第20話 私と義母と謎の竜
料理のレパートリーが僅かに増え、私達の食卓事情が潤いはじめた頃。
その日も、いつものように二人で朝食をとっていると、ラグが思い出したように手を打った。
「そうだ。今度、梨乃に紹介したい人がいます」
「え? 紹介したい人?」
思ってもみなかった言葉に、私はつい鸚鵡返しで訊ねてしまう。
ラグが誰かを紹介したいだなんて、珍しい事もあるのだな。もしかして、友達だろうか。首を傾げる私に、ラグはにこやかな笑みを向けた。
「明後日あたりにはエンデに到着する予定ですので、折をみて会わせますよ」
「分かった。家に連れてくるの?」
「そうですね……夕食くらいは、一緒にとりましょうか?」
「うん。それじゃあ、今日も頑張ってお料理覚えてくるね」
ラグの知り合いかぁ……どんな人なんだろう。
私は彼の笑顔に絆されて、楽しみにしている、と頷いた。
これから起こる騒動など、まったく知らない暢気さで――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マリベルさんから料理を教わる為に、私は三日おきごとにラグの実家へと通っている。
最初に覚えた料理は、ラグが好きだと言うペリネ(私の世界で言うパスタ)を使ったものだ。これは、ソースさえ覚えれば色々な味が楽しめる。魚介類をふんだんに使用したトマト風味のソースと、ベーコンもどきの入ったクリームソース。チーズと半熟卵を加えれば、カルボナーラにちょっと似ている。
次に覚えたのは、魚と野菜の蒸し物。これは比較的簡単で、ハーブとスパイスの量さえ間違えなければ、大抵は成功する。ラグも私も、肉より魚の方が好きなので、このレシピは重宝することになりそうだ。
今日は米によく似た穀物、パンヤを使った料理を教えてくれるらしい。
だが、材料に不足があった為、私はマリベルさんと共に市場へと買い物にやって来ているのだ。
「あら、見て見て梨乃さん。あのペンダント可愛いと思わない?」
「わーっ!!ダメですよ、マリベルさん。あれ魔術具ですよ!!」
「こっちの指輪も素敵ねぇ。黒い宝石が付いてるわ」
「それもダメです!!見るからにヤバそうなデザインじゃないですか!!」
そう、市場へ材料を買出しに来ている――筈なのだが。
マリベルさんは市場へ来る事が滅多に無いようで、先程から色々なテントを見て回っては、歓喜の声を上げている。普段の買い物はどうしているのか訊ねると、家にやって来るお抱え商人の移動店舗から直接買っているらしい。
それにしても、やたらと魔術関係の道具に興味を示している。アルバートさんの影響なのだろうか。
彼女は私と同じように魔力を持たない人間なので、迂闊に魔術具に触れることは出来ない。私は言語疎通の為の指輪をしているが、これはラグ特製の安全保障付きであるから危険はない。だが、このような市場で売られているものは、以前の持ち主やその効力が分からないものも多い。関わって妙な呪いでも貰ったら、一大事だ。
名残惜しそうにしている彼女の手を引いて、食料の並ぶテントへと向かう。
買う物はそう多くない。早く済ませて、マリベルさん宅へ帰ろう。
市場へ来て小一時間ほどしか経っていないというのに、やけに疲れてしまった。げっそりと肩を落とす私に手を引かれたマリベルさんは、それでもまだ楽しそうに視線を巡らせている。
「あら……?」
ふと、マリベルさんが立ち止まった。
「どうしました?」
その様子に、私も足を止める。
彼女の指先が空を指した。ざわざわと辺りが騒がしくなり、道行く人々も天を仰いでいた。
一体どうしたのだろう? 怪訝に思いながら、私も空を見上げる。
白い雲が浮かぶ青空。
そこに見える一点の影。その影は徐々に大きくなり、明確な姿を現す。大気を響かせる、力強い羽音。
長い首に、黄金の鱗を纏った体、そしてその背には一対の翼――。
「ドラゴンだ!!」
誰かが叫ぶ。
それを皮切りに、市場は騒然となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
混乱した人々が、いっせいに市場から逃げ出す。
ドラゴンは商人たちの休憩所となっている広場へ降り立つと、黄金の巨体を震わせ、凄まじい咆哮を上げた。鼓膜が震える。凄い声だ。
マリベルさんは、ほんの先に見えるドラゴンの姿をまじまじと眺めていた。その瞳は、恐怖よりも好奇心で溢れている。なんという度胸の持ち主だろう。つい感心してしまうが、今はそれどころではない事に気付いて私は彼女の背中を押した。
「早く逃げましょう、マリベルさん!!」
「あっ、梨乃さん、ちょっと待って……」
「待てません!!相手はドラゴンですよ!?」
既に、私達の周りに人の姿は無い。がらんどうになったテントの屋根だけが、ハタハタと頼りない音を立てて靡いている。
この街には魔術師が多いはずなのに、誰一人としてドラゴンに立ち向かう気がないらしい。逃げ足だけは速い彼らに向かって、つい叫びたくなる。しっかりしろ魔術師!! と。
ドラゴンは私達の姿に気が付くと、美しく鋭い緑の瞳を細めた。途端に立ち昇る殺気。
背筋に、いやな冷汗が流れた。
あいつ……私を狙っているな。
旅の間に鍛えられたのは、体力だけではない。敵の動作や気配を察知する観察眼も、十分に備わった。だから、何となく分かってしまうのだ。目の前の敵が、誰を狙って、何を仕掛けてくるのか。
現に、このドラゴンは私だけを視界に捉えている。その瞳から読み取れるものは――怒りと殺気。
恨みを買った覚えはないが、救世の聖女という立場上、私には敵が多い。
以前に壊滅させた邪教崇拝組織の残党か、それともベルゼブの手先の者か。思い当たる節は多々ある。
何にせよ、これはまずい。せめて、マリベルさんだけでも逃がさないと……。
「マリベルさん……あいつの狙いは、多分私です。私が引き付けますから、その間に逃げて下さい」
「待って、梨乃さん。違うの、あの子は……」
早く逃げるよう促す私に、しかしマリベルさんはそう言うと、ドラゴンの前に立ち大きく手を広げた。
「な、何やってるんですか!?」
「大丈夫。あの子は……敵じゃないわ」
敵じゃない?
訳が分からずに呆然と立ち尽くす。そんな私を庇ったまま、マリベルさんは目の前のドラゴンに向かって言ったのである。
「さあ、元の姿に戻ってご挨拶なさい!!梨乃さんは、わたくしの家族になる方。無礼な振る舞いは許しませんよ!!」