名前を呼ばれなかった瞬間
「私をそんな風に呼ばないで」
彼女はそう言った。こちらを一つも見ずに、小さな彼女の小さな背中が伸びるのが僕には見える。
「……私達、そういう関係じゃもうなくなるのよ」
固く、選んだ言葉が空気を満たす。
彼女のことを僕は渾名で呼んでいた。付き合っていた時には関係の変化など想像した事すら無かった。彼女はそんな能天気な僕を嫌っているだろうか。背中は何も語らない。正面を確認して答えを聞くことも僕には出来ない。
「変わりたくないとか思ってる?」
「……」
「辞めてよ。私だって初めてなのよ。あなたとの関係がこんな風になるなんて」
彼女の腕にぐっと力が満ちる。僕に痛みが伝播する。
「もっと良い気持ちになるものだと思っていたよ」
「違ったのか?」
「あまり何も変わらないように私は感じている」
「それは少しばかり寂しいな」
「今だけかも知れないよ。今はそう。現実味が無くて受け止めきれていないのかも」
さらに彼女の腕に力が籠っていくのが分かる。声に少し涙腺のゆらめきが聞こえる。
何を僕は彼女に言うべきだろうか。
率直な気持ちは僕の中で川水のように流れて、掴みどころなく行ってしまう。だからもっと簡単な言葉で、ゆらめきを合わせて。
「結婚したんだね、僕たち」
僕の腕の中に包まれる小さな彼女。上から見える唯一の背中は穏やかに力を抜いていく。
「うん」




