第六話 満州事変編(下) 〜正当性の市場〜
一、ホワイトハウス
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
大統領執務室の空気は、煙草の煙で霞んでいた。
フランクリン・ルーズベルトは、車椅子に深く沈み込みながら、窓の外を睨んでいた。
「日本の動きはどうだ」
国務省の役人が報告書を開いた。
「国連経由の抗議が想定以上に軽かったためか、増長しています。関東軍は満州全域で支配を固めつつあり——」
「くそっ」
ルーズベルトが机を叩いた。
「蒋介石に連絡しろ。必要なものがあれば何でも工面してやる。武器でも金でも顧問団でも、何でもだ」
「かしこまりました」
役人が退室しようとした、その時だった。
別の役人が、血相を変えて飛び込んできた。
「大統領、大変です」
「騒々しい。どうした」
「日本が——リットン調査書に基づき、一部譲歩を宣言しました」
ルーズベルトの眉が跳ね上がった。
「譲歩だと?」
「はい。満州国は新京を中心とした一部地域のみとし、満州一帯は日本による信託統治とする——だそうです」
沈黙が落ちた。
ルーズベルトの顔から、血の気が引いていく。
「な……何だと」
「言葉だけを見れば、"撤退"に見えます。満州国を縮小し、国連の調査結果を尊重した形を取っている」
「まずい」
ルーズベルトが呻いた。
「非常にまずい。——諸外国の動きは?」
「はっ。現在、中華民国とイギリスが徹底抗戦の構えを見せていますが、フランスおよびソ連は無反応。興味を失ったようです」
「くそっ」
ルーズベルトは車椅子の肘掛けを握りしめた。
「"勝手に作った国"が悪いんじゃない。あいつらは"国際の判子"を取りに来た。判子を押されたら、次は誰も止められん」
「大統領——」
「我が国も徹底抗議の構えを見せろ。このまま国連の調査書を受け入れられては、非常にまずい」
二、連鎖
それから数日後。
役人が再び飛び込んできた。
「た、大変です。とんでもない事態になりました」
「今度はどうした。まさか日本軍が撤退でもしたとか言うんじゃないだろうな」
「それが——ユダヤ人難民の全面受け入れを表明。つきましては諸外国には支援を求む、だそうです」
ルーズベルトは一瞬、言葉を失った。
「……何だと?」
「欧州で迫害されているユダヤ人に、満州での居住地を提供する。その見返りとして、各国に資金と物資の支援を求めています」
「冗談じゃない」
ルーズベルトが吐き捨てた。
「なんで我が国が、あんな泥棒国家に支援なんぞしなきゃいけないんだ」
「しかし——」
役人が書類をめくった。
「フランスはすでに支援を表明しており、イギリスはかなり動揺しているようです。ドイツは旅費のみという条件で支援を発表しました」
「ふざけるな」
ルーズベルトの声が低くなった。
「道徳カードを奪われた。——ユダヤ人を救う国を、誰が悪者にできる?」
「大統領……」
「すぐに中国に武器弾薬を送れ。今の倍だ。徹底的に圧力をかけろ」
* * *
さらに数日後。
「大変です……」
「またか。もう聞きたくないんだが、今度は何だ」
「日本が議員団を引き連れてモスクワに行きました。スターリンと会談したいとのことです。名目は日ソ平和会議だそうです」
ルーズベルトの顔が凍りついた。
「日本は……まさかソ連と手を組む気か?」
「分かりません。ただ、会談は友好的な雰囲気で進んでいるとの報告が——」
「ありえん。だが、もしそうなら……」
ルーズベルトは言葉を飲み込んだ。
日本とソ連が手を結べば、極東の勢力図が一変する。中国を挟み撃ちにすることも可能になる。
「……続報を待て。一挙手一投足を逃すな」
* * *
それから一週間。
報告は立て続けに入ってきた。
「大統領、最新情報です」
「何だ」
「ロンドン証券取引所で満鉄株三十パーセントが売り出されました」
「……何?」
「さらに、満州国で国際平和都市宣言を世界に発表。ユダヤ人居住区を"イスラエル市"と命名し、各国の投資を呼びかけています」
ルーズベルトは黙った。
声が出なかった。
「続報です」
別の役人が駆け込んできた。
「フランスを仲介に、満州で第一回東アジア国際会議が開かれるそうです。参加国は日本、イギリス、フランス」
「……我が国は?」
「招待されていません」
沈黙。
重く、長い沈黙だった。
「大統領——」
「……分かっている」
ルーズベルトは目を閉じた。
「あいつらは、我々を外した形で"列強のお墨付き"を作ろうとしている。日英仏で満州を認めれば、アメリカだけが反対しても意味がない」
「どうされますか」
「……」
その時、また別の役人が入ってきた。
「大統領、マンハッタンの金融街が動き出しました」
「……何だと」
「満鉄株の購入に関心を示す投資家が複数現れています。ユダヤ系資本を中心に——」
ルーズベルトは、ゆっくりと目を開けた。
その目には、怒りと、そして——わずかな恐怖が宿っていた。
「……してやられた」
三、答え合わせ
同じ頃、東京。
矢島事務所では、哲太が新聞を広げて首を傾げていた。
「しっかし驚きました。いきなり満鉄株を売り飛ばすって言い出したんですから。大丈夫だったんですか?」
クーゴが肩の上で欠伸をした。
矢島は椅子に深く沈み込み、煙草をふかしていた。
「いや、一つ間違ったら撃ち殺されてた」
「えぇぇ……」
「だが、まあ何とかなった。結果オーライだ」
哲太は呆れたように言った。
「もっと安全な方法なかったんですか?」
「うーん」
矢島は煙を吐き出した。
「ここまでこじれると、盤面をひっくり返すにはかなり危険な橋を渡るしかない。日本はあの一帯の水道、ガス、電気、道路、すべての権益を持ち、統治も事実上日本だ。だから満鉄株を一部売り出す程度ならなんとかなるだろう、ってな」
「だろうって……そんないい加減な……」
「でも食いついた」
矢島は煙草を灰皿に押しつけた。
「国際金融が動き出した。もしすべてを日本だけで維持しようとした場合、確実に破綻していた。そしてその破綻を防ぐために、日本は中国はもとより東南アジアまで無理やり奪いに行くしかなかっただろうな。そうなれば世界大戦だ」
矢島はやれやれと肩をすくめた。
「だからお膳立てしてやったのさ。魚が食いつきたくなるようにな」
哲太は首を傾げた。
「うーん、よく分かんないです。でも一つだけ教えてください」
「何だ」
「師匠、言ってましたよね。軍が欲しいのは満州国じゃないって。じゃあ、何が欲しかったんですか?」
矢島は窓の外を見た。
しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「正義だよ」
「……正義?」
「ああ、そうだよ」
矢島は立ち上がり、窓際に歩いた。
「軍ってのは、正義の名のもとに国民を救いたいんだ。だから正義を与えてやった。リットン調査書の穴を突いて国連のお墨付きを与えてやり、満州国は国際会議に列強を招待することで、あの地域を守る理由、権利——すなわち正義を与えてやったのさ」
「なんかすごいスケールの話ですね」
「そうだな」
矢島は振り返った。その目は、どこか遠くを見ていた。
「正義を夢見て、正義を追い求め、正義をあきらめた男が、他人に正義を与えてやる。——本当に滑稽な話さ」
「え? それ誰ですか?」
「さあな」
矢島は窓の外を見たまま、それ以上は何も言わなかった。
クーゴが「にゃ」と鳴いた。
哲太には、師匠が何を言いたかったのか、分からなかった。
ただ、その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
四、代償
しばらくして、矢島が口を開いた。
「だが、勝ったわけじゃない」
「え?」
「盤面をひっくり返しただけだ。関東軍の暴走は止めた。だが、その代わりに——世界中を敵に回した」
矢島は窓の外を見た。
「アメリカは怒っている。中国は団結し始めている。イギリスとフランスは金で釣ったが、いつ裏切るか分からない。ソ連は……あいつらは信用できない」
「じゃあ、これから——」
「問題はここからだ」
矢島の声が低くなった。
「中国が本気で取り返しに来たら、軍事衝突は避けられない。アメリカが中国を全面支援すれば、日本は干上がる。ソ連が裏切れば、挟み撃ちだ」
「……どうするんですか」
「分からん」
矢島は首を振った。
「今は、時間を稼いだだけだ。その時間で、次の手を考える。——だが」
矢島は振り返った。
「一つだけ確かなことがある」
「何ですか」
「——次に死ぬのが誰か、まだ決まっていない」
クーゴが、また「にゃ」と鳴いた。
不安を嗅ぎ取ったような、小さな声だった。
五、嵐の前
昭和八年、春。
日本は、一つの賭けに勝った。
満州事変という暴走を、国際社会と資本の網で囲い込み、これ以上の拡大を食い止めた。関東軍には正当性という名の首輪をつけ、イスラエル市という奇妙な都市を作り、世界の目を集めた。
だが、それは終わりではなかった。
中国では、蒋介石が急速に軍備を増強していた。「満州を取り返せ」の声は日に日に高まり、国境では小競り合いが続いていた。
アメリカは中国への支援を強化し、金融と世論で日本を締め上げ始めた。
イギリスとフランスは、満鉄株と引き換えに日本側についたが、その忠誠は金でできている。金の切れ目が縁の切れ目だ。
ソ連は笑顔で握手しながら、いつでも裏切る準備をしていた。
そして、満州国とイスラエル市の間でも、早くも軋轢が生まれ始めていた。同じ土地に二つの夢を植えれば、やがてぶつかる。それは必然だった。
* * *
矢島達也は、事務所の窓から夜空を見上げていた。
大正デモクラシー。米騒動。鈴木商店倒産。そして満州事変。
二十年近く、この国の危機と向き合ってきた。その度に、汚い手を使い、泥をかぶり、正義を曲げてきた。
それでも、最悪は避けてきた。
だが——。
「……次は、どうなるか分からんな」
矢島は呟いた。
世界は、新しい嵐に向かって動き始めていた。
日本が避けた戦争は、別の形で、別の場所で、やがて姿を現すだろう。
歴史を変えることはできた。
だが、歴史の"構造"を変えることは、できなかったのかもしれない。
戦争は、一つの原因から生まれるのではない。無数の利害と恐怖と欲望が絡み合い、誰にも止められない流れとなって、やがて世界を飲み込む。
矢島達也という男は、その流れに楔を打ち込んだ。
だが、流れそのものを止めることは、できなかった。
* * *
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
嵐の前の、束の間の静けさだった。
(満州事変編・下 了)
——歴史改変物語 完——




