切符
友人が大学を辞めて実家に帰るというので、その見送りに向かった。出発は午後八時、平日のローカル線の駅は閑散としていた。底冷えする冬の夜だった。
待合室で、友人は見送りの礼と言って私に一缶のホットココアを手渡した。私がそれを受け取ったとき、友人は自虐とも違う穏やかな笑みを浮かべた。その訳を聞くと、友人は私の隣に座り、ゆっくりと語り出した。
電車の時間まではまだ少しある。
*
単調に続く列車の振動を体に感じながら、私は窓の外を眺めていた。流れていく風景は、ほとんど覚えがないものだった。窓から見える景色は今朝から見えていた無機質なビル群とはあまりにも違っていた。まだ列車に乗って一時間余りといった頃であったのに、既に視界を埋め尽くす灰色の煙は、黒と小麦色に染まる田畑に変わっていた。刈り入れが終わり、これから本格的な寒さがやってくる、そんな冬の日に私は一人田舎へと向かっていた。
その車両には私以外誰一人として乗っていなかった。酷く寂れた空気が私を不安にさせた。効きの悪い暖房が鈍い音を立てて気持ち悪い風を送り出していて、私は身震いした。もう一度窓の外を見た。相変わらず小麦色の陽が放られた藁を照らしている。とても暖かそうだ、と私は思った。胸の内に入れた時計を取り出す。列車が予定の駅に到着するまでまだかなりの時間がある。私は一人大きなため息をついて、椅子に深く座り込んで背中を預けた。せめてその景色を見ないようにと目を閉じた。
するとその時、背後で扉の開く鈍い音がした。古い列車なので立て付けが良くない。車掌でも回ってきたのかと、私は目を開けた。しかし、その音の主は私に姿を見せなかった。こつこつという小さな音は、私の後ろの席まで来るとふいに止まり、やがて背中に微かな衝撃が伝わってきた。誰かが私と背中合わせになるように椅子に乗ったのだ。
「誰がこんな寂れた列車に乗ってきたのだろう」
背中に伝わるかすかな気配から、誰かがそこにいることは確かだった。しかし、私の席からでは真後ろに座るその姿を見ることは出来なかった。私は耳を澄ました。相変わらず単調な列車の揺れる音が聞こえている。それに混じって、カーテンを開く音がまるでささやき声のように聞こえた。私が乗る前にその席に座っていた客が開けずに降りたらしい。私はその客にほんの少しばかり感謝した。確かに誰かがそこにいる。
「多分こいつは窓の外を眺めている」
私も同じように外を眺めた。小麦色の田畑はまだ続いていた。いつまで続くのだろうかと考えるのは気が重かった。私はカーテンを閉めようとして、隣から聞こえてきたため息に手を止めた。それは確かにため息だった。しばらく待っていたが、カーテンが閉められることはなかった。
「こいつは私に気づいているのだろうか」
今度は、私は出来るだけその人のことを意識しないように努めた。さっきまでのように目を閉じて眠るような体勢をとった。しかし、耳だけは鋭敏に機能していた。じっと獲物を待つ狩人のように、私は息を潜めて次の動きを待っていた。突然目の前が暗くなった。目を開けると、どうやらトンネルに入ったようだった。列車の音が壁面に反響して鈍く暗い音に聞こえる。緊張していた耳が痛いような音を立てた。
その時、彼が動いた。突然、強く冷たい風が列車の中に吹き込んできた。彼はトンネルの中であるにもかかわらず窓を開けたのだ。風は細く椅子の間を流れた。私は何も言わずにその動きを窺っていた。古い列車である。がたついた窓はそう簡単に開けられるものでもなく、座席の裏から見える限りでは、ほんの十センチばかり上げるのがやっとだったようだ。彼は窓を開けるのを止めると、なにやら荷物を探っているようだった。私は窓に意識を集中していた。でなければきっとそれを見逃していただろう。私は確かに何か小さな光のようなものが、窓の外を列車の後ろの方へと流れていくのを見た。彼は窓を下ろした。風が収まった。
やがて列車はトンネルを抜けた。窓の外は相変わらずの景色だったが、私の目には先ほど流れていった光が焼き付いていて、それが一筋の線を作っているように見えていた。ふいに、背中の気配が消えた。わずかな変化だったが、足音は彼が入ってきた扉の方へと向かい、やがて鈍い音と共に隣の車両へと消えた。
奇妙な客だ、と私は思った。私はカーテンを閉めようとして、ふと気づいて懐中時計を取り出した。窓の外が小麦色から赤茶色へと変わっていたのだ。もうじきその夕焼けも夜の暗闇に変わる。その風景ぐらい見ていてもいいだろうと、私はまた背中を預けて窓の外を眺めていた。
黄昏が漆黒に変わる頃、再び車両の扉が開かれた。聞き覚えのある足音が近づいてきて、私の隣で止まった。足音の主は私の向かいの席に座った。彼は私の想像と全く違っていた。彼は少女だった。まだ小学生にも見えるような、幼い少女が私の前に座っていた。
「あの」
黒いセーラー服を着た少女がおずおずと口を開いた。私は彼女の姿をじっと観察していた。その姿は、私の目にはずいぶんと古風に映った。体格や肩から提げた鞄は、確かに先ほどのあの音を否定しなかった。少女は確かに、先ほど私の後ろに座っていたのだ。
「切符を探してくれませんか」
彼女は幼い声で私に話しかけた。小学生ほどの少女が見ず知らずの他人に声を掛けるのには相当の勇気が必要だったに違いない。私は出来る限り親身な態度で彼女の言うことに耳を傾けた。彼女は切符を失くしてしまったらしい。列車の中であることは間違いないのだが、今まで探しても見つからない。そこで私に協力して欲しいというのだ。
「何処まで行くのですか」
「行けるところまでです」
「切符は何処までのものだったのか、ということです」
「だから、行けるところまでなのです」
彼女は顔を伏せた。私はその様子を冷ややかな目で見ていた。彼女がもしこの先の駅の名前をどれか挙げたとしても、私には分かるはずもなかった。そこまでの観察力や思考力は彼女にはなかった。それを期待するのは少々無理があった。それほど彼女は幼く見えた。
「電車の中とはいえ、一枚の小さな切符を探すのは難しいでしょう」
「はい、そう思います」
「それでも探すのですか」
「探さなければ、列車を降りられません」
「何処で降りるのですか」
「行けるところまで行った、そこでです」
彼女はその言い方を繰り返した。彼女はそれに強いこだわりを持っているのが分かった。その感覚は私にも覚えがあった。私が彼女と同じぐらい幼かった頃、私は自分一人で行けるところまで行ってみたいと思ったことがあった。学校や家が嫌になったわけではない、ただ、何処かへ。自分が出来ることを確かめてみたかった。見知らぬ世界に自分をおいてみたかった。しかし、私は途中でその道を降りた。
彼女は何も言わずに待っていた。私はその答えを知っていた。私は窓の外を見た。暖かな日差しはもう影もなく、ただ何処までも続く暗闇と不気味に浮かび上がる街灯の光が気味悪く流れていくばかりだった。私はそれが怖かった。だから私は降りた。彼女は俯いたまま握った自分の手をじっと見つめていた。
私は再び窓の外を見た。今、私はその先に人がいることを知っている。家があり、生活があり、道がある。バスが通っているかも知れないし、あるいはこの線路を逆に辿る列車がまだやってくるかも知れない。探せばおそらく宿があって、そこで朝を待つことも出来る。今の私は列車を降りた先を恐れることはない。
彼女は押し黙っていた。喋ることすら出来ぬようだった。車内放送が聞き覚えのない駅の名前を知らせた。次の駅では少々待ち時間があるらしい。私は自分の荷物から切符を取り出した。
「何処までも行ける切符などありません。ですが、あと少し先まで行ける切符なら、ここに」
私は彼女の小さな手を開かせた。しっとりと汗をかいていた。僅かに震えているようだった。ふいに抱きしめたいような衝動を覚えた。抱きしめて、そっと頭を撫でてやりたい。大丈夫と言ってやりたい。しかし、私にはそれを言ってやる資格はなかった。私は諦めたのだ。
開いた幼い掌に私は自分の切符をそっと乗せた。彼女の顔がぱっと明るくなった。その顔に、私は不格好な微笑みで返すことしかできなかった。列車がゆっくりと止まった。私は自分の荷物を持つと席を立った。
申し訳程度の電灯が照らす暗いホームにいるのは私だけだった。特急列車が通り過ぎるのを待つ間に私は自販機を探し、ホットココアを一本買った。外は酷く冷たい風が吹いていた。
私は自分が座っていた席を探してホームを歩いた。彼女はすぐに見つかった。私が窓を叩くと、彼女はすぐに気づいて窓を開けようとした。やはり十数センチほどしか上がらなかったが、それで十分だった。空いた隙間からココアの缶を滑り込ませると、彼女は中でちゃんと受け取った。
「ありがとう」
彼女は本当に嬉しそうな顔をして、それだけ言った。
「頑張りなさい」
私は出来る限り穏やかに微笑んで、それだけしか言えなかった。しかし、私は満足していた。彼女に渡したホットココアが、私の代わりに彼女と共に行ってくれるだろう。私の行けなかったその先へ、彼女は行こうとしている。そして、彼女は行けるだろうと思うと、自然穏やかな気持ちになった。
列車の出発を知らせる放送が聞こえた。彼女は一度頭を下げると、窓を下ろした。私は列車から離れた。やがて、彼女を乗せた列車は夜の闇へゆっくりと、しかし次第に速度を上げながら進んでいき、小さな一つの光となり、それもすぐに消えてしまった。
私の最初期の話では一番のお気に入り。近代小説、特に自然主義と新感覚派が混ざったようなおかしな描写に、ADVのような不思議な出会いと別れは当時の私の書き方そのもの。
幾度かの改稿を経ているが、原案はPS2「120円の春」収録の「120円の冬」をやって内容に納得できなかったため2時間で書いた。ただ、元にしたのは切符をなくして探そうとすることぐらいでその経緯も展開も結果も違うので、元ネタというのも失礼だろう。