び止められた。
何処から聞きつけたのか、彼は後宮での騒動を把握していた。
「ラグ……私、逃げちゃった。やっぱり駄目だった……ギアンのこと、受け入れられない……」
「梨乃……」
ラグは私を責めもせず、怒りもしなかった。ただ黙って頷くと、後を追ってきたギアン達から守るように、私を背中に匿った。
「梨乃、こっちへ来るんだ。どうして僕を拒絶する?」
大勢の近衛兵を伴ったギアンが、手を差し伸べる。
どうして――なんて、言わなければ分からないのかこの男は。自分の胸に手を当てて、よく考えろ。
まったく、おめでたい頭をしている。いや、脳内がお花畑だった私も、人のことは言えないか。
「ギアン王子……梨乃をどうなさるおつもりですか?」
「王子を足蹴にしたんだ。本来ならば不敬罪で処罰を与えるところだけれど、彼女の心掛け次第では考えてやってもいい」
「梨乃、ギアン王子はそう言っていますが?」
「冗談じゃない。本当なら、あんたのナニを切り落としてやりたいところよっ!!」
ラグの背中から顔を出して、ベー、と舌を出す。ギアンはワナワナと震えると、ラグに向かって指を突きつけた。
「そこをどけ、宮廷魔術師」
「梨乃はギアン王子を拒んでおられる。彼女を貴方にお渡しするわけにはまいりません」
「臣下が僕たちのことに口を挟むな」
「生憎ながら、つい先程宮廷魔術師としての任を降りました」
え……?
ラグの言葉に、私も思わず目を瞠る。そんな事、一言も聞いていない……。
「ふん、だからと言って、王子に逆らっていい筈がないだろう」
「いいえ、ギアン王子。私は宮廷魔術師の任を終えた時点で、ワラワヘム配下の魔術師となっております」
「……ワラワヘムだと!?」
ギアンが驚きの声を上げる。取り囲む近衛兵達からも、どよめきが起こっている。
――ていうか、ワラワヘムって何さ? 事態が飲み込めないでいる私を置き去りに、ラグは話を続けた。
「つきまして、私は貴方に従う理由はありません。勿論、王にさえも」
「くっ……」
「ああ、それから……梨乃の処遇についても仰せつかっております。彼女が不遇のうちにいるのであれば、ワラワヘムにお迎えせよ、と」
「何だって!?」
つまり――……ええと、どういう事?
理解力の乏しい私には、話の流れが分からない。
ラグを見上げると、優しい笑みが返ってくる。こんな時に不謹慎だけど、思わずときめいてしまう。
「王には既に許可を頂いております。梨乃の判断に任せる、との事ですが……」
そう言いながら、不敵な態度でギアンと近衛兵達を見渡すラグ。彼らがこちらに危害を与えないように、視線だけで牽制する。
悔しげに歯噛みするギアンは、ラグと私を交互に睨むと、引き攣った笑顔を見せた。
「ふん、いいだろう。ならばその女に聞くといい。ここに残るか、ワラワヘムへと行くか」
「……という事ですが梨乃、どうします?」
「ええっ!?」
「後宮に残りますか? それとも、私と共に行きますか? 選ぶのは、貴女です」
「ラグと行くっ!!」
……即答してしまった。
ワラワヘムとやらがどんな場所か知らないけれど、それでもラグと共に行けるのなら。
ギアンは私の選択に相当衝撃を受けているようで、言葉を失っている。むしろ私としては、自分が選ばれると思っていた貴方にびっくりだよ。その自信は一体どこから来るんだか。
「本当にいいのですね、梨乃」
「うん」
「後悔は……」
「しない。ラグと一緒にいられるなら、どこだって構わない。私……ラグのこと、好きだもん」
どさくさに紛れて何やら口走ってしまったけれど、そんなことは構わなかった。
ラグは私を見つめると、今まで見せたこともないくらいの、最上級の笑みを浮かべた。な、なんだこの人、笑顔だけで私を気絶させるつもりか?
引き寄せられ、肩を抱かれる。今までこんな風に密着したことはないので、私は緊張のあまり呼吸困難に陥りかけた。比喩ではなく、本気で。
「ギアン王子。梨乃の答えを聞きましたね?」
静かだが、有無を言わせない凛とした声。
ギアンは私達を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らして背中を向けた。
「……そんな女、くれてやる」
「はい。ありがたく頂戴します」
「くっ……いつか後悔させてやる。覚えていろよ」
わお。テンプレート通りの台詞、ありがとうございます。
遠ざかってゆくギアンの姿。一時はあんなに想っていたのに、今はなんの感情も湧かない。それよりも、これは夢ではないのかと、不安になる。
ラグは私の気持ちを悟ったのか、肩を抱く腕に力を込めた。
「大丈夫ですよ。不安になることなど、ありませんからね」
「……うん」
「今まで、よく頑張りましたね」
「……うん!」
言葉が、心に染み渡る。
勝手に涙が溢れてきて、止められない。
ラグが側にいてくれるから。その優しさが、全部包み込んでくれたから。
「もう、寂しい思いはさせません。私と一緒に生きましょう、梨乃」
こうして、私の後宮生活は幕を閉じ――そして新しい世界が広がった。