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歴史改変物語 第五話 満州事変編(上) 〜山賊たちの凱歌〜

挿絵(By みてみん)

一、号外


昭和六年、秋。

哲太が事務所に駆け込んできたのは、夕暮れ時だった。


「師匠! 今、駅前で号外配ってたんでもらってきたんですが——」


三十四歳になった哲太は、相変わらず肩に白猫を乗せている。クーゴは少し毛並みに白いものが混じってきたが、まだまだ元気だ。親子三代続く「肩乗り猫」の血は健在である。


「関東軍の雄姿が語られてます。これって師匠が前から調査してた案件ですよね?」


哲太は号外を差し出した。


「関東軍って……正義だったんですか?」


矢島は号外を受け取り、目を通した。

その瞬間、顔色が変わった。


「何だ……何だこの新聞の内容は……」


矢島が机を叩いた。書類が飛び散る。


「くそっ、くそっ、ふざけんな!」


普段は飄々として冷静な矢島が、感情をむき出しにしている。哲太は、そんな師匠を見てどうしてよいのか分からず、立ち尽くした。


事務所の空気が凍りついた。立花も岸田も、誰も声を出せない。クーゴだけが、不安そうに「にゃ」と鳴いた。



二、山賊


ひとしきり暴れて、矢島はようやく椅子に沈み込んだ。

しばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。


「……三年前、満州の支配者である張作霖を関東軍が暗殺した事件は、以前話したな」


「はい。ニュースにもなってないので詳しくは知りませんけど」


「子供だって分かる話だが、後を継いだ張学良は怒り狂い、関東軍と対立して一触即発の状態だった。こっちも分かっていながら、海の向こうで手の打ちようもなく手をこまねいていたんだが——とうとうやりやがった」


矢島は号外を握りつぶした。


「国民党側のせいにしてはいるが、十中八九、関東軍の連中のせいだ」


「……そうなんですか?」


「タイミングが良すぎる」


矢島は窓の外を見た。


「二年前に世界恐慌が起こり、井上さんが緊縮財政で軍部の予算を大幅カットした。その結果どうなると思う」


「そりゃ……軍部は苦しいでしょうね」


「ああ。特にたまらないのは外地の連中——とくに朝鮮以北、すなわち関東軍だ。予算ってのは中央軍部が握っているから、優先順位は内地の都市部、その後が田舎、そして最後が外地だ。今、対立が激化している関東軍が、一番予算削減のあおりを食らっちまってる」


矢島の声が低くなった。


「そうなると、どうなるか分かるか」


「……信用しなくなる?」


「そうだ」


矢島は立ち上がった。


「もうあいつらは日本政府を何も信じない。言うことも聞かない。ただの山賊だ。いや、ただじゃないな。最新鋭の装備で武装した、武装テロ集団だ」



三、演出家の裏切り


「テロ……」


「ただ、それでも本来ならまだ何とかなった。しかし今は違う」


矢島の目が、暗く沈んだ。


「世論が、向こう側についた」


「というと……新聞?」


「そうだ」


矢島は号外を机に叩きつけた。


「あいつら、俺たち日本政府を見限って、軍部にしっぽを振りやがった。日本政府の記事を書くより、関東軍の記事を書いたほうが売れるって気づいたのさ」


かつて矢島は、新聞を「演出家」と呼んだ。

光も闘も、当てたいところに当てる。だから怖い。だが、怖いからこそ使える——そう言っていた。


その演出家が、今度は軍部の側に立った。


「関東軍の雄姿」「満州の夜明け」「皇国の栄光」——刺激的な見出しが紙面を踊り、国民の心を掴んでいる。

挿絵(By みてみん)

「もうこの国は終わりだ」


矢島の声は、諦めに満ちていた。


「あんなテロ集団にこびへつらうようになったらな……」


「何とかならないんですか? 先生のいつもの突破力で何とか——」


「ない」


矢島は首を振った。


「何もない。今や関東軍が日本政府で、我々日本政府が関東軍の下部組織になっちまったんだよ。もう止められない……」


哲太は言葉を失った。

こんな師匠を見るのは、初めてだった。



四、リットン報告


その後、矢島たちは軍部や外務省へ働きかけたが、色よい返事は得られなかった。

年末、高橋是清の金本位制離脱により経済状況は徐々に回復し、社会はやや元気を取り戻した。


だが、世論を味方につけた軍部の増長は止まるところを知らず、政府は軍部の追認機関と化していった。


そして翌年——昭和七年の秋。

国際連盟より派遣されたリットン調査団が報告書を提出した。


*  *  *


矢島は報告書の写しを読み終え、机に置いた。


「……はぁ」


深い溜息だった。


「やっぱり関東軍のやらせか。そりゃそうだろうな」


リットン報告書は、柳条湖事件が関東軍の自作自演である可能性を強く示唆していた。日本の主張は国際社会に通らない。このまま突き進めば、国際連盟からの脱退は避けられない。


「もう後は、運を天に任せて走るしかないか。もういい、もうどうにでもなればいい……」


完全に自暴自棄になっている矢島を、哲太たち事務所の面々は心配そうに見つめていた。


立花が小声で言った。


「……先生、あんな顔は初めてですね」


「ああ。俺も初めて見る」


岸田が頷いた。


その時だった。

哲太が突然、頭を抱えて呻き始めた。


「い、痛い……頭が……」



クーゴが不安そうに鳴く。

矢島が振り返った。


——まさか。こんな状態で何かあるのか? 何か、一発逆転の——。


「かぶ……しき……こうかい……」


「株? 株式公開するのか? 何の株だ、なあ哲太、哲太何とか言え」


「……いすらえる……」


哲太の口から、奇妙な言葉がこぼれ落ちた。

矢島の目が見開かれた。


——イスラエル? 聖書に出てくる古代ユダヤ人の国……ユダヤ!


矢島の頭の中で、断片が繋がっていく。

今、欧州ではユダヤ人への迫害が激しさを増している。ドイツでは反ユダヤの空気が日に日に強まり、多くのユダヤ人が居場所を失いつつある。


そして、ユダヤ人の中には莫大な資本を持つ者も多い。彼らが行き場を求めているなら——。


「そうか」


矢島が呟いた。


「シオニズム、反ユダヤ、"ユダヤ問題"を外交カードに使う……」


「師匠?」


「欧州で迫害されているユダヤ人に居場所を用意する。そうすれば、ユダヤ資本が味方につく。英米の世論も分断できる。——でかしたぞ哲太」


「え? 俺なんかまたなんか言いました? 何言いました?」


矢島は答えず、立ち上がった。

その目に、光が戻っていた。


「ああ、ナイスだ。すぐに動く。外務省に行くぞ。立花、準備しろ」


「はっ!」



五、陸軍省


数日後。

陸軍省の応接室は、煙草の煙で霞んでいた。

挿絵(By みてみん)

矢島の前には、荒木貞夫陸軍大臣が座っている。その後ろには、軍服姿の参謀たちが控えていた。


矢島の背後には、外務省、大蔵省、商工省の高官たちが並んでいる。異例の陣容だった。


荒木が口を開いた。


「はてさて、外務省、大蔵省、商工省のお偉方を引き連れて、いったい何しに来たんですか?」


荒木の目が細められた。


「鈴木商店を日本から消した男が、今度は満州国を消そうとでもいうのかな? 自分の命は、もう少し大事にされたほうがよろしいかと」


「ああ、もっともだ」


矢島は淡々と答えた。


「俺は政治屋だが、喧嘩屋じゃない。できることなら、安全なところで温かいコーヒーでも飲みたいものだ。だが、安全なところが日本中探してもどこにもないから、ここに来てやった」


「ほほー、それは物騒ですな」


「まあ、まずは話を聞いてから、おたくらがどうするか決めてもいいんじゃないか? 時間に余裕はないが、せいぜい小一時間くらいの時間は取れるだろ」


「そうだな。お偉さん方がぞろぞろおいでくださったんだ。お茶を飲むくらいの時間の余裕はあるさ」


荒木は余裕の笑みを浮かべていた。


矢島が言った。


「じゃあ、お茶でも飲みながら話そうじゃないか。立花、例の計画書を大臣に」


「はっ。ではこちら、我々が出せるカードの中身です」


立花が数枚の用紙を差し出した。


荒木が受け取り、目を通し始める。

最初は余裕の表情だった。

だが、読み進めるうちに、その顔が強張っていく。


「な……何だこれは……」


荒木の声が震えた。


「本当に、満州を消そうというのか?」


「ああ、そうだ」


矢島は静かに言った。


「あんたたちが欲しいのは、"満州国"という名前じゃない。違うか?」


「……うっ」


「お前たちは皇国民でもない奴らに、いったいいくら金をくれてやる気だ? 今も東北では食うものがなく、自分の子供を売っている親までいるんだぞ」


荒木は黙った。

計画書を握る手が、微かに震えている。


「……し、しかし、これは……確かに筋は通っている。だが、果たして関東軍の連中、とくに血気盛んな青年将校たちが黙っていないだろう」


その時だった。


バタン。


突然、大きな扉の開く音がした。



六、最後の元老


全員が扉を見た。

そこには、一人の老人が立っていた。


白髪、白髭、背筋は曲がっているが、目だけは鋭い。杖を突いてはいるが、その存在感は部屋の空気を一変させた。


荒木の顔が青ざめた。


「な、なぜ西園寺老がこんなところに?」


西園寺公望。

八十三歳。最後の元老にして、明治から続く日本政治の生き証人。


天皇に首相を推薦できる唯一の人物であり、その一言は内閣を動かし、軍部すら無視できない重みを持つ。


西園寺は、ゆっくりと部屋に入ってきた。


「いやなに、うちのやつが困っているから助けてくれと泣きつくから、来てやったわい」


矢島が苦笑した。


「いや、別に泣きついてはいないですが……」


「同じことだ」


西園寺は荒木の前に立った。

老いた体からは想像できない威圧感が、部屋を満たす。


「荒木君、君のところはまたえらいことをしてくれたもんだ。これじゃ安心して死ねないな」


「……」


荒木は何も言えなかった。


西園寺が続けた。


「さて、どうする。このまま国が亡ぶまで突き進むか、大きな賭けに出るか。どっちかね?」


沈黙が落ちた。

荒木は計画書を見つめていた。その目に、様々な感情が渦巻いている。


怒り。困惑。恐怖。そして——わずかな希望。


やがて、荒木は口を開いた。


「……分かった」


その声は、絞り出すようだった。


「私にどこまでできるか、やってみようじゃないか」


矢島は表情を変えなかった。

だが、その目には、確かな光が宿っていた。



*  *  *


会議が終わり、廊下に出た時、西園寺が矢島の隣に並んだ。


「矢島君」


「はい」


「あの計画、本当にやれると思うかね」


矢島は少し考えてから答えた。


「正直、五分五分です。いや、三分七分かもしれない」


「七分が失敗か」


「はい」


西園寺は杖を突きながら、ゆっくりと歩いた。


「わしはな、明治の初めからこの国を見てきた。何度も危機があった。何度も、もう駄目だと思った。だが、その度に誰かが踏ん張って、この国は生き延びてきた」


「……」


「今度も、そうあってほしいものだ」


西園寺は立ち止まり、矢島を見た。


「わしにできることは、もう少ない。だが、できることはやる。——君も、やれ」


「……はい」


矢島は深く頭を下げた。

西園寺は、ゆっくりと去っていった。


その背中は小さかったが、最後の元老としての重みは、確かにそこにあった。



七、賭けの始まり


事務所に戻ると、哲太が待っていた。


「師匠、どうでした?」


「……第一関門は突破した」


矢島は椅子に沈み込んだ。


「だが、これからが本番だ。荒木が動いても、関東軍の連中が黙っているとは限らない。いや、まず間違いなく暴れる」


「じゃあ、どうするんですか」


「外堀を埋める」


矢島の目が光った。


「軍部が暴れても手が出せないように、国際的な既成事実を作る。金と、世論と、条約で——逃げ道を塞ぐ」


「……それって、鈴木商店の時と同じですか」


「規模が違う。今度の相手は財閥じゃない。軍部だ。そして、世界だ」


矢島は窓の外を見た。


「お前の"イスラエル"がなければ、俺はこの手を思いつかなかった」


「俺、何言ったかよく分かんないんですけど」


「分からなくていい。だが、覚えておけ」


矢島は振り返った。


「これから俺たちがやることは、歴史を変える賭けだ。失敗すれば、この国は戦争に突き進む。成功すれば——」


「成功すれば?」


「……分からん。だが、少なくとも、最悪は避けられる」


クーゴが「にゃ」と鳴いた。

まるで、覚悟を促すように。



*  *  *


昭和七年、秋。

日本は、岐路に立っていた。


世論を味方につけた軍部。暴走を続ける関東軍。国際的な孤立を深める外交。

その全てを相手に、矢島達也は賭けに出ようとしていた。


計画の全貌は、まだ誰にも明かされていない。

だが、その核心には——ユダヤ、国際資本、そして「満州」という名の巨大な盤面があった。


歴史は、動き始めていた。


(満州事変編・上 了)


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