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外伝第三話その1幕間 押し入れと大根

挿絵(By みてみん)


一、闖入者


矢島達也が事務所に入った瞬間、空気が一段変だった。


いつもなら、紙の擦れる音と、誰かの咳払いと、佐藤梅子の小言が混ざるはずの朝。

今日は——静かすぎる。


机の間に立っている男たちが、全員、同じ方向を見て固まっている。


「……おい、どうした」


矢島が視線の先を追うと、そこにいた。


玄関口に、娘が一人。


年頃——いや、もう「娘」というより「女」だった。背筋が妙に真っすぐで、服は質素なのに、顔立ちだけがやたら整っている。


そして、その隣で。


哲太が、死ぬほど嫌そうな顔をしている。肩のコーゴまで毛を逆立てていた。


「師匠……あの女、いらん。帰って」


「お前、声がでかい」


矢島が眉間を押さえた瞬間、娘が深々と頭を下げた。


「はじめまして。熊田のこ、と申します」


——熊田のこ。


矢島は記憶を探る。山口の地主の周辺で聞いたことがある名だ。確か、哲太の同郷の——。


子供の頃は体格が大きく気が強く、哲太をよくいじめていたという話だった。

それがどういう経緯か、三上家で教育を受けることになり、今ではすっかり才色兼備の娘に育ったとか。


そして確か、哲太とは「将来を誓い合った仲」だという噂が——。


「……で?」


矢島が言うより早く、のこが一歩前に出た。礼儀はある。だが媚びがない。目が、逃げない。


「こちらをお預かりしてきました」


差し出された封筒。封はきっちり。筆跡は、矢島が見慣れたものだった。


——三上家の奥方。


矢島は嫌な予感を感じながら、封を切る。


『先生

いつも主人がお世話になっております。

哲太は不器用で、放っておくと死にます。

どうか、のこを同行させてください。

のこは働き者です。使ってください。

追い返したら、後援会が泣きます。』


矢島は、息を吸って——吐いた。


「……泣くのは俺だろ」


横で哲太が吠える。


「おい! 母ちゃん、勝手すぎだろ! なんでこいつが東京まで!」


のこは微動だにしない。むしろ哲太を真っ直ぐ見て、淡々と言った。


「怖い顔せんで。私、働きに来ただけ」


「働きに来たって、ここは政治事務所だぞ!」


「だから、働くんよ。先生の家で」


「勝手に決めるな!」


「先生の奥さんと話ついとる」


哲太が固まった。


矢島の後ろで、立花秘書が小声で囁く。


「先生、あの……うち、もう断れませんね。後援会の奥様が動いてます」


「分かってる」


矢島は、頭の中で計算した。断れば、後援会が割れる。受け入れれば、家がさらに満員電車になる。


——どっちにしても地獄。


矢島は諦めたように、のこに向き直った。


「……分かった。だが条件がある」


「はい」


「ここは戦場だ。泣く暇も、甘える暇もない。働けるか」


のこは、少しだけ口角を上げた。


「泣く暇がある方が、贅沢です」


矢島は、その返事だけで半分納得してしまった自分が悔しかった。


「……よし。佐藤さん、今から一つ増える」


佐藤梅子が、なぜか嬉しそうに頷いた。


「まあ! 女の子が増えるのはいいわねえ。先生、哲太君だけじゃ空気が荒れるもの」


「おい佐藤さん!」


「哲太君、まず靴を揃えなさい。恥ずかしいから」


「俺、悪くない!」


のこがすかさず言った。


「靴、揃えてあげようか」


「いらん! 自分でやる!」


「あら、素直じゃないねえ」


「うっせえ!」


矢島は、全員を一度に黙らせるように言った。


「——とにかく、今日は家に連れて帰る。哲太、案内しろ」


哲太が呻く。


「……最悪」


のこは、涼しい顔で言った。


「まだ始まってもないのに」



二、満員電車


矢島の家は、立派だった。


門構え、廊下、応接間。どれも「中堅議員の家」らしい。

だが、扉を開けた瞬間、のこは理解した。


——人が多すぎる。


靴が溢れ、廊下は狭く、声がどこからともなく響く。

奥から子どもの笑い声。書生の咳。女中の足音。立派な家なのに、空気はぎゅうぎゅうに詰まっている。


矢島が奥へ声をかけると、奥さんが出てきた。気品はあるが、疲れが隠せない顔だった。


「あなた、お帰りなさい……って、まあ」


奥さんの視線が、のこに止まった。


のこは一礼した。


「熊田のこです。今日から、こちらでお世話になります」


奥さんは一瞬戸惑ってから、すぐに笑った。


「……助かるわ。うち、手が足りないの。助かるけど……部屋が」


矢島が咳払いをした。


「ある。……あるが、空いてない」


奥さんが苦笑する。


「じゃあ……押し入れを片付けましょうか」


哲太が即座に言った。


「おい! そんなとこ住ませるのかよ!」


のこが哲太を見た。少し、目が輝いている。


「あら、心配してくれるん?」


「してねえよ! 普通に言っただけだ!」


「ふうん。普通ねえ」


「なんだその顔!」


のこは答えず、荷物を抱え直した。


「押し入れ、嫌いじゃない。静かだし」


「……静かじゃねえよ、ここ」


「どこでもいい。私が使えるようにするけん」


その言い方が、妙に「仕事」の声だった。矢島は、それだけで半分安心した。


奥さんがのこを奥へ案内していく。哲太は玄関に立ったまま、複雑な顔をしていた。


「……なんで来たんだよ、あいつ」


矢島が肩をすくめた。


「お前の母親に聞け」


「聞いても教えてくれねえよ、あの人」


「じゃあ諦めろ」


コーゴが「にゃ」と鳴いた。同情しているのか、笑っているのか、分からない声だった。



三、東京の値段


翌朝。


のこは、押し入れ——いや「押し入れを部屋にした場所」で目を覚ました。


布団は畳み、着物は整え、髪も結っている。

家の人間が起きる前に、台所に立っていた。


奥さんが驚いて言う。


「あなた、早いのね」


「山口じゃ、もっと早いです」


「じゃあ……買い物をお願いできる?」


「はい」


のこは小さな封筒を受け取り、中身を確認して頷いた。

台所の米びつと鍋の数を見て、頭の中で人数を数える。


この家は「金がある」が、「口が多い」。


外へ出ると、東京の朝は人が多い。田舎の朝とは、音が違う。


八百屋に入り、のこは大根に手を伸ばした。白くて、綺麗で、一本がしっかりしている。


——値札を見るまで。


のこの指が止まった。


「……高っ」


田舎なら畑の端で抜いてきて、土がついたまま抱えて帰る値段だ。

東京では、白い一本が堂々と札をぶら下げている。


米騒動の余波だろうか。物価は全体的に上がっている。

政府が米券を配り始めて少しは落ち着いたと聞いたが、野菜にまでは手が回っていないらしい。


のこは一瞬背筋を伸ばした。


——先生の家の買い物。みっともない真似はできない。


だが次の瞬間、台所の米びつが浮かぶ。子どもの声が浮かぶ。書生の腹が鳴る音が浮かぶ。


みっともないのは、空腹だ。


のこは端の籠に目をやった。少し痛んだ大根。葉はしおれているが、煮れば食える。葉も刻めば味噌汁になる。


「これで……」


のこが手を伸ばした瞬間、


「……っ」


指が、別の指と当たった。

挿絵(By みてみん)

顔を上げると、同い年くらいの娘がいた。袖口が擦り切れているのに、目は強い。

同じ籠の同じ大根を狙っていたらしい。


娘が、先に頭を下げた。


「あ、ごめんなさい。先にどうぞ」


のこも反射で頭を下げる。


「こちらこそ……どうぞ。お先に」


言った瞬間、腹の底が少し軋んだ。本当は、譲れる余裕などない。

だが、譲らなければ「東京で生きる顔」が崩れる気がした。


娘は少し驚きながら、その大根をそっと取った。


「……ありがとう。助かった」


「ううん。今日、すぐ使うん?」


娘は小さく笑った。


「うち、子ども多くて。弟が五人。今日中に火を入れないと、明日には食えなくなるから」


「五人……」


「お父ちゃんは工場、お母ちゃんは体が弱いから、私が買い物係」


のこは頷いた。


「……わかる」


「わかる」が重い。言葉にした瞬間、自分も同じ場所に立った気がした。


八百屋の親父がこちらを見て言った。


「姐さん、そっちは足が早いよ」


のこが答えようとすると、娘が先に口を開いた。


「おじさん、閉まい際って少し安くなる日あるでしょ。姐さんにも教えてあげてよ」


親父が笑って、肩をすくめる。


「嬢ちゃん、口が上手いね。……まあ、日によるがな」


娘は、のこに向き直った。


「閉まい際が狙い目。あと、痛いとこは煮れば分かんない。葉は刻んで味噌に沈める」


のこが目を瞬いた。


「……それ、私も同じこと考えとった」


娘が笑う。


「でしょ。……私、澄。この辺の長屋」


「熊田のこ。山口から来た」


「山口! 遠いねえ。東京は高いでしょ」


のこは小さく笑った。


「高い。びっくりする」


澄は肩をすくめた。


「でも、慣れる。慣れないと死ぬ。……今度、銭湯も一緒に行こう。女同士、色々あるから」


のこは一瞬迷ってから頷いた。


「……うん。行く」


たったそれだけで、東京の朝が少しだけ柔らかくなった気がした。



四、姉と嫁


家に戻ると、玄関が靴で溢れていた。昨日よりひどい。知らない草履、知らない下駄。


奥から声が飛ぶ。


「先生! 今日の説明、新聞がまた煽ってます!」


矢島の声が低く返る。


「……分かってる。組み直す」


のこは、野菜を包んでいた新聞の見出しをちらりと見た。字が大きい。煽る言葉が並んでいる。


澄の顔が浮かんだ。「慣れないと死ぬ」という声が浮かんだ。


のこは荷物を抱え直し、台所へ向かった。


廊下で、哲太とすれ違った。


「あ、帰ってきたん。おかえり」


「……ただいま、じゃねえよ。なんで俺に言うんだ」


「家の人に言うのは普通でしょ」


「俺はお前の家族じゃねえ」


「まだ、ね」


哲太が固まった。


「……は?」


「なんでもない」


のこは涼しい顔で通り過ぎた。


「あ、哲太」


「なんだよ」


「今日の夕飯、大根炊いたの。哲太、大根好きやったよね」


「別に好きじゃねえよ」


「あら、小さい頃はおかわりしとったのに」


「子供の頃の話すんな!」


「照れんでええよ」


「照れてねえ!」


コーゴが「にゃあ」と鳴いた。完全に笑っている声だった。


「お前も笑うな!」


のこは台所に消えていった。その背中が、妙に楽しそうだった。


*  *  *


夕食の席。


矢島家の食卓は、戦場だった。


書生が三人、子どもが二人、女中が一人、矢島夫妻、そして哲太とのこ。十人以上がひしめき合って箸を動かしている。


のこが作った大根の煮物が、あっという間になくなっていく。


「うまい!」

「のこさん、これどうやって作ったの?」

「葉っぱまで入ってる!」


奥さんが感心したように言った。


「のこさん、料理上手ねえ。助かるわ」


「いえ、大したことないです。山口じゃ普通ですけん」


哲太が黙々と食べている。


のこがちらりと見た。


「哲太、おかわりする?」


「……いらねえ」


「お椀、空っぽやけど」


「いらねえって言ってんだろ」


「はいはい」


のこは哲太の椀を取り上げ、勝手によそい始めた。


「おい! 聞けよ!」


「聞いた上で、よそっとる」


「意味わかんねえ!」


「食べんと大きくならんよ」


「もう二十一だ! これ以上大きくなるか!」


矢島が箸を止めた。


「……哲太、食え。残すな」


「師匠まで!」


佐藤梅子が——なぜかこの場にいる——にこにこしながら言った。


「あらあら、仲がいいわねえ」


「よくねえ!」


「照れんでええよ」


「だから照れてねえって!」


食卓に笑い声が広がった。


のこだけが、涼しい顔で味噌汁を啜っていた。


*  *  *


夜。


のこは押し入れの布団に横になりながら、天井を見ていた。


この家は、立派だ。だが中身は満員電車だ。そして、外の町も同じだ。


澄の顔が浮かんだ。弟が五人。父は工場、母は体が弱い。


政府が米券を配っても、大根の値段は下がらない。閉まい際を狙っても、痛んだ野菜を煮ても、「慣れないと死ぬ」という言葉は消えない。


哲太は今日も、政治の話をしていた。矢島と一緒に、新聞がどうの、発表がどうの、と。


それは大事なことなのだろう。のこにも、それくらいは分かる。


だが、大根一本の値段も、大事なのだ。


閉まい際の八百屋も、擦り切れた袖口も、五人の弟を抱えた長屋の娘も。


のこは目を閉じた。


——明日も早い。


押し入れの闇の中で、のこは小さく呟いた。


「……東京、高いなあ」


それは愚痴ではなかった。

ただの、事実だった。


(幕間 了)


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