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第四話 鈴木商店倒産 〜信用という名の砂上の楼閣〜

挿絵(By みてみん)


一、第三秘書


昭和二年、三月。

哲太が矢島の事務所に転がり込んでから、十年が経っていた。


三十歳になった哲太は、晴れて矢島の第三秘書に「大出世」していた。

正直なところ矢島としてはまだ多少の不安がないでもないのだが、最近は多少は周りの空気を読むようになった気がしないでもない。

そもそも事務所のムードメーカーとして、なぜか支援者に気に入られる不思議なキャラでもあるため、むしろ天性の秘書の才能があるのかもしれなかった。


肩には白猫が乗っている。ただし、初代コーゴではない。

コーゴは十八歳の高齢で、今は哲太の家でほぼ寝たきりだ。

肩に乗っているのは三代目のクーゴ——コーゴの孫にあたる。

親子孫三代、なぜか哲太の肩に乗りたがる変な血筋の猫たちである。


「鈴木商店の支店長さんとこに挨拶してきました」


哲太が事務所に戻ってくるなり、立花第一秘書に報告した。


「支店長さんの娘さん、おめでただそうですよ。初孫だって喜んでました」


「そうかあ、じゃあ何かお祝いを用意しないといけないな」


立花は眼鏡を直しながら、感心したように哲太を見た。


「……しかしお前、すっかり支店長さんと仲良しになったな。最初はめちゃくちゃ怒鳴られて、あれ駄目これ駄目とダメ出しを食らいまくっていたのに、気がついたら家まで行ってお食事をご馳走になってやがる」


「いやあ、最初は怖かったけど、話せばとってもいい人で。娘の佐代子さんもとっても優しくて、あんなお姉さん欲しかったなあ」


「ん? お前にもお姉さん的な存在いただろ」


哲太の表情が一瞬曇った。


「え、ああ、まあ……はあ」


「まあ色々あるわな。それよりお祝い考えておけよ」


「はい、了解です」



二、南京の傷


数日後。

哲太が血相を変えて事務所に飛び込んできた。


「師匠! 新聞見ましたか! 台湾銀行が鈴木商店に融資打ち切りって、どうなっちゃうんですか!」


矢島は机から顔を上げた。その表情は険しい。


「若槻内閣は緊急支援を打ち出しているようだが、枢密院とわが党が反対していてな」


「な、なんでですか!」


「……南京事件があっただろ」


南京事件。

先月、中国・南京で起きた排外暴動だった。

北伐を進める国民革命軍が南京に入城した際、兵士や民衆が外国人居留地を襲撃し、各国の領事館や民間人が被害を受けた。

日本人も例外ではなく、領事館が略奪され、居留民が暴行を受け、海軍の陸戦隊が救出に向かう事態となった。


日本国内では激昂の嵐が吹き荒れていた。


「はい、あれはさすがにないわーって感じでしたね。師匠が止めなかったら国会に怒鳴り込んでいましたよ」


「……そういうの心臓に悪いから絶対やめてくれ」

挿絵(By みてみん)

矢島は頭を抱えた。


「でだな、もともと弱腰の若槻内閣にイラついていた枢密院が、完全にブチ切れていやがらせをしようとしてるんだわ。おまけにうちの党も便乗して、若槻内閣を潰すネタができたって大喜び。誰もこの深刻さを理解していない」


矢島は窓の外を見た。


「南京事件の本当の怖さはな、政府への信用が地に落ちたことだ」


「……信用、ですか」


「外国で日本人が殴られて、政府は何もできなかった。弱腰だ、腰抜けだ、と世間は罵っている。——その怒りはどこへ向かうと思う」


哲太は黙った。


「軍だ。政府が頼りにならないなら、軍に頼ろうという声が出てくる。今はまだ小さいが、このまま政府が失態を重ねれば、その声は大きくなる一方だ」


矢島の声は低かった。


「鈴木商店の件も、根っこは同じだ。政府への不信。その不信を利用して、政敵を潰そうとする連中。——誰も、国の先を見ていない」



三、巨象の死


鈴木商店。

その名を知らぬ者は、この時代の日本にはいなかった。


神戸に本拠を置く総合商社にして、製糖、製鉄、造船、保険、貿易——あらゆる事業を手がける巨大企業グループ。

その取扱高は、国内総生産の一割に迫ると言われていた。

三井、三菱に次ぐ、あるいはそれを凌ぐとさえ囁かれた巨象。


その巨象が、今まさに倒れようとしていた。


「確かに若槻内閣には頭にきてますが、それとこれとは話は別でしょう」


哲太は拳を握った。


「支店長さん、来月には初孫が生まれるって喜んでたのに……」


「うーん、といっても、こっちは野党でやれることは何もないんだよなあ。どうしたものか」


矢島が頭を抱えた、その時だった。


哲太が突然、額を押さえて呻き始めた。


「うう……い、痛い、頭が……」


クーゴが不安そうに鳴く。


「じぎょう……けいしょう……きぎょ……うかいたい……」


「おい、大丈夫か」


矢島が駆け寄る。

哲太はしばらく額を押さえていたが、やがて顔を上げた。


「すいません、また頭痛が……俺、なんか言ってました?」


「ああ、言ってた」


矢島の目が、異様な光を帯びていた。


「事業……継承……企業……解体……」


「師匠?」


矢島は立ち上がった。


「——なるほど。さすがに鈴木商店をこのまま残すことはもうできない。なら、解体して切り売りすればいい」


「解体?」


「事業ごとに分けて、買い手をつける。鈴木商店を憎々しく思っている財閥どもを引き込めば……いける。いけるぞ」


矢島は振り返った。


「立花、岸田、支度しろ。政友会総裁のところに行く」



四、取引


政友会本部。

矢島の提案は、党内に波紋を広げた。


「台湾銀行への緊急支援を拒否する代わりに、鈴木商店の事業解体を政府主導で行う。

大蔵省から官僚チームを送り込み、事業ごとに切り分けて、買い手を募る」


総裁は顎を撫でた。


「買い手というのは、財閥か」


「はい。三井、三菱、住友……鈴木商店を目の上のたんこぶと思っていた連中です。喜んで食いつくでしょう」


「だが、奴らは美味いところだけ持っていこうとするぞ」


「そこは交渉です。黒字事業を渡す代わりに、赤字部門の一部も引き受けさせる。雇用を守れば政府調達で優先する、という餌をつける」


「餌、か」


「餌ではありません。責任の分配です」


総裁は黙った。しばらくして、ゆっくりと頷いた。


「……面白い。やってみろ」



*  *  *


その後の展開は、矢島の読み通りだった。


若槻内閣は枢密院からの圧力により総辞職。

与党に返り咲いた政友会は、すぐさま鈴木商店の事業解体と緊急支援策を打ち出した。


そして、矢島達也は再び政府報道担当の席に座ることになった。

記者会見の場は、怒りで燃えていた。



五、炎上を日課に


会場は熱で膨れていた。

記者が詰めかけ、机が鳴り、怒号が跳ね返る。


「台湾銀行はなぜ打ち切った!」


「政府は財界の犬か!」


「鈴木商店の責任者は逃げたのか!」


「預金はどうなる! 取り付けは起きるのか!」


矢島は壇上に立つと、まず一礼だけした。

長く頭を下げない。下げれば「逃げ」に見える。


「本日より、政府説明の窓口を務めます、矢島です」


一斉に罵声が飛ぶ。

矢島は声を張らない。張れば飲まれる。


「先に約束します。今日で終わりにしません。明日も、同じ時刻、同じ場所で、必ず続報を出します」


記者たちが一瞬だけ黙る。「明日も来い」と言われたのが癪なのだ。


「本日お出しするのは"事実だけ"です。推測と個人名は扱いません。捜査と交渉を壊すからです」


「逃げるな!」


「逃げているなら、私はここに立っていません」


矢島は紙を一枚だけ持ち上げた。


「第一。鈴木商店の資産と負債は、事業ごとに切り分けます。

第二。雇用の急な断絶は避けます。

第三。資金繰りの空白を埋めるため、当面の支払いに関する暫定措置を今夜中に出します」


「曖昧だ! 誰が尻拭いをする!」


「"誰が"は、交渉が終わってからです。今出せば、名乗り合いが始まって交渉が壊れる。出せない理由はそれです」


「ふざけるな!」


矢島は一拍置いて言った。


「ふざけているのは、噂が先に走る今の空気です。噂の燃料は"空白"です。空白を残さない。——それが今日からのやり方です」


怒号は続く。

だが、会場の怒りは「殴りたい相手」を見つけた。

矢島はその役を引き受けた。


「本日は以上。明日、同時刻にお待ちしております」



六、財閥との綱引き


政友会本部の会議室。

煙草の煙が層を作り、空気が重い。


矢島の前には、財閥側の使者と、大蔵省の官僚団。

党の重鎮もいる。


財閥側の使者が笑った。


「切り分けると言うが、黒字の事業は欲しい。赤字の穴は政府が持つ。それが筋でしょう」


大蔵省の官僚が即座に返す。


「筋を言うなら、黒字部門は赤字部門の血で育った。分離するなら、負債も連れていくのが筋だ」


矢島は黙って聞いていたが、ここで口を挟んだ。


「条件を"交換"にしましょう。黒字を渡す。代わりに、赤字部門の一定割合を引き受けてもらう」


使者の眉が動く。


「赤字を抱えろ、と?」


「抱えてください。ただし——」


矢島は机の上の紙を裏返した。


「引き受けた赤字は、税制で手当てをする。設備投資を増やせば控除を大きくする。雇用を守れば政府調達で優先する」


重鎮が唸る。


「餌をつけるのか」


「餌ではありません。責任の分配です」


財閥側は冷笑した。


「政府の金で財閥に尻拭いさせるのか。世論が許すかな?」


矢島は淡々と言った。


「世論は"説明"次第です。こちらは毎日会見します。『美味しいところだけ持っていく』とは書かせません。『雇用を守るために引き受けた』と書かせる。紙面を味方にするのではなく、逃げ場を塞ぐ」


そこへ岸田第二秘書が資料を置いた。


「この部門の在庫と契約、銀行筋の担保関係です。赤字と言っても、潰せば損が拡大するタイプです」


官僚が頷く。


「切り売りより、引き受けたほうが総損失は小さい」


財閥側の顔から余裕が消えた。


彼らは「得」だけ取りたい。

だが「損」を拒み続けると、紙面で叩かれ、政府調達からも締め出される。


「……引き受ける割合を詰めよう」


矢島は頷いた。


「赤字の全部は無理でいい。ただし"見える範囲"は逃がしません」



七、初孫


交渉が山場を越えた頃、哲太は一人で支店長の家を訪ねていた。

門の前で、しばらく立ち尽くした。


以前は活気のあった家が、今は静まり返っている。

庭の手入れも行き届いていない。


玄関を叩くと、痩せた中年の男が出てきた。

支店長だった。頬がこけ、目の下にクマができている。


「……ああ、三上君か」


「お久しぶりです。その……佐代子さんは」


「奥にいる。来月だ」


支店長は力なく笑った。


「来月には、孫が生まれる。……それだけが、今の希望だよ」


哲太は言葉を失った。


支店長は続けた。


「うちの会社は、もう駄目だ。分かってる。

だが、部下たちはどうなる。三十年一緒にやってきた連中だ。家族もいる。子供もいる。——俺は、あいつらを見捨てて逃げられない」


「……支店長さん」


「三上君、お前さんの先生——矢島先生だったか。あの人が動いてくれてるらしいな」


哲太は頷いた。


「事業を切り分けて、買い手をつけるって話を進めてます。雇用はできるだけ守ると——」


「ありがたい話だ」


支店長は目を閉じた。


「だが、全員は無理だろう。分かってる。——俺は、選ばなきゃならん。誰を残して、誰を切るか」


沈黙が落ちた。


奥から、女の声が聞こえた。

佐代子の声だった。

お腹の子に話しかけているらしい、穏やかな声。


支店長が呟いた。


「……生まれてくる子には、こんな時代を見せたくなかったなあ」


哲太は、何も言えなかった。



八、負けなかった


数週間後。

鈴木商店の事業解体は、一応の決着を見た。


黒字事業は財閥各社に分割譲渡され、赤字部門の一部も——矢島の交渉通り——財閥が引き受けた。

雇用の全てを守ることはできなかったが、最悪の「全員解雇」は避けられた。


会見を重ねるごとに、記者たちの質問は怒号から要求に変わっていった。

「説明しろ」が「次は何を出す」に変わる。

それは、矢島が場を支配し始めた証だった。


ある日の会見後、記者の一人が仲間に小声で言った。


「……腹は立つが、逃げないな、あれ」


別の記者が吐き捨てる。


「だからこそ、潰しづらい」



*  *  *


事務所に戻ると、哲太が待っていた。


「師匠、支店長さんから手紙が来ました」


矢島は封を開けた。


中には、写真が一枚入っていた。

生まれたばかりの赤ん坊を抱く佐代子と、その隣で泣き笑いの顔をしている支店長。


手紙には、こう書かれていた。


『先生のおかげで、部下の半分は残せました。残せなかった半分は、一生背負います。それでも、この子の顔を見ていると、まだやれると思えます。ありがとうございました。』


矢島は手紙を置いた。


「……半分、か」


「師匠?」


「勝ったわけじゃない。半分しか守れなかった。——だが」


矢島は目を閉じた。

挿絵(By みてみん)

「負けなかった。負けなければ、明日も戦える」


哲太は黙って頷いた。

クーゴが「にゃ」と鳴いた。



九、砂上の楼閣


夜。

矢島は一人で事務所に残り、窓の外を見ていた。


鈴木商店の件は、一応の決着を見た。

だが、根本的な問題は何も解決していない。


南京事件で傷ついた政府の信用。

それを利用して政敵を潰そうとする党派争い。

噂が先に走り、事実が後から追いかける社会。

そして、「政府が頼りにならないなら、軍に頼ろう」という声。


矢島が作った定例会見は、噂の居場所を奪う楔だった。

だが同時に、情報を握る者が「何を出し、何を出さないか」を選べる、強い権力でもある。


正義の盾にもなり、欺瞞の剣にもなる。

火を消したのではない。火の「燃え方」を変えただけだ。



*  *  *


昭和金融恐慌。

鈴木商店の倒産に端を発したこの危機は、銀行の取り付け騒ぎを引き起こし、日本経済に深い傷を残した。


この世界線では、矢島達也という男が、事業解体という手法で傷の拡大を食い止めた。

財閥にも痛みを分担させ、雇用の半分を守った。完全勝利ではない。だが、最悪は避けた。


しかし、信用という名の砂上の楼閣は、一度崩れ始めると止まらない。


南京事件で傷ついた政府への信頼。

その隙間に、軍部の影が忍び寄る。

大正デモクラシーの光は、少しずつ翳り始めていた。


そして四年後——満州で、最初の銃声が響くことになる。

だが、それはまだ先の話だった。


(第四話 了)


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