第17話 遠キ故郷ヲ想フ
※シリアスパート
ラグナをよろしくお願いしますね、梨乃さん――。
マリベルさんからそう言われた後、私は思い切り泣き出してしまった。
涙だけが溢れるなら構わなかったんだけど、一緒に鼻水まで垂らしてしまい、マリベルさんが慌てて拭ってくれた。本当に子供みたいだ。
おかげで、高級ハンカチーフが一枚無駄になってしまった。
いや、誠に申し訳ない……。
こちらこそよろしくお願いします。
そう言いたかったのに、喉がしゃくりあげて言葉にならない。そんな私を見て、マリベルさんも少し涙目になっていた。
私は本当に幸せ者だ。
アルバートさんやマリベルさん、そしてラグ――。こんなにも優しい人達に、囲まれているんだから。
この事を、家族に伝えてあげたい。
お父さん、お母さん。あなた達が生んでくれた娘は、今こんなにも幸せです。だから心配しないで、って。
――私はその夜、遠い故郷にいる家族へと思いを馳せた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私には、両親と兄、姉がいる。
大崎家の末っ子として生まれた私は、随分と甘やかされて育った。炊飯器や洗濯機の使い方も知らなかったし、わがままを言ってもすんなりと通った。根性無しの甘えん坊、それが以前の私だった。
だから、旅を始めた頃は本当に大変で。
風呂無しの野宿は当たり前だったし、食べ物だってまったく未知のものだから、食事すら億劫だった。
それでも、人間の適応力とは侮れない。二ヶ月も経つと、森に生える木の実や果物を平気で食べられるようになっていたし、仲間が動物を仕留めたときには喜んで干し肉を作り、皮や牙を売りに出し旅費を得ていた。
まったく逞しくなったものだ、と思う。生まれてこの方、キャンプもしたことの無かった私が、気付けば砂埃にまみれた立派な冒険者になっていたのだから。
今の私の姿を見て、家族は何を思うだろう。立派になった、と言ってくれるのだろうか。
私は故郷を捨て、家族を捨てた。この異世界を『選んだ』、と言えばまだ聞こえはいいのだろうが、つまりはそういう事なのだ、と思っている。
家族は心の中にいる。たとえどれだけ離れていて――もう会えないのだとしても。でも、それは私のエゴだ。自己勝手な解釈でしかなく、そして残された家族にとっては辛く悲しい事でしかない。
それを知っていながら、今の私はこの世界を選んだことを後悔していない。時々、少し寂しくなるけれど、その感情も私が掴んだものだから。
それでも一つだけ……たった一つだけ、心残りがあった――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
涙と鼻水でグショグショになった私は、そのままお風呂を借りて綺麗さっぱりと洗い流した。
気を抜くと、また泣き出しそうになるけど、温かな湯に浸かっているうちに落ち着くことができた。
マリベルさんに案内された客室へ向かうと、そこには既にラグの姿があり、ベッドに腰掛けながら分厚い魔術書を読み耽っていた。
私の気配に気付いたラグは、静かに顔を上げる。それから自分の隣をポンポンと叩いた。隣へおいで、と言っているようだ。
断る理由もないので、それに従いベッドに座る。すると、ラグは私の顔を見つめて、頬を軽くつねった。
「やめろよー。ほっぺた取れちゃうだろー」
「……泣き止んだみたいですね」
「え?」
「母から聞きました。貴女が泣き出して大変だったと、笑っていましたよ」
「うっ……」
マリベルさん、ラグに話したのか……。なんだか少し恥ずかしいな。
私が所在なさげにもじもじしているその横で、ラグは再び魔術書を手に取った。ページを開き、また読書に耽るのかと思いきや、どこか神妙な面持ちで本を閉じてしまう。
何かを言いよどんでいる。それを感じて、私はラグを見上げた。
「……いいのですか?」
「何が?」
「師匠――いえ、父や母は、貴女のことを娘だと思っています。しかし貴女にとっての両親は、故郷にいる方達だけでしょう? 娘として扱われる事に、抵抗はありませんか?」
ラグ、そんなことを考えていたんだ。
珍しく言葉を選びながら話す彼の姿に、愛おしさが湧き上がる。ラグは、私を故郷から切り離したことに対して、申し訳ないという気持ちを抱いている。そして、私の家族に対しても――。
だからこうして、私の気持ちを量ってくれたのだ。
私はラグの肩にもたれかかると、小さく息をついた。落ち着く場所だ。今の私にとって、一番大切な居場所。
「ラグ……私ね、凄く嬉しいんだ」
大きな手が、私の髪を撫でる。
「だって、ラグのことを大切に思ってくれる人達と家族になれるんだよ。この世界では、もう得られないものだと思っていたのに。アルバートさんやマリベルさんに娘だと思ってもらえることも――ラグのお嫁さんになれることも、本当に嬉しい」
「梨乃……」
ラグの腕が、私を包み込む。優しい香りが胸いっぱいに広がって、くらくらする。心臓が高鳴って、全身で彼への想いを叫んでいる。ラグ……私の大好きなひと。本当に、本当に大好き。
「私は絶対ラグを離さないから。だから、ラグこそ覚悟してよね。お料理も頑張るし、良いお嫁さんになるから……私を離さないでね」
「望むところです」
私達は小さく笑い合って、そしてゆっくりと唇を重ねた。
二人だけの、誓いのキス。お互いが離れないように、何度も確かめ合いながら。
「……此処が実家でなければ、今すぐに貴女を抱きたいのですがね」
「えっ?」
「どこで聞き耳を立てられているか、分かったものじゃないですから」
「あは、そうだね」
そうしてまた、私達は笑う。こうしてずっと幸せに暮らそう。どんな日常だって、それが私達の道になるのだから。
お父さん、お母さん。
お兄ちゃん、お姉ちゃん。
私、この世界でお嫁に行きます。
今まで育ててくれて、本当にありがとう。そして、親不孝な娘でごめんなさい。
私の大切なひと――ラグを紹介できないこと。それが私の、唯一の心残りです。