第三話 米騒動 〜腹の戦争〜
一、好景気の裏側
大正七年、夏。
哲太が矢島の事務所に転がり込んでから、四年が経っていた。
二十一歳になった哲太は、相変わらず肩に白猫のコーゴを乗せている。
雑用係から荷物持ちに「出世」したのが、この四年間の成果といえば成果だった。
曲がったことが嫌いな性格は変わらないが、少しは空気を読むことを覚えた——少しは。
その日、哲太は矢島と立花秘書の荷物持ちとして、支援者への挨拶回りに同行していた。
「やあ社長、お久しぶりです」
訪れたのは、軍需品を扱う小さな工場だった。
「あ、先生、お久しぶりです。すいません、散らかっちゃってて」
社長は恐縮しながらも、隠しきれない笑みを浮かべていた。頬が緩みっぱなしである。
「いえいえ、お構いなく。しかし驚きましたよ、倉庫に入りきらないほど資材が溢れてましたね」
「そうなんですよ。もう作ったそばから売れちゃって。今は資材も奪い合いで、あちこちの問屋を回ってかき集めてます」
「ほほう、そりゃすごい。相当儲かってるんじゃないですか」
「いえいえ、うち程度の工場がどんなに頑張っても大したことないですよ」
言葉とは裏腹に、社長の顔はニヤついている。
「こう言っては何ですが、戦争特需というのはすごいですな」
「本当に。言いにくいところですが、助かってますよ」
欧州で大戦が始まって四年。
日本は連合国側として参戦したものの、直接の戦場にはなっていない。
代わりに、軍需品や物資の輸出で空前の好景気に沸いていた。
工場を出ると、立花が小声で言った。
「特別給を出して休日返上で工場を回すそうです。従業員も大喜びだとか」
「景気がいいのは結構なことだ」
矢島の声には、どこか含みがあった。
二、富山の主婦たち
事務所に戻ると、佐藤梅子が血相を変えて待っていた。
「先生、お帰りなさい。——先生、今日の新聞読みました? 大変なんですよ」
「いや、朝から挨拶回りでまだ読めてないんですが。どうされました」
佐藤は新聞を広げた。
「富山の主婦たちが、米を県外に出すな、米を安く売れって、米問屋に押し寄せて大変なことになってるって」
矢島は新聞を受け取り、眉をひそめた。
「……そうか。確かに景気はいいが、資材不足で物価も上がってる。格差がそこまで来たか」
哲太が首を傾げた。
「ん? 今すごい好景気なんですよね? 確かにお米の値段は上がってるけど、給料も上がってるんじゃないですか? さっきの社長のところも特別給を出すって言ってましたし、従業員も喜んでましたけど」
「確かに、あの社長のところは儲かっていた」
矢島は窓際に歩いた。
「全国的には戦争特需で潤ってはいる。だが、全部が全部恩恵を受けられているわけじゃない。結果として物価が上がり、恩恵を受けられない人たちが置いてきぼりを食らって、生活が苦しくなってるんだ」
「……じゃあ、置いてきぼりを食らった人たちはどうするんですか」
「どうしようもない」
矢島の声は冷たかった。
「経済の負の側面が出ただけだ。そしてそれが今、新聞でニュースとして形になってしまった。——議会の重要案件になるだろう。今から資料を集めておけ」
「はっ、かしこまりました」
立花が頷き、書庫に向かった。
哲太は窓の外を見た。
街は相変わらず活気に溢れている。だが、その活気の影に、何かが蠢いているような気がした。
この騒ぎが、後に「米騒動」と呼ばれる大きな事件の始まりだった。
三、炎上
それから数日後。
哲太が息を切らせて事務所に飛び込んできた。
「大変です! 国会でシベリア出兵についてのニュースが流れた途端、全国で買い占めが起こって、米の価格が跳ね上がって、あちこちで暴動に発展してるって! とうとう軍まで動き出す事態になっちゃいましたよ!」
矢島は顔を上げた。その表情は険しい。
「ああ、そうだな」
「そうだなって、師匠、これ大変なことじゃないですか!」
「大変だから困ってる」
矢島は机に肘をつき、頭を抱えた。
「参ったな。さすがに軍警による鎮圧はやりすぎだとは思うが、騒ぎがここまで大きくなると、政府も力ずくで押さえつけるしかない。国民の怒りは分かるが、ブン屋どもも面白おかしく書きやがって、本当に忌々しい」
新聞各紙は連日、米騒動を大々的に報じていた。
「米価暴騰」「民衆蜂起」「政府無策」——刺激的な見出しが紙面を踊り、不安を煽り、さらなる買い占めを呼んでいた。
情報が空白を生み、空白に噂が住みつき、噂が恐怖を呼ぶ。
第二話で矢島が見抜いた構造が、今度は経済という形で暴発していた。
その時だった。
哲太が突然、頭を抱えて呻き始めた。
「うっ……痛い、頭が……」
コーゴが不安そうに鳴く。
「おこめ……けん……びちく……まい……ほう……しゅつ……」
「おい、大丈夫か」
矢島が駆け寄る。哲太はしばらく額を押さえていたが、やがて顔を上げた。
「すいません、また頭痛が……俺、なんか言ってました?」
「ああ、言ってた」
矢島の目が、異様な光を帯びていた。
「お米券……備蓄米……放出……」
「師匠?」
矢島は立ち上がった。
「——そうか。別に米がないわけじゃない。国民が欲しいのは米だ。だったら、政府が米を配ればいい」
「え?」
「立花! 車を回せ。農商務省だ。今すぐ」
「はっ!」
哲太は呆然とした。
「え、本当に行くんですか? 今、夜ですよ」
「夜だから行く。明日の朝になれば、噂が事実より先に走る。事実が遅れたら、国が負ける」
「……負けるって、戦争じゃないですよね?」
「戦争だよ」
矢島は振り返った。
「腹の戦争だ」
コーゴが「にゃ」と鳴いた。まるで「やれやれ」と言いたげに。
四、農商務省
夜の農商務省は、異様な空気に包まれていた。
廊下は冷たく、官僚たちは目の下にクマを作り、書類の束を抱えて早足で行き来している。どこかで電話のベルが鳴りっぱなしになっていた。
立花が名刺を見せると、守衛の顔色が変わった。
「……どうぞ」
矢島は止まらない。止まった瞬間に負けると知っている顔だ。
* * *
応接室に現れたのは、農商務省の局長だった。
髪はきっちり、背筋は針金。こちらを見る目が「政治家=面倒」をそのまま形にしている。
「矢島先生、夜分にどうされました」
「時間がない。単刀直入に言う」
矢島は一歩踏み込んだ。
「米を"市場任せ"にしてる限り、暴動は止まらん」
「市場を乱すのは危険です。政府が手を入れれば——」
「乱れてるのは市場じゃない。"信頼"だ。信頼が壊れた市場は、もう市場じゃない」
局長は眉をひそめた。
矢島は畳みかけた。
「やることは二つ。一つ、政府が米を買い上げる。二つ、米券を配って、一定量を一定の値で回す。今夜決める」
「……買い上げは予算が——」
「予算は後で議会で揉めればいい。揉める間に人が死んだら終わりだ。それに、揉める材料を先に潰す。数字を出す。契約を出す。配布の規則を出す」
「……契約を出す、とは」
「"どこから、いくらで、何俵買ったか"。"どこへ、何俵回したか"。全部だ。隠すから噂が住みつく。空白を作るな」
局長は黙った。黙ったのは同意ではない。計算している。
「……米券と言いましたね。どう配るおつもりです」
「対象を決める。まずは都市部の困窮世帯、次に工場労働者の家族。順次拡大する」
「公平性をどう担保します。配る人間が不正をすれば——」
「不正は起きる。だから仕組みで殺す。券の番号、配布台帳、引換所の掲示、巡回監査。——そしてもう一つ」
「……もう一つ?」
矢島は少しだけ口角を上げた。
「新聞だ」
「は?」
「彼らに書かせる。"政府が何を決めたか"を全国に知らせるのに、一番速いのは彼らだ。彼らは売れるなら何でも書く。なら、売れる"事実"をこっちが用意する」
「先生……新聞は政府の味方ではありませんぞ」
「味方にする必要はない。"観客"にする」
矢島の目が光った。
「観客が見ている舞台で、役人は不正をやりにくい。——新聞は監視役になる。こっちから舞台を用意してやるんだ」
局長の表情が揺れた。新聞が怖いのだ。世論が怖い。だが同時に、それが救いにもなりうることに気づき始めている。
「……内務省は黙っていません」
「内務は鎮圧をしたがる。農商務は腹を満たしたい。どっちが正しいかじゃない、両方必要だ。だが今夜は、腹の方が先だ」
局長は深く息を吐いた。
「……分かりました。買い上げの枠を作ります。ただし、すぐに動かすには商社や米穀商の協力が必要になります」
「協力させる。条件はこっちが出す。"高値転売は許さない"。"納入遅延は公表する"。"契約は後で開示する"。嫌なら他を当たる。——時間はないが、選ぶ余地は残す」
「……強引ですな」
「強引じゃない。現実だ」
五、台本を渡す
農商務省を出た帰り道。
哲太がようやく口を開いた。
「……師匠、本当にやるんですか。米券とか、政府が米を買うとか」
「決まった。決めさせた」
「でも、新聞が黙ってないでしょ。『政府が買い上げ? 癒着だ!』とか書かれません?」
「書く。絶対書く。だから先に材料を渡す」
「材料?」
「数字。規則。期限。"出せないものは理由"。——俺が作った定例説明の型と同じだ。噂が入る隙間を潰す」
哲太は黙った。
「……新聞が正義の味方みたいに見えるな」
矢島は笑わなかった。
「正義の味方じゃない。演出家だ。光も闇も、当てたいところに当てる。だから怖い。だが、怖いからこそ使える」
「……使うって、なんか嫌だな」
「嫌でもやる。嫌なことを選んででも、守るものがあるのが政治だ」
コーゴが「にゃ」と鳴いた。まるで同意とも反論ともつかない声で。
六、腹の戦争
翌朝。
矢島は政府報道担当として、臨時の発表台に立った。
紙を置く音が、妙に大きく響いた。
「昨日深夜、農商務省と協議し、緊急措置を決定しました」
ざわめき。記者たちが身を乗り出す。「売れる匂い」がするからだ。
「第一。政府は本日より米の買い上げを開始します。第二。都市部から順に、米券を配布し、一定量を一定価格で供給します。第三。買い上げ量、供給量、配布地域、引換所は、毎日発表します」
「価格はいくらだ!」
「どこから買う!」
「誰の商社だ!」
矢島は即答しない。だが逃げもしない。
「価格は"本日正午までに"告示します。買い上げの契約は"締結後に順次公開"します。公開できない部分がある場合は、理由を同時に出します。——そして、明日も同時刻に続報を出します」
記者の一人が舌打ちした。
「逃げ道を塞いでやがる」
矢島はそれを聞こえないふりをした。聞こえないふりは、現実主義者の技術だ。
* * *
その日の午後。
新聞は一斉に号外を出した。
「政府、米買い上げへ」
「米券配布、緊急措置」
「明日も続報」
いつもなら火をつけるだけの紙面が、今日は火を消す水にもなる。
人々は買い占めに走る前に、一度立ち止まった。
「明日、安く買えるなら……」
「券が出るなら、今日は我慢できる」
不安は消えない。だが、暴発する速度は落ちる。
茶屋で老人が新聞を叩いていた。
「政府が米を配るだとよ。珍しいこともあるもんだ」
隣の男が鼻で笑う。
「どうせ口だけだ」
「口だけなら明日突っ込める。昨日までみたいに"誰が何を決めたか分からん"よりマシだ」
噂話の内容が変わっていた。
「聞いたか、政府の発表によると——」。
憶測ではなく、発表を起点に話が始まる。それだけで、空気は違ってくる。
七、演出家
夜。事務所。
佐藤梅子が息を切らせて戻ってきた。
「先生! 号外、すごいですよ! みんなそれ見て落ち着いて……」
矢島は椅子に沈み込み、目を閉じた。
「落ち着いたのは、"腹"じゃない。"期待"だ。期待は、明日裏切れば今日の倍の怒りになる」
哲太が小さく言った。
「マスコミって……すごいな」
「すごいさ。だから、怖い」
矢島は目を開けた。
「俺たちは今日、あの演出家に"台本"を渡した。——次は、演出家が俺たちに台本を要求してくる」
「……どういうことですか」
「今日は"政府が動いた"という絵を書かせた。明日は"本当に動いているか"を検証される。明後日は"まだ足りない"と叩かれる。演出家は常に次のネタを求める。俺たちは、ネタを出し続けなければならない」
哲太は黙った。コーゴが喉を鳴らす。
「……でも、暴動は収まるんですよね」
「収まる。——収めさせる」
矢島は立ち上がった。
「腹が満たされれば、人は落ち着く。落ち着けば、考える余裕ができる。考える余裕ができれば、噂じゃなく事実で判断できるようになる。——その循環を作るのが、今回の仕事だ」
「師匠」
「なんだ」
「……俺のあの言葉、また役に立ちましたか」
矢島は振り返った。
「ああ。お前の"米券"がなければ、俺はこの手を思いつかなかった」
「俺、何言ったかよく分かんないんですけど」
「分からなくていい」
矢島は窓の外を見た。夜の街は、昨日より少しだけ静かだった。
「だが、覚えておけ。お前の言葉は、いつも"きっかけ"をくれる。——きっかけを形にするのは俺の仕事だ。そして、形にしたものが正しく使われるかどうかは、また別の話だ」
「……正しく使われないこともあるんですか」
「ある」
矢島の声は静かだった。
「情報を出す側は、何を出すか選べる。選べる者は、操れる。今日、俺は新聞を"使った"。だが、明日は新聞が俺を"使う"かもしれない。——同じ道具だ。違いは、誰が握っているかだけだ」
コーゴが「にゃ」と鳴いた。
まるで、先の見えない闇を嗅ぎ取ったみたいに。
* * *
米騒動。
大正七年、富山の漁村から始まったこの騒動は、瞬く間に全国へ広がった。
戦争特需で一部は潤う一方、米価の高騰は生活を直撃し、恩恵を受けない層の不満が爆発した。
政府は旧来の作法のまま対応が遅れ、沈黙が空白を生み、空白に噂が住みついた。
新聞は競争で過熱し、刺激的な記事が不安を煽り、買い占めと暴動の連鎖を加速させた。
この世界線では、矢島達也という男が、一つの楔を打ち込んだ。
米の買い上げ。米券の配布。数字と規則の連日公開。
空白を潰し、噂より先に事実を走らせる。第二話で確立した手法を、経済政策に応用したのだ。
暴動は完全には収まらなかった。
だが、暴発の速度は落ちた。
軍による鎮圧は最小限に抑えられ、死者の数は史実より少なく済んだ。
それは確かに、一つの勝利だった。
だが、勝利には必ず代償がある。
情報を握る者は、情報を選べる。選べる者は、世論を動かせる。
新聞という「演出家」との共犯関係は、この日を境に深まっていく。
それが民を守る盾になるのか。
それとも、民を欺く剣になるのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
(第三話 了)




