第一話 炭鉱の猫
第一話 炭鉱の猫
一、崩落
大正七年、初夏。山口の片田舎に、まだ蝉の声は届いていなかった。
三上哲太、十二歳。曲がったことが大嫌いで、正義感だけは人一倍強い。ただし猪突猛進で空気を読まないため、いつも余計なことに首を突っ込んでは周囲を困らせる、そういう少年だった。
「なぁ哲太、あっちで猫の鳴き声しねえか?」
和也が指差した先には、廃坑の入り口が黒い口を開けていた。明治の終わりに閉山した古い炭鉱で、危険だから近づくなと大人たちに散々言われている場所である。
「ほんとだ。聞こえる」
哲太の背後で、のこが不安そうな顔をした。体格のいい彼女は普段は気が強いが、こういう場面では妙に慎重になる。
「どうしよう。ここ、今にも崩れそうだし……誰か大人の人を呼んでこようか?」
「いや、こんな危険なところ、すぐ助けないと手遅れになっちゃうよ」
哲太は坑道の入り口を覗き込んだ。崩れかけた支柱の隙間から、か細い鳴き声が聞こえてくる。
「ちょうどこの隙間から入れそうだ。俺、行ってくる」
「駄目だよ、危ないって! なんかあったらどうすんだよ!」
和也が腕を掴もうとしたが、哲太はするりと身を躱した。
「平気平気。そらよっと」
狭い隙間に体をねじ込む。湿った土の匂いと、朽ちた木材の臭いが鼻を突いた。目が暗闘に慣れてくると、奥の方で小さな影が震えているのが見えた。
白い毛並みの子猫だった。痩せ細っていて、泥だらけで、不安そうにこちらを見つめている。
「ほら、こっちおいで。大丈夫だよ」
哲太がそっと手を伸ばすと、子猫は怯えながらもそろりそろりと近寄ってきた。冷たい鼻先が指に触れ、ざらりとした舌が皮膚を舐める。
哲太は子猫を胸に抱え、来た道を慎重に戻り始めた。
「おい、今からそっちに猫を持ち上げるから、受け取ってくれ」
入り口で和也が手を伸ばす。のこも心配そうに覗き込んでいる。
その瞬間だった。
足元がぐらりと揺れた。
轟音。
視界が真っ暗になり、何かが背中を打った。口の中に土が入り込む。息ができない。
どこかで誰かが叫んでいる。
「哲太ぁぁぁ!」
「大人の人を呼んでこなきゃ!」
「私、呼んでくる……!」
声が遠ざかっていく。
抱えていた子猫の温もりだけが、かろうじて意識をつなぎ止めていた。
* * *
暗闇の中で、哲太は夢を見た。
いや、夢というには、あまりにも鮮明だった。
「阿部太郎ばんざーい! 当選おめでとうございます……」
歓声。紙吹雪。見知らぬ男が壇上で手を振っている。
「中国が尖閣で圧力を強めてきています。どうしましょうか?」
「今は我慢の時期だ。とにかく対話のチャンネルだけは開いておけ……」
場面が変わる。豪華な部屋。スーツを着た男たちが深刻な顔で話し合っている。
「先生、タロウノミクス大成功ですね」
「大成功なものか。……まったくどうしたものか……」
場面が切り替わる。
空気が急に重くなった。
「お前のせいで——」
声が途中で途切れた。
次の瞬間、耳の奥に乾いた破裂音だけが残った。
冷たい。全身が凍りつくように冷たい。
その時。
「……にゃ」
すぐ近くで小さな声がした。間の抜けた鳴き声。哲太の身体が、少しだけ現実に引き戻される。
冷たさは消えない。でも、息ができる。
* * *
目を開けると、見慣れた天井があった。
自分の部屋だ。布団の中に寝かされている。体中が痛い。頭がぼんやりする。
目の前に、やつれた中年女性の顔があった。心配そうに覗き込んでいる。
「哲太……やっと目を覚ましたのね」
母だった。目の下に隈ができている。何日も眠っていないような顔だ。
「よかった……お医者様にも覚悟するようにって言われて、本当にどうしていいか……
でも、本当によかった」
涙声だった。哲太は口を開こうとしたが、喉がからからで声が出ない。
「てった……僕は阿部太郎……」
自分でも意味のわからない言葉が口をついて出た。
「何を言ってるのこの子は」
母が困惑した顔をする。
「やっぱり頭を打っておかしくなったのかしら……」
「あ、ごめん。今、何言ったんだろう」
哲太は頭を振った。さっきまで見ていた映像が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。何か大事なことを見たような気がするのに、思い出せない。
「ところで僕は一体どうして……そうだ、猫を助けようとして……そうだ、猫は⁉」
起き上がろうとした瞬間、顔に柔らかいものが触れた。
「にゃー」
白い子猫が、哲太の鼻先を舐めている。
「よかった……無事だったんだね」
哲太は子猫を抱き寄せた。小さな体が喉を鳴らしている。
「本当にこの子は」
母がため息をついた。でもその目は優しかった。
「でも、本当によかった」
三上家の嫡男は、こうして九死に一生を得た。代わりに、説明のつかない頭痛と、断片的な「何か」の記憶を抱えることになった。
子猫は「コーゴ」と名付けられ、哲太の肩が定位置になった。
二、汚れ
それから五年が経った。
大正十二年、哲太は十七歳になっていた。相変わらず曲がったことが大嫌いで、空気を読まず、トラブルを起こしては周囲を困らせる。変わったことと言えば、時折襲ってくる頭痛と、その時に口をついて出る意味不明な言葉くらいのものだった。
その日、哲太は町を歩いていた。肩には白猫のコーゴが乗っている。五年で随分と大きくなったが、哲太の肩が定位置なのは変わらない。
米問屋の佐吉の家の前を通りかかった時だった。
裏口から、見覚えのある人影が出てきた。
山岸——三上家の番頭だ。懐に何かをしまい込みながら、きょろきょろと辺りを窺っている。
「山岸さん、何してんだ?」
声をかけると、山岸はぎょっとした顔で振り返った。
「わ、若旦那……」
「今、懐にしまったの何?」
山岸は目を泳がせた。哲太は構わず詰め寄った。
「見せろよ」
「これは、その……」
山岸が観念したように取り出したのは、分厚い封筒だった。中を確認するまでもなく、それが何かはわかった。
「賄賂じゃねえか。佐吉のとこ、今年は不作で生活苦しいって聞いてるぞ。そんな家から金取ってんのかよ」
「違うんです、これは旦那様の命令で……」
「親父の?」
哲太は山岸を置き去りにして、家に駆け戻った。
* * *
父は書斎にいた。
三上家当主、三上源三郎。先代の一人娘である母に婿入りした養子だが、誠実で真面目な人柄は地元民に愛されている。哲太も父を尊敬していた——さっきまでは。
「親父! 山岸が佐吉の家から金受け取ってた。あれは何だ」
父は顔を上げた。眉一つ動かさない。
「付け届けだ」
「付け届けって……賄賂じゃねえか!」
「そう呼びたければそう呼べばいい」
父の声は静かだった。
「佐吉のところは今年不作で苦しいんだろ!? そんな家から金を——」
「だから受け取った」
意味がわからなかった。
「……は?」
父は立ち上がり、窓の外を見た。
「佐吉は今年だけじゃない。三年前から不作続きだ。今年で三度目の付け届けになる。一度目は利息なしで金を貸した。二度目は米を回した。三度目の今回も、受け取った金の倍は返すことになるだろう」
「じゃあなんで受け取るんだよ! 最初から助けてやればいいじゃねえか!」
父は振り返った。その目は、哲太が知っている優しい父の目ではなかった。
「施しは人を殺す」
「……何だよそれ」
「何の対価も払わずに助けられた者は、やがて自分で立てなくなる。佐吉には米問屋の主としての誇りがある。それを奪うわけにはいかん」
父は机の上の帳簿を手に取った。
「付け届けを受け取り、その記録を残す。表向きは佐吉が地主に義理を果たした形になる。裏では倍にして返す。佐吉の顔は立ち、実質的には援助になる。——汚いやり方だ。だが、村を割らずに済む」
「……納得できねえ」
「納得しなくていい」
父は帳簿を閉じた。
「お前はまだ子供だ。いずれわかる時が来る」
「俺は子供じゃねえ!」
哲太は叫んだ。コーゴが驚いて肩から飛び降りる。
「親父がそういう人間だとは思わなかった。俺は——俺は親父を尊敬してたのに!」
父は何も言わなかった。ただ静かに息子を見つめていた。
哲太は踵を返し、家を飛び出した。
三、邂逅
忌宮神社は、町外れの小高い丘の上にあった。
哲太は子供の頃から、何かあるとここに来る癖があった。本殿の床下に潜り込んで、一人で膝を抱える。誰にも見つからない、自分だけの場所だった。
今日もそうしていた。コーゴを肩に乗せて、薄暗い床下でうずくまっている。
どれくらいそうしていただろう。
「ああ、そこの若造。そんなところで何してる?」
声がした。
顔を上げると、スーツでびしっと決めた中年の男が立っていた。顎髭を生やし、どことなくアウトローな雰囲気を漂わせている。年齢は三十代後半といったところか。
「あ? おっさんには関係ないよ」
「お、おっさん⁉」
男は一瞬ひるんだが、すぐに持ち直した。
「まあいい。お前だろ、三上さんところの馬鹿旦那ってのは」
「馬鹿じゃねえ!」
哲太は床下から這い出した。コーゴが不満そうに鳴く。
「何しに来たんだ。もしかして親父の差し金か?」
「いや、ただちょっと興味があって寄ってみたら本当にいたから、声をかけただけだ。特に意味はない」
「そうかよ。じゃあとっとと帰れ」
「まあそう言うな」
男は境内の石段に腰を下ろした。
「これも縁だ。話くらい聞いてやる。何があった? 困った時は他人に話すってのも、悪いもんじゃないぞ」
哲太はしばらく黙っていた。だが、胸の中で渦巻いているものを吐き出したい気持ちもあった。
結局、しぶしぶ経緯を話し始めた。
「——だから親父に食ってかかったんだよ。そしたら『社会ってのはそういうもんだ』って。『別に悪いことしてるわけじゃない』って。ふざけんなよ。佐吉の家は今、生活苦しいのに、そんな家に賄賂を要求するなんてありえない。俺は親父を尊敬してたのに、もう信じらんねえ」
男は黙って聞いていた。哲太が話し終えると、ゆっくりと口を開いた。
「なるほど。確かにそれは付け届け……まあ賄賂でもあるが、見方を変えたら保険なんだよ」
「保険?」
「三上のおやっさん——お前の親父は、代々この地の地主として、この地域を収める責任がある。飢饉や大震災、不況の際は率先して炊き出しをしたり、お上に陳情に行ったり、走り回ってる。小さな商店なんかも見回って、時には金を貸したりもしている」
男は空を見上げた。
「だから逆の立場から言えば、そんな地主に見限られないよう、平時から関係を強めておくんだ。付け届けってのは、そういう意味がある」
「さっぱりわかんねえ。賄賂は賄賂だろ」
「本当に噂通りの馬鹿旦那だな」
男は苦笑した。
「社会ってのは表も裏もある。表だけじゃ生きられないし、裏も単純な悪じゃない。ここの住人は三上家を必要とし、三上家はここの住人を必要としている。平時は三上家が金を集め、危機が来ると三上家が財産を解放して住人を救う。持ちつ持たれつってやつだ」
哲太は黙った。頭では理解できなくもない。だが、心が納得しない。
「……でも、俺はそういうやり方が嫌いだ」
「嫌いでいい」
男は立ち上がった。
「嫌いなまま、やり方を変える方法を考えろ。正しさで殴ると、折れるのは大抵味方だ。覚えておけ」
その言葉には、どこか実感がこもっていた。
「お前も次期三上家当主なんだろ。よく考えろ。わかったらとっとと家に帰れ、親父さん心配してるぞ」
男は踵を返し、参道を下りていった。その背中を見送りながら、哲太は呟いた。
「……おっさん、名前は」
男は振り返らずに答えた。
「矢島だ。矢島達也。そのうちまた会うこともあるだろう」
その夜、哲太は不承不承家に帰った。
父とは目を合わせなかった。だが、母が用意してくれた夕食は、黙って全部平らげた。
四、押しかけ弟子
それから数日後、東京。
矢島達也が事務所に戻ると、中が騒がしかった。
「どうした、騒々しい。何かあったのか」
「あ、先生、お帰りなさい」
秘書の一人が駆け寄ってきた。
「実は三日前から、肩に猫を乗っけた変な若者が先生に会わせろって言って、裏口に居座ってて、てこでも動かないんです」
「肩に猫……」
矢島は嫌な予感を覚えた。
事務所の裏口を覗くと、案の定、見覚えのある馬鹿旦那が胡坐をかいて座っている。
肩には白い猫。
「おっさん! やっと会えた!」
「……なんでお前がいるんだ」
「おっさん言っただろ、考えろって。だから考えた。でもわからなかった。だから聞きに来た」
「まじかよ……」
矢島は頭を抱えた。
「どうしましょう、警察に突き出しましょうか」
秘書が言うと、別の秘書が慌てて止めた。
「ちょっと待て、あれ後援会長の息子だぞ……」
「まじですかぁ……」
矢島はため息をついた。
「ああ、わかった。まあとりあえずそこにいられると邪魔だ。中に入れ」
哲太は素直に従った。事務所の中に入り、興味深そうにきょろきょろと見回している。
矢島は秘書に命じた。
「三上家に電報を打て。息子さんが来てるが、どうするか確認しろ」
しばらくして、返信が届いた。
矢島はその電報を見て、深くため息をついた。
「『メイワクカケル ワルイガ ムスコノメンドウタノム シュギョウサセテクレ』……だと」
「何て?」
哲太が首を傾げる。矢島は電報を握りつぶした。
「おい馬鹿旦那」
「馬鹿じゃねえ」
「実家に頼まれた。しばらくここにいさせてやる」
哲太の目が輝いた。
「ここで社会について勉強しろ。——それから、俺のことは先生と呼べ。俺はお前のことを呼び捨てにする。わかったな」
「はい、師匠!」
「先生だと言っている」
矢島は諦めたようにため息をついた。
その夜、矢島は一人で事務所に残り、古い書類を整理していた。
引き出しの奥から、色褪せた原稿用紙の束が出てきた。『国民のための政治改革私案』——若い頃に書いた草稿だ。理想に燃えていた時代の残骸。
今はもう、こんなものを信じてはいない。
だが、捨てることもできずにいた。
矢島は原稿用紙を引き出しに戻し、窓の外を見た。
「馬鹿旦那、か」
正義感だけで突っ走る愚かな若者。かつての自分を見ているようで、どうにも放っておけなかった。
「……面倒なことになりそうだな」
矢島達也——立憲政友会所属、山口を地盤とする中堅政治家。
三上哲太——山口の地主の息子。時折、説明のつかない言葉を口走る不思議な青年。
二人の出会いは、やがて日本の歴史を大きく変えることになる。
だが、それはまだ、誰も知らない未来の話だった。
(第一話 了)




