第二話 大正デモクラシー 〜巨大化する第四の権力〜
一、買収
その朝、矢島達也が事務所の扉を開けた瞬間、足が止まった。
妙に綺麗なのである。
床は磨かれ、書類の山は整頓され、窓は拭かれて朝日が眩しいくらいに差し込んでいる。
それだけではない。来客用のテーブルには花まで飾ってある。白い小菊だ。
「佐藤さん、今日はなんか事務所の雰囲気が違いますね。どうしたんですか、花まで飾っちゃって」
事務員の佐藤梅子が、満面の笑みで振り返った。
事務所開設当初からいる古株で、いわゆるお局様というやつである。
普段は小言が多いのだが、今日はやたらと上機嫌だ。
「そうなのよ先生、ほんといい子連れてきてくれたわ。助かっちゃった。やっぱり若い子がいるといいわねえ」
「……いい子?」
「そうそう先生、お茶菓子があるから今お茶入れますね」
差し出された菓子を見て、矢島は目を丸くした。
「うほっ、これはうまい。どうしたんですかこれ」
「哲太君が朝一であの伊藤洋菓堂に行って買ってきてくれたの。これ、朝一に並ばないと手に入れられない超人気の新作なのよ。本当にいい子ねえ」
矢島は菓子を口に入れたまま固まった。
賄賂で大騒ぎして転がり込んできたやつが、事務員を買収している。
頭を抱えたくなったが、菓子は確かにうまかった。
矢島は諦めたように席に着き、山積みの書類に手を伸ばした。
二、汽車クラブ
事務所の奥では、哲太が第一秘書の立花に絡んでいた。
肩には相変わらず白猫のコーゴが乗っている。
「なあなあ立花パイセン、シーメンス事件に続いて大浦事件が発覚したそうですね。なんでこんな汚職議員ばっかりなんですか? まさかうちの先生も関わってたりしないですよね?」
「パイセンじゃなくて立花さんだ!」
立花秘書は眼鏡を直した。
フランス留学帰りのインテリで、知識は豊富だが話が長いことで事務所では有名だった。
「まあいい。今回の事件は正直うちもほとんど情報がないんだ。当然だが先生も関わってなど……いない……と思う」
「思うって何ですか思うって」
「いや、先生は大丈夫だ。たぶん」
「たぶんも何ですか!」
哲太は腕を組んだ。
コーゴが迷惑そうに鳴く。
「俺思ったんですけど、そもそもこんな汚職議員だらけになったのって、制度が悪いんじゃないですか? 制度ごと改革すべきなんじゃ。外国ではどうなんですか?」
その瞬間、立花の目がきらりと光った。
事務所内の空気が、どよーんと重くなる。
他のスタッフたちがそっと目を逸らし始めた。
佐藤梅子などは書類を抱えて別室に消えていく。
「よく聞いてくれたよ哲太君」
立花は椅子を引き、身を乗り出した。
「私が留学したフランスではね、なんと直接納税額十円なんていう制限はなく、金持ちも貧乏人も一律に選挙権を持つ、非常に進んだ制度を導入しているんだ。確かに運営は難しくはあるが、問題はそこじゃない。あえて挑戦するところにあるんだ。ああ、僕がフランス、パリに留学していた時のシャンゼリゼ通り、画家の集まるモンマルトルの丘、あの空気を吸えば君にも分かるはずだ。自由、平等、博愛。革命の精神は今も生きている。そもそもフランス革命というのはだね——」
延々と続く立花の語り。
哲太は最初こそ頷いていたが、やがて目の焦点が合わなくなっていく。
ちらりと周囲を見ると、スタッフたちがこちらを不安そうに窺っている。
目が合うと慌てて逸らされる。誰も助けてくれない。
自分が何をしでかしたのか、哲太はようやく理解した。
——二時間後——
「——ということだよ哲太君、分かったかな?」
冷凍されたイカのような目をした哲太が、ゆっくりと正気に戻る。
「え、ああ、その……難しくて。もう少し分かりやすくお願いできたら……」
「ああ、簡単に言うとだね」
立花はあっさりと言った。
「選挙に参加できる人数を増やせば、買収の対象者が増える。対象者が増えれば、そのうち資金が破綻する。だから増やせば増やすほど汚職しにくくなる、ということだ」
「……できればそれを最初に言ってほしかった」
三、第四の権力
哲太は矢島の執務机に詰め寄った。
「師匠、立花パイセンに日本の選挙制度には問題があるって聞きました。フランスのような制度を導入すれば汚職は減るんじゃないかって」
「立花にフランスの話をしたのか……それは災難だったな」
「……はい。あ、今はそのことじゃなくて。シーメンス事件に大浦事件って、このままじゃ日本はだめになってしまいますよ」
矢島はペンを置いた。
「ああ、確かに選挙参加者を増やせば汚職は減るかもしれん。だが、政治がただの人気取りになりかねん。増やせばいいってもんじゃないんだ」
「どういうことですか?」
「古代ギリシャのアテネって知ってるか?」
「ああ、地中海に面したとってもきれいなところって聞きましたけど」
「そこでは今よりはるかに進んだ民主制があった。代表者だけじゃなく、市民全員が直接政治に参加できた。画期的だ」
「すごい。じゃあその国、大発展したんでしょうね」
「逆だ。すぐに滅んだ」
「な、なんでですか?」
矢島は窓の外を見た。
「人ってのは血を見るのが嫌なんだよ。汗をかくのも嫌だ。だから耳障りのいい話に流れる。その結果、危機が迫ってるのに何もせず、他国に滅ぼされた。——政治ってのは覚悟がいる。覚悟のない人間が増えたところで、ろくなことにならん」
「じゃあなんで海外では成功してるんですか」
「歴史だ。やつらはその失敗を教訓に、何百年もかけて試行錯誤してきた。それでも完全にうまくいってるとは思えんがな」
哲太は黙った。だが、すぐに口を開く。
「でも、このままじゃ国はだめな方向に行ってしまいます。なんとかならないんですか? そもそも昔はこんなにひどくなかったと思うんですけど」
「ああ、そうだ」
矢島の声が低くなった。
「こんな事態に陥ったのは——新聞のせいだ」
「え、新聞?」
「厳密に言えば、巨大化した言論界と、それに気づかず古い習慣を捨てられない政府のせいだな」
矢島は立ち上がり、窓際に歩いた。
「選挙制度ができた当初、与党——薩長閥は選挙で負け続けた。与党が選挙に負けるなんて普通はありえんが、そうなっちまったんだから仕方ない。で、どうしたか。野党の議員を金で買収して、数合わせをしたんだ。それが習慣化した」
「最悪じゃないですか」
「最悪だが、昔はそれでも回っていた。なぜか分かるか?」
哲太は首を振った。
「誰も見てなかったからだ」
矢島は振り返った。
「新聞の力が弱かった頃は、政治家同士の取引なんて誰も知らなかった。知らなければ怒りようがない。だが今は違う。新聞は売れる。売れるから増える。増えるから競争が起きる。競争が起きれば、より刺激的なネタを追う。そして最も刺激的なネタがどこにあるか——政府だ」
「じゃあ新聞が悪いんですか」
「新聞だけを悪者にするのは違う」
矢島は首を振った。
「やつらは商売でやってる。売れるものを売る。それ自体は止められん。問題は、政府が昔のやり方のまま黙ってることだ。黙ってるから噂が走る。噂が走るから憶測が広がる。憶測が広がるから、事実より先に"物語"ができちまう。一度できた物語を潰すのは、事実を出すより十倍難しい」
「じゃあどうすればいいんですか」
「それが分かれば苦労せん」
矢島は机に戻り、頭を抱えた。
「新聞を法で規制しようにも、今やったら逆に政府が世論に潰される。かといって黙ってれば噂が真実になる。——まったく、どうすりゃいいのか」
その時だった。
哲太が突然、頭を抱えて呻き始めた。
「い、痛い……頭が……」
コーゴが不安そうに鳴く。
「ていれい……しゃかい……けん……きしゃ……くらぶ……ほうどう……かん……」
「おい、大丈夫か」
矢島が駆け寄る。哲太はしばらく額を押さえていたが、やがて顔を上げた。
「すいません、昔事故があった後、時たま急な頭痛に見舞われることがあるんですよね。周りのみんなは聞き慣れない言葉を言うっていうんですが……俺、なんか言ってました?」
「ああ……言ってた」
矢島の目が、異様な光を帯びていた。
「定例……記者……会見……記者……クラブ……報道……官……」
「師匠?」
矢島は呟いた。
「——噂は"空白"に住む」
「は?」
「政府が黙るから、空白ができる。空白があるから、噂が住みつく。——なら、空白を潰せばいい」
矢島は立ち上がった。目が据わっている。
「規制できないなら、逆にこっちから出してやればいい。定期的に。決まった場所で。決まった相手に。こっちから情報を開示する。そうすれば噂より先に事実が走る——」
「師匠、何言ってんですか」
「これはいける」
矢島は執務室を飛び出した。
「立花! すぐに総理官邸に連絡しろ! 急ぎの用件だ!」
哲太は呆然と見送った。コーゴが肩の上で欠伸をする。
「……なんか、俺のせいか?」
答える者は誰もいなかった。
四、報道担当
三日後。
矢島達也は、政府報道担当に任命された。
シーメンス事件と大浦事件の連続で世論は沸騰し、新聞各紙は連日政府を叩いている。
街では買い占めが起き、噂が噂を呼び、もはや何が事実で何が憶測か分からない状態だった。
そんな中、政府は「定例説明」という前代未聞の制度を発表した。
毎日、決まった時刻に、政府の代表者が記者たちの前に立ち、事実を説明する。質問も受ける。
記者たちは鼻で笑った。どうせ言い訳を並べるだけだろう、と。
第一回の説明会は、地獄だった。
* * *
会場は熱で膨れていた。
記者の肩がぶつかり合い、怒号が飛び交い、机を叩く音が波のように続く。
「総理は知っていたのか!」
「誰が金を受け取った!」
「名簿を出せ!」
「逃げるな!」
矢島が壇上に立った瞬間、怒号が一段と高くなった。
矢島はマイクに口を寄せた。声を張らない。張ると飲まれる。
「本日より、政府報道担当を務めます矢島です」
「隠せば噂が走ります。ですから本日は、現時点で確認できた"事実だけ"を、先にお出しします」
一瞬、ざわめきが止まる。止まったのは礼儀ではない。次に殴るために息を吸っただけだ。
「推測と個人名は扱いません。捜査の妨げになるからです。その代わり——」
矢島は記者たちを見渡した。
「明日の同時刻、必ず続報を出します。毎日です。今日で終わりにしません」
「……毎日だと?」
「では、読み上げます」
矢島は手元の紙に目を落とした。
「第一。疑義の対象となっている金銭の動きは、昨年秋から本年初頭にかけて確認されています。第二。関係する部署は現在三箇所を特定。第三。本日付で関係資料の保全を指示し、関係部署の一部職務を停止しました」
「そんなこと聞いてない! 誰だ、誰が受け取った!」
「名簿を出せ!」
「名簿は捜査の核心です。今ここで出せば証拠隠滅の恐れがある。出せない理由はそれです」
「逃げるな!」
「逃げているなら、私はここに立っていません」
記者の一人が、罠を投げた。
「総理は知っていたのか! はいか、いいえかで答えろ!」
「現時点で確認できているのは、金の動きが疑われる期間と経路です。総理個人の認識については聴取中であり、捜査に関わるため、今は申し上げられません」
「答えになってない!」
「ただし——」
矢島の声が、一段低くなった。
「政治責任として、"監督が不十分だった"点は、政府として認めます。処分については、捜査の節目で公表します。いつ公表するかも、明日、具体的な日時をお伝えします」
別の記者が食い下がる。
「あんたが発案者だろう! あんたが仕組んだんじゃないのか!」
「私が窓口に立ったのは、責任から逃げないためです。ここから先、政府の誰も勝手に喋らない。私が事実を出し続ける。出せないものは、なぜ出せないかの理由を出す。——それがこの場のやり方です」
「勝手に決めるな!」
「勝手に決めないと、この場は永遠に終わりません」
怒号が続く。罵声が飛ぶ。
矢島は紙を置いた。
「怒りは止めません。怒りは当然の権利です。——止めたいのは、嘘と噂で関係のない人間まで踏み潰されることです」
そして、淡々と言った。
「本日は以上です。明日、同時刻にお待ちしております」
五、空白を埋める
翌日。
街は、昨日より少しだけ静かだった。
茶屋で老人が新聞を叩いている。
「政府が毎日説明するだとよ。珍しいこともあるもんだ」
隣の男が鼻で笑う。
「説明したって嘘なら同じだ」
「嘘なら明日突っ込める。昨日までみたいに"誰が何を言ったか分からん"よりマシだ」
市場では、米の買い占めが少し引いていた。
昨日は不安で袋を抱えていた女が、今日は一袋だけ買って帰っていく。
噂話の内容も変わっていた。
「聞いたか、昨日の発表によると——」
憶測ではなく、発表を起点に話が始まる。それだけで、空気は違ってくる。
* * *
矢島は二回目の説明会に立った。
「昨日お預かりした質問に、お答えします」
昨日より怒号は少ない。代わりに、質問が鋭くなっている。
鋭い質問は、事実の上に乗っている。噂の上に乗る質問より、はるかに答えやすい。
説明会が終わった後、記者の一人が仲間に小声で言った。
「……腹は立つが、逃げはしないな、あれ」
別の記者が吐き捨てる。
「だからこそ、潰しづらい」
矢島はそれを聞こえないふりをした。聞こえないふりは、現実主義者の技術だ。
* * *
事務所に戻ると、哲太が待っていた。コーゴが肩で鳴く。
「にゃ」
「師匠、なんか……昨日より空気がマシですね」
「そうだな」
矢島は椅子に深く沈み込んだ。疲労が顔に出ている。
「ただし、油断するな。火は消えてない。形が変わっただけだ」
「でも、勝ったんでしょう?」
「勝ってない」
矢島は目を閉じた。
「負けなかっただけだ。——だが、負けなければ、明日も戦える」
哲太は黙った。コーゴが喉を鳴らす。
しばらくして、矢島が口を開いた。
「哲太」
「はい」
「お前のあの"言葉"——定例、記者、報道——あれがなければ、俺はこの手を思いつかなかった」
「俺、何言ったかよく分かんないんですけど」
「分かんなくていい。だが、覚えておけ」
矢島は目を開けた。
「情報を出すってのは、正義にもなるが、権力にもなる。何を出して何を出さないか、いつ出すか——それを決められる立場は、強い。今日、俺はその力を使った」
「……それって、悪いことなんですか?」
「分からん」
矢島は窓の外を見た。夕暮れの空が赤く染まっている。
「正しく使えば民を守る盾になる。間違えれば、民を騙す剣になる。——同じ道具だ。違いは使う人間の腹の中にしかない」
哲太は何も言えなかった。
佐藤梅子が茶を持ってきた。
「先生、お疲れ様でした。今日は哲太君がまたお菓子を——」
「……また買収か」
「買収じゃないですって!」
事務所に笑い声が響いた。
だが矢島の目は、どこか遠くを見ていた。
* * *
その夜、矢島は一人で事務所に残った。
机の引き出しから、色褪せた原稿用紙の束を取り出す。
『国民のための政治改革私案』——若い頃に書いた草稿だ。
あの頃は、正しいことを言えば世の中が変わると信じていた。
今は違う。
正しいことを通すには、正しくない力も必要だと知っている。
情報を握ること。出すタイミングを選ぶこと。相手より先に場を支配すること。
それは、正義なのか。
それとも、正義の皮を被った別の何かなのか。
矢島は原稿用紙を引き出しに戻した。
捨てることはできなかった。
だが、信じることもできなかった。
* * *
シーメンス事件。大浦事件。大正デモクラシー。
後の世の歴史家たちは、この時代を「民主主義の芽吹き」と呼ぶだろう。
だが当時を生きた者たちにとって、それは芽吹きであると同時に、炎だった。
新聞という"第四の権力"が巨大化し、競争が激化し、刺激的な記事が飛び交う。
政府は旧い作法のまま沈黙を守り、沈黙が生んだ空白に噂が住みつき、噂が事実を駆逐していく。
矢島が作った「定例説明」という仕組みは、その構造に一つの楔を打ち込んだ。
空白を埋めること。噂より先に事実を走らせること。
それは確かに、一つの勝利だった。
だが、勝利には必ず代償がある。
情報を握る者は、情報を選べる。選べる者は、操れる。
その力が、いつか誰かを守るために使われるのか。
それとも、誰かを潰すために使われるのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
(第二話 了)




