35.結婚話とミネストローネ
大聖堂との話し合いが終わりましたとエリーから告げられたのは、この日の夕食後のことだった。
洗い物を片付けながら切り出したエリーの表情はすっきりとしたもので、納得のいく結論が出せたのだなと、俺は心の中で頷いた。
「それで、聖女を辞める話はどうなったんだ?」
「ええ、結局、続けることにしました。条件付きですけれど」
「条件?」
「はい、あと五年のうちに次の聖女候補を探してもらい、その人に後を任せることに」
なるほど、期限を設けたのか。まあ、大聖堂側にしてみても、いますぐ辞められるよりかはいいだろうな。
「それと……。実はもう一つ、大聖堂に認めてもらった条件がありまして……」
「へえ? どういう条件なんだ?」
「結婚です」
食器棚に皿をしまいながらエリーはさりげなく声に出した。
「務めを果たしている間、聖女は伴侶を持たないという慣例みたいなものがあるのですが、これを認めてもらいました」
「結婚か……」
そう声に出したのは俺ではなく、食後の紅茶を口にするレオノーラである。
「私も両親から『いい加減に結婚しろ』と、いくつか見合い話を持ちかけられていたな」
「そうなの?」
「うん。まあ、全部断ったが」
膝の上に座った黒猫のラテを撫でながら、レオノーラは続ける。
「相手のことをよく知らないのに、顔を合わせるなり結婚するというのはどうにもな」
「お互いのことをよく知るためのお見合いでしょう? なにも一度顔を合わせただけで結婚するわけじゃないのよ」
「私だってわかってはいる。だが、面倒くさい」
煩わしげに応じた女剣士は、ラテを抱き上げると、「なにかおきたのか?」と言いたげな黒猫の顔を見やりながら呟いた。
「結婚なんてしなくても、いまの生活は割と気に入っているし。このままでもいいんじゃないか。なあ、ラテさん?」
「にゃあ?」
「ふふ、ラテさんには少し難しかったかな」
微笑んだレオノーラはラテを抱きかかえる。そんな幼なじみの顔を見やりながら、エリーは軽くため息をつくのだった。
「そんなことを言っている間に、いい人が見つかるかもしれないわよ? 逃げられたらどうするの?」
「そんな都合良く現れるわけないだろう? まったくエリーは心配性だな」
女性陣の会話を聞きながら、俺はといえば沈黙を貫いていた。男性と女性では結婚観も違うだろうし、その上、俺は異世界からやってきているのだ。こちらの世界の常識とは価値観がずれている可能性があるのに、口を挟むのはいささか気が引ける。
ましてや、結婚なんてデリケートな話題においそれと首を突っ込むわけにはいかない。ここはおとなしく聞き手に回るのが得策だろうなと考え込んでいると、顔を覗き込むようにしてエリーが小首をかしげた。
「透さん? どうしたんですか?」
「……へ? え? なにが?」
「お片付け、終わりましたけれど」
気付けば洗い物はすっかりと終わっていて、無意識のうちに片付けていたのかと俺は自分自身の行動に若干の驚きを覚えるのだった。
「乗馬の練習もされたそうですし、お疲れなのでは?」
「あ~、もしかするとそうなのかも?」
「よろしければマッサージしますよ? ……透さんがよろしければ、ですが」
少し気恥ずかしそうにエリーが口を開く。他意はないんだろうけれど、その表情は心をドギマギさせるには十分過ぎる破壊力を持っているのだった。
まいった、どう応じるべきかな、なんて言葉を選んでいると、割り込むようにしてレオノーラが口を挟んだ。
「マッサージなら私も得意だぞ、透。一角獣騎士団秘伝の妙技を披露しようか?」
「にゃ」
「お、ラテさんもマッサージするか? よしよし、一緒に透をいたわってやろうじゃないか」
「もうっ、透さんには私がマッサージするのっ。レオノーラが一緒じゃなくても大丈夫なんだからっ」
少しだけ苛立たしげにエリーが呟く。
……あれ? これはなんか、微妙な雰囲気になりそうな予感がするぞ……?
それとなく嫌な空気を察した俺は、二人に「気持ちだけ受け取るよ、ありがとう」と礼を伝え、きびすを返した。
「ど、どちらへ?」
「うん。今日はもうお風呂入って寝ちゃおうかなって思ってさ」
そう言い残し、そそくさとキッチンを立ち去る。残っていたら、二人から「どちらかを選んで」みたいな感じになりかねなかったかなあ。危機回避というやつだ。
しかし、そうか、結婚かあ……。エリーも大聖堂側をよく説得したもんだなあ。
『お店が、ですか? ……それとも透さんが、ですか?』
同時に脳裏へとよみがえるのは、先日のエリーの言葉である。あの日以来、特段変わりもなく、ごくごく普通に過ごしているエリーの様子から察するに、あの発言には特に深い意味がなかったらしい。
やれやれ、早合点した自分が恥ずかしいね。クローディアに恋愛相談をした自分を殴ってやりたい気分である。
今回の結婚を認めてもらう云々も将来の可能性を広げるためのものなのだろうなあ、きっと。
そう考えながら、俺は就寝するための支度を調え始めたのだが。
翌日、それが誤りであったことを思い知らされることになる。
***
「透さん、おはようございます。朝ですよ~」
心地よい柔らかな声が耳に響く。それがエリーの声だと気付いたのは数秒経ってからのことで、俺はベッドに身を起こすと、嬉しそうにこちらを見やるエリーと、彼女に抱きかかえられるラテを交互に見やった。
「あれ? エリー……? どうして、俺の寝室に?」
「モーニングコールです。ご迷惑でしたか?」
「にゃにゃあ」
「いや、ぜんぜん迷惑じゃないけど……」
いままでそんなことをされた覚えが無いので、正直、驚いているのだけれど……。そう口にするよりも早くラテがベッドに乗り移り、ふわあと大きなあくびをして丸くなった。
「もう、ラテったら。起こしにきたのに眠ったら駄目じゃない。……あ、待ってください、透さん。寝癖が……」
そう言って、エリーは俺の頭を撫でるように手ぐしで整えはじめる。なにが起きているのか、いまいち状況を飲み込めないこちらを気にも留めず、エリーは笑顔を浮かべ、「これでよしっ」と続けるのだった。
「朝ご飯、一緒に準備しましょう? 先にキッチンへ向かいますね?」
「……あ、うん」
満足そうに頷くエリーはプラチナブロンドのロングヘアを揺らすように、くるりと振り返り、軽い足取りで階段を降りていく。
……妙に明るいというか、積極的というか? なんとも言い表せない違和感を覚えることだけは確かなのだ。
違和感はなおも続く。
顔を洗っていると、いつの間にか現れたエリーがニコニコ顔でタオルを差し出してくれるし、朝食の準備をする間だって、ほぼ密着に近い。
しまいには、
「朝ご飯の前にお風呂はいかがですか? お背中お流ししますよ?」
とか言い出してくるし。どうしたんだ、いったい?
……いや、どうしたもなにも、ここまでされたら朴念仁でもわかるというか。
この前のやりとりも、昨日の結婚話も、今日の積極的な態度も、つまりは俺を想ってくれてのことなのだろう。
それはお昼前に足を運んだ畑でも同様で、エリーは作業をしながらも、ちらちらとこちらを見やりながら、俺を気に掛けているのがわかるのだ。
エリーに好意を向けられるのは、正直、とても嬉しい。とはいえ、甲斐甲斐しくお世話をされるのは、なんか違うというか……。
ふぅと大きく息を漏らした俺は、作業の手を止める。
「あ、透さん。休憩ですか? 汗、お拭きしますね」
「エリー」
「はい、なんですか、透さん?」
タオルを差し出してくる彼女の手を優しく握り返し、俺は続けた。
「いつも通りで大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「その、今日のエリーはなんというか、普段と違って積極的というかさ」
「…………」
「ええっと、上手く言えないんだけど、そんなことしなくても、エリーの気持ちはわかっているというか……」
というか、彼女にここまでの行動を取らせてしまった要因のひとつは俺にあるのだろう。はっきりとした態度を取らないことがエリーを不安にさせてしまったのかもしれない。
そんなことを考えていると、エリーは予想外の言葉を口にした。
「……私、透さんに嫌われたのかもと思って……」
「どうして?」
「だって、この前、あんな透さんを試すようなことを言って……。透さん、からかわれたと思っているんじゃないかって。……その、だから、私、振り向いてもらおうと思って」
なるほど、妙に積極的だったのはそのせいか。
「バカだなあ。俺がエリーを嫌うわけがないじゃないか」
「でも……」
「あのね、エリー。エリーは俺にとって大切な人だよ?」
その言葉に、エリーは瞳を輝かせる。
「それって……」
「その、エリーに惹かれていることは確かなんだ。でも、一人の女性として見られるかというと、急展開過ぎて、返事に困るというか……」
「……そうですか」
途端にエリーは表情を曇らせる。ああ、違う違う、決して悲しませたいわけじゃなくて、言いたいのは別のことなんだ。
「だからね、これからお互いのことを知りながら、ゆっくり時間をかけて関係を深めていければいいなって。……それじゃあダメかな?」
我ながらなんとも回りくどい返答をしているなと思うけれど、同時に、これでも精一杯の誠意を尽くしているつもりなのだ。
大切な恩人を、そんなに簡単に恋愛対象にしていいものか。考えに考えた結論がこれである。
優柔不断と言われるかもしれない。そんな覚悟をしていたものの、エリーにとっては満足のいく答えだったようだ。
頬を紅潮させたエリーは、瞳を潤ませると、
「はいっ、はいっ! 末永くよろしくお願いしますっ!」
と、いささか気の早い言葉を口にするのだった。それでも落ち着かないといった様子のエリーは、身体をもじもじさせながら、上目遣いで訴える。
「あの、透さん。お願いがあるのですが……」
「お願い?」
「その、ぎゅって……。抱きしめていいですか」
……それは、俺も耐えられそうにないから我慢してください。
***
畑で収穫を終えた俺たちが自宅兼店舗に戻ると、意外な来客がテーブルに腰を落ち貸せていた。
「ごきげんよう、透様。エリーお姉様もお久しぶりですわ」
「サラ、遊びに来てくれたの?」
「いえ、お姉様。今日は透様を見定める続きに来たのですわ」
そう言って、小さな淑女はこちらに視線を向ける。
「また俺か……」
「なんですの、そのため息は。紳士たるもの、立ち振る舞いはしっかりしていただきませんと」
「はいはい。ところでレオノーラはどこに行ったんだ?」
椅子の背後で佇立するセバスが一礼した。
「レオノーラお嬢様でしたらジョセフィーヌの様子を見に行かれました」
なるほどと応じながらキッチンに足を運んだ俺は、エプロンを身につけ、昼食の準備に取りかかることにした。
「せっかくだ。サラも食べていくだろう?」
「よろしいのですの!?」
「うん、畑で収穫したばかりの野菜で、お昼ごはんを作ろうと思ってね」
「……お野菜」
みるみるうちに元気をなくしていくサラに、セバスが声を掛ける。
「お嬢様……。淑女たるもの好き嫌いは」
「わわわわわ、わかっておりますわっ! 私に好き嫌いなどありませんものっ! 新鮮なお野菜、どーんとこいですわっ!」
胸を張って応じるサラだったが、顔色は悪い。励ますように近づいたラテが足元にすり寄り、それを撫でることで、いくぶん気は紛れたみたいだけれど。
やれやれ、仕方ない。ここは小さなレディのために、小さく切った野菜を使った料理を作ることにしますかね。
***
今回、使う野菜はタマネギ・にんじん・ジャガイモ・キャベツだ。ジャガイモは保管してあるものを使って、それ以外は畑で収穫いたものを使用する。
促成生育が特徴の品種を植えていたそうで、それぞれ十日にんじん・二十日タマネギ・三十日キャベツという名前がついているらしい。サイズはどれも小ぶりだけれど、カットして使う分には問題ない。
野菜類はサイコロ状にカットしておく。鍋を火に掛けたらニンニクをオリーブオイルで炒めて香りを出し、細かく切った野菜類を加えて炒めていくのだ。
ここにすりつぶしたトマトとコンソメスープを加えて煮込んでいく。仕上げに塩とコショウで味を調えたら、ミネストローネの完成だ!
***
「美味しそうな匂いがしますわ~……」
「味見してみる?」
「いいんですの!?」
椅子に腰掛けながら、サラはパタパタと嬉しそうに足を前後に振ってみせる。たっぷりと野菜を使っているんだけど、どうにも忘れてしまっているらしい。
小皿にそそがれたミネストローネを、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口に運んだサラは、とろけるような瞳とうっとりとした表情でほぅと息を漏らした。
「ん~~~~~~……、いろいろな具材が溶け合って……。ものすっごく美味しいですわあ……」
そんな試食の様子を微笑ましく見守っていたエリーは、思い出したように両手を合わせてみせる。
「私、レオノーラを呼びに行ってきますね」
「うん。俺はパンを準備しているからよろしく頼むよ」
はあいという、明るい返事を耳にしながら俺はオーブンと向き直る。すると、ようやく我に返ったらしいサラが、話題を転じるように、わざとらしく小さな咳払いをするのだった。
「そういえば、透様。ジョセフィーヌは乗りこなせるようになりましたの?」
「昨日の今日で無茶言わないでくれよ。こっちは乗馬なんて未経験なんだから」
「まあ。なにを情けないことを仰っていますの。紳士たるもの、馬の扱いには長けていませんといけませんわ。これも透様を見定めるための一環なのですから」
「見定めるなら、他にも方法があると思うけど」
初めてサラが訪れた際、レオノーラの同居相手として相応しいかどうかを見定めると話していたのだ。乗馬は関係ないと思うんだけどなあ。
そんなことを考えていると、サラは小首をかしげ、とんでもなことを言い出した。
「同居相手として相応しいかどうかを見定めるつもりはありませんわ」
「それなら、いったい、なにを見定めるつもりなんだ?」
「決まっているじゃありませんか。レオノーラお姉様の伴侶として相応しいかどうか、ですわ」




