第11話 誰様俺様魔王様
あまりにも突然の出来事に、私は一瞬何が起きたのか分からず、ポカンと口を開いた。
遠く彼方に行きかけた思考を慌てて呼び戻し、目の前の惨劇に気付く。
「ま、窓が割れちゃった……」
「お前が早く玄関開けねーから……って違う!! そんな事はどーでもいい!!」
「どうでもよくないっ!!住み始めて二日しか経ってないのに!! 」
これは一体何の嫌がらせだ。いや、嫌がらせにしても程がある。
私は目の前の男を思い切り睨みつけた。
年の頃は私と同じか少し上に見える。褐色の肌と長い黒髪を持つその男は、やたらと尊大な態度で仁王立ちのまま私と向かい合っている。
おい、おまえは胸を張れるような事を何一つとしてしていないぞ。どうしてそんなに偉そうなんだ。
…………。正直、関わりたくない。
「はぁ……ガラスの破片集めないと」
「おい」
「ラグが帰ってきたら直してもらえるけど……」
「無視するな!! 梨乃、俺様に覚えはないのか!?」
覚え? 人様の家に、窓ガラスを割ってまで突入してくるような俺様男に、覚えなんてあるもんか。 ていうか、勝手に人の名前を呼ぶんじゃない。知り合いだと思われたくない。
「生憎だけど、貴方のような人間と知り合いになった記憶もございませんし、覚えもございません。窓ガラスを割ったことは大目に見ますので、早くここから出て行って別のリノさんを探す事をおすすめします」
「い、いきなり他人行儀な言葉遣いはやめろっ」
お、地味にショックを受けている。……ちょっと面白いかも。
内心でほくそ笑む私を横目に、男は大きな猫目を伏せて、悔しそうに拳を握る。
「俺様はなぁ……お前に会うためだけに、こんな胸糞悪い街までわざわざ来たんだぞ……」
「ああ、それはご苦労様でした」
「お前、本っ当に俺を覚えていないのか?」
「うん。全然、まったく、これっぽっちも」
一ミクロンほども覚えは無い。
男は呆然と私を見つめていたが、やがて気を取り直すと、咳払いをして再び胸を張った。だから、その無駄に偉そうな態度はやめなさいよ。無性に腹が立つぞ。
「ふん。いいだろう。そこまで言うなら俺様の名前を教えてやる」
いや、そこまで言うも何も、名前を教えて欲しいなんて一言も言ってないんだけど……。
「俺様はベルゼブ。最強にして最悪の、魔王様だ!!」
……。
…………アイタタター。
だだ滑り。ただ滑りだよ、その自己紹介。
私が言葉を失っているのを見て、男は――自称・魔王のベルゼブ君は、何を勘違いしたのか満足そうに笑った。
「フハハハ!!恐ろしさに言葉も出ないようだな!!」
「うん……なんて言うか、その、別の意味で恐ろしいわ」
「そうだろう。俺様は恐ろしい魔王なんだ。どうだ、思い出したか、梨乃!!」
「うんうん、魔王ね、魔王。凄いねー怖いねー」
パチパチパチ、とやる気の無い拍手を送る。
「……お前、馬鹿にしてないか?」
「いや、別に?」
「視線を逸らすな。こっちを見て話せ」
「はいはい。で、その魔王様が一体何の用かな?」
「絶対馬鹿にしてるだろ!!」
いや、だってねぇ……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ベルゼブといえば、この世界では知らぬ者のいない悪名高き魔王の名前だ。
人の負の感情から生まれた魔王は、世界を闇の力で覆い恐怖の底へと陥れた。大地は疲弊し、人々から希望を奪い、全てを暗闇に染める。絶望の象徴ともいえる存在だった。
そんな魔王を打ち倒し、世界を救ったのが聖女と仲間達――私やラグといった、旅の一行だった。正確に言えば、倒したのではなく『封印』なのだが。
人に感情がある以上、それから生まれた魔王を完全に滅ぼす事は不可能だ。だから私達は、糧となる負の感情が届かない虚無の世界に、魔王を封じた。
――その筈だった。
「苦労したんだぜ。意識体だけを飛ばしたのはいいが、虚無の世界が深すぎてなかなか抜け出せないし。ようやくこの世界に戻って来れたと思ったら、今度は身体が無いし。仕方が無いから、適当なのを見繕ってとりついたんだけどな……まあ、人間にしては結構いい姿だろ?ちょっと若いけど」
黙々とガラスの破片を片付ける私の傍らで、聞いてもいない事をペラペラと喋っている自称・魔王。
彼の言葉の信憑性は、極めて高かった。だって、『虚無の世界』や『封印』のことは、私達旅の仲間とファルスのごく一部の王族しか知らない事だから。
民衆は、魔王を倒したという事実しか知らされていないのだ。
でも、にわかには信じられない。
彼からは、あの魔王から感じた禍々しさというものが、少しも見当たらない。しかも、この砕けた口調……。偉そうなことに変わりはないが、以前の魔王の言葉には、人を圧倒させる力があった。
「なあ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。それでその魔王様が、一体私に何の用? お礼参りに来たってわけ?」
「よくぞ聞いてくれた!!」
うんざりして訊ねると、ベルゼブは嬉しそうに身を乗り出す。まともに会話をしたことがそんなに嬉しいのか? 黒曜石にも似た大きな瞳を輝かせる姿を見て、犬みたいだな、なんて考えてしまった。
こいつ……ちょっと可愛いじゃないか。
「今の姿でも悪くはないと思うんだけど、こいつ、魔力が全然無くてさー。ちょっと不便してるんだよな」
「へー、大変ね」
「そうそう、大変なんだよ。だからさ、復活させてほしいんだよね、俺様の事」
「は!?」
何を言っているんだ、こいつは。
この男が本物の魔王であれ偽者であれ、その頼みを聞くわけにはいかない。
「あのね……そんなこと、私がするわけないでしょ」
「何で? あの堕落した世界に戻れるんだぜ? 最高じゃん!」
「一人で勝手に堕落してればいいじゃない。変な事に巻き込まないでよ。大体、復活させる方法なんて無い――……」
「――あるんだな、これが」
ベルゼブはそう言うと、ニヤリと笑った。口元から、鋭い犬歯が覗く。
……なーんか、嫌な予感。
そう思い、身構えたのも束の間。次の瞬間、私の身体は押し倒され、床に縫い付けられてしまった。
「聖女が闇に堕ちる時、封印の枷は解き放たれる。つまり――分かるよな?」
「……さっぱり分からないよ」
「気の強い女は好きだぜ、梨乃。……はっきり言ってやる。俺のものになれ、救世の聖女。再びこの世界を闇に染めようぜ」