番外編 とある魔術師の【約束】の記憶
本編よりも本編らしい番外編。
ラグナ視点。シリアスの為、注意。
彼女と旅をしていた時のことは、今でもよく覚えている。
ワラワヘムの神託により、この地へ来る事を定められた少女。自らの世界から切り離され、この世界の為に尽くす事を定められた少女。一人きりで苦しみに耐えることを定められた少女。
異国の響きを纏うその名は、リノ。
私と彼女の出会いは何を意味して、そして何を齎すのか。その時はまだ、知る者はいない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗く湿った牢の中で、ラグナ・ラグリーズは小さく息をついた。
カビの臭いが充満する空気は、一呼吸しただけでも肺が蝕まれそうになる。壁際に並んだ燭台の上には、頼りなく燃えている蝋燭の炎。その灯りも、どこからか吹き込む隙間風によって、今にも消えそうなほど揺らいでいた。
冷たい石壁に囲まれた其処は、およそ人が留まるべき場所ではない。
こんな少女ならば、尚更――。
(聖女となるべくこの地へ召された者に、このような仕打ちを与えるとは。大国と名高いファルスも、王の心は矮小であったか)
内心で軽蔑の言葉を吐きながら、ラグナは目の前の少女を見つめた。
鉄格子の向こう、壁にもたれて項垂れている姿が痛々しい。
「気分はどうですか?」
彼女の心を刺激しないよう、優しく声を掛ける。だが、牢に響く自分の声は、どこか無機質なように思えた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
混乱、憔悴――先程まで彼女を支配していた感情は消え、今その瞳に浮かんでいるのは、絶望。薄闇の中に浮かぶその姿は、哀れなくらい無気力で、まるで魂が抜けてしまったかのようだ。
「……最悪、です。どうして私が、こんな目にあわなきゃいけないの……?」
ぽつり、と掠れた声が聞こえる。
異国の服を纏った少女の剥き出しの膝には、血を滲ませる生傷が幾つも見えた。
相当手荒に、この中へ放り込まれたのだろう。
王への暴言、それがこの少女の罪。不敬は、この国にとって重罪にあたる。
少女――異世界より召喚された聖女となるべく彼女は、あまりに突然の出来事に取り乱し、罵りの言葉を上げたのだ。
無理も無い、とラグナは思う。自らの世界から切り離され、訳も分からぬうちに見知らぬ場所へとやって来たのだから。
「申し訳ありません。この城の兵士は、力の加減を知らぬ者ばかりですから」
「申し訳ないって思うなら、私を帰してよ……」
「それは出来ません」
何度目になるか分からない少女の嘆願を、ラグナははっきりと拒絶する。
「貴女は神託によって選ばれた聖女。どうか使命を果たし、この世界を救って頂きたいのです」
「またその話……? 何度も言っているけど人違いよ。私が聖女なわけ、ないでしょ……ここが異世界ってだけでも、頭がおかしくなりそうなのに」
少女はそう言って頭を抱えた。
涙を隠そうとしているのだろう。嗚咽を必死に堪え、震える手を固く握っている。
「この世界、おかしいよ。自分達の世界を守る為なら、関係の無い人間を巻き込んでもいいって、当たり前のように思ってる……そんな事が、許されてる……」
おかしい。その言葉はもっともであった。
しかし、世界を救う為に彼女が――聖女が必要な事も、ラグナは理解している。
だから、非情な選択を迫るほか無い。
「では、ここに留まりますか? それとも、逃げますか?」
呟くように詠唱すれば、一瞬にして牢屋の錠が解けた。ギィ、と耳障りな音を立てて、重厚な鉄の扉が開く。
ラグナの真意が分からずに、少女は驚きに目を瞠る。
「逃げても、いいの?」
「逃げられるものなら。すぐに追手はかかるでしょう。それに、どこへ逃げても今の世界に安らげる場所はありませんよ。闇の力は聖女たる貴女を見つけ出し、必ずやその存在を消そうとするでしょうがね……」
「どこへ逃げても同じ、か……」
少女の表情が、益々暗く沈む。
我ながら酷いものだ、とラグナは自嘲する。独りこの世界に放り込まれ、心細い思いをしている彼女に、こんな事しか言えないとは。
だが、今の少女を無理矢理旅に連れ出したとしても、世界は救えない。剥き出しの負の感情は闇に魅入られ、いずれは心を蝕むだろう。
だから、自ら道を選ばせる。
逃げ道を周到に潰し、その選択が最善なのだと思わせる為に。
「もし……もし私が世界を救う事ができたら……元の世界に帰してくれる?」
「貴女が望むのであれば」
帰還の魔術は、まだ確立されていない。
しかし、ラグナは少女に誓った。それが、彼女をこの世界へと召喚してしまった自分に出来る、唯一の罪滅ぼしだ。
必ず彼女を元の世界へと帰してみせる。
「さあ、どうしますか? 選ぶのは――貴女の意思です」
たとえその答えが、見えない手によって導かれたものだったとしても――聖女は、自らの意思で歩かなければならないのだから。
「約束、してくれる?」
「はい。必ず」
「……私に、世界が救えるのかな?」
「お手伝いします。貴女を守り、支える事を誓いましょう」
旅の結末が、どんなものになろうとも。
「分かりました……貴方を、信じます」
差し出されたラグナの手を、少女が握る。苦労を知らない、小さな手だった。
そしてこの瞬間より、彼女の運命は決められた。世界の期待を一身に背負う、救世の聖女としての運命が。
番外編『とある魔術師の~の記憶』は基本的にシリアスな感じで進みます。
本編の補足的なものとしてご覧下さい。