ファミリアに捧ぐ 80
そして道中、いくつかの休憩を挟み、最初の宿営地に辿り着く。
案の定アロゴを下りた直後のカガリは、少しの間その場からまともに動き出せなかった。子供のミアのほうが余程元気だった。
なんとか宿の簡易ベッドまでは辿り着けたものの、カガリはすっかり立てなくなってしまい、アロゴの世話はチサトに任せることとなってしまった。なんとも不甲斐ない自分にカガリはため息を隠し切れない。
足元でアンバーが仰向けで早くも寝息を立てていた。スピスピと鼻を鳴らしている。「こいつ……」とカガリは野性味を失ったアンバーの腹をこれでもかと撫でまくった。
一方宿の裏では、チサトがアロゴを労い、餌をやり、ブラッシングをしていた。
ふと見ると、ミアが物陰からじっとこちらを見ていることに気づいた。二人きりの空気になると、ミアはまだチサトにどうやって接していいかわからないようだ。
「やってみる?」
チサトが声をかけると、ミアは嬉しそうに笑って「うん!」と駆け寄ってくる。手にしていたブラシをミアに渡し、体を抱き上げると「強めにね」とミアの手を持ってブラシをアロゴの体にかけていく。
「ミアちゃんはまだ力が弱いから、両手でしっかりやってあげて」
「うん」
チサトの手が離れると、ミアはブラシを両手で持ち、チサトがやってくれたのを真似ながらアロゴをブラッシングしていく。時折チサトがアロゴを宥めてやりながら、ミアの様子を見守る。反対側も同じようにブラッシングをしていくと、さすがにミアが少し疲れてきたので「お手伝いありがとう。もう大丈夫」とミアを下ろした。
「中にいるお父さんのこと構ってあげて」
「チサトお姉ちゃんも来る?」
「アロゴの世話が終わったら行くよ」
ミアは頷き、宿へと駆け込んでいく。チサトはアロゴに再びブラッシングをしてやりながら、「お姉ちゃんかぁ」と呟いた。さすがにそうすぐには呼び方なんて変えられないか。
この世界における結婚という概念は、定義がとても曖昧だ。結婚=家族になる、という図式として説明するのが最もその形における説明に適していると言えるだろう。
そしてその間におけるやり取りは非常に単純めいている。相手が家族となりたい相手に対し同意を求め、それを相手が承諾すれば、その二人はその時点で家族となるのだ。書類上のやり取りは一切なく、共に暮らし、子を生し、生涯を生きることが当たり前とされる。だから何を持って父となり、母となるのかもその家族によって様々だ。
アロゴ二頭の世話を終える頃には陽も沈み、日中は日差しの暖かさがまだ心地よかったが夜になれば厳しく冷たい風が吹き抜けてくる。もう時期朝起きるのも億劫になる季節だ。復興の妨げにならないといいのだが。
宿に戻ろうとした途中で湯浴み場という立て看板を見つける。昔の宿営地ではあることのほうが珍しかった。あるだけありがたい。
宿の中に入るとテーブル席にミアが座っていた。カガリの姿は施設内の台所にあり、ともすると器にスープを盛り、ご自由にとあるパンが入ったバスケットを手にテーブル席へとやってきた。
「お疲れ様です。夕食にしましょう」
たったそれだけのことだったが、チサトの胸の内には温かいものが広がった。
食事中、外に湯浴み場があったことをチサトが告げると、ミアが食べ終わったらチサトと一緒に入りたいと言い出した。チサトが一瞬困った顔をしたので、カガリが察して「ミア、ミカゲさ、……チサトさん、今日はアロゴの世話で疲れてるから」と伝えた。するとミアもそっかとなり、落ち込みながらもそれ以上は何も言わなかった。
チサトは少しの間そんなミアを見つめていたが、「一緒に入ってもいいけど、一つ約束してくれる?」と不意に言った。
「嫌いにならないって」
「? どうして?」
「どうしても」
チサトの様子に何かを感じたのだろうミアは、「ならないよ! 絶対!」と声を上げた。カガリが心配そうな目を向けてきたが、チサトは大丈夫だと頷き返した。
夕食後、チサトとミアは湯浴み場へと向かっていった。カガリはどうにも落ち着かなくて、無心になりたい一心でアンバーのブラッシングをしていた。
それから程なくして二人は帰ってきた。ミアはチサトの手をギュッと握り締め、言葉が出ないようだった。
「ありがとね、我慢してくれて」
チサトがミアを抱き寄せて背中を叩いてやると、ミアはただただチサトに抱き着いて泣き始めた。自分の出番はなさそうだと、カガリはミアをチサトに任せ、「今日はお前も洗うぞ」とアンバーを連れ湯浴みに向かった。
ミアが何を見たかは想像に難くない。アンバーの汚れを落としてやり、自身も湯の中に浸かる。ミアが見たものをいつかは自分も見る日が来るのだろう。その時の自分は彼女をどういう目で見るのだろうか。そればかりは想像がつかない。
物思いに耽りながら浸かっていたら軽く逆上せてしまった。少しは体の凝りもほぐれたか、それでも節々は痛い。夜風に当たり体の火照りを冷ましてからアンバーと共に宿に戻ると、ベッドに腰掛けるチサトの膝で眠るミアがいた。移動の疲れも出て、ひとしきり泣いたあとは眠ってしまったようだ。ミアを見守るチサトの表情はあまりにも優しい。
「……アテナ」
「ん?」
「いえ」
カガリは首を振り、隣のベッドに腰掛ける。
アンバーが施設内を暖めている薪ストーブの傍で濡れた毛を乾かしに向かった。
「すみません、ミアがわがままを」
「アタシこそ。ミアちゃんが優しいのをわかっておきながら試すような真似して。情けない」
ミアの髪を優しく撫でてやりながら、チサトはため息ともつかない息を吐き出した。
「……疲れたでしょう。今日はもうお休みになってください」
カガリはミアを抱きかかえ、ベッドへと横たわらせた。
「でもストーブの火は交代で見ないと」
「一晩くらいなら大丈夫ですよ。明日は交代してもらえると助かります」
カガリの引く様子のなさに、チサトは仕方なく従うことにしてベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい」
カガリの穏やかな声にチサトはなんともむず痒いものを覚えながら、おやすみなさいと眠りについた。少しもするとチサトの寝息が聞こえ、カガリはストーブに新しい薪をくべながらベッドに眠る娘と、これからの生涯を共に過ごしていくチサトを思った。
どうか。――どうか。少しでもいい、少しでいいから。
「長く続いてくれたらいいなぁ」
天を仰ぐカガリの傍で、アンバーが大きな欠伸を噛み締めた。
薪の弾ける音がする。緩やかな時間だ、胸の内が温かい。
こうして、最初の一日は過ぎ去っていった。
二日目の旅も順調で、途中あまり人里の近くには現れないペガサスの群れが空を駆けていく様子を眺めたり、「オイ、ニンゲン。オレノタカラヤル。オマエノメズラシイモノトコウカンシロ」と、草原の一角にいたナーノスに道を塞がれたりはしたが、大きな問題もなく二つ目の宿営地に辿り着いた。
ミアは今朝からチサトにベッタリで、アロゴに乗る際もチサトと一緒に乗ると言って聞かなかったほどだ。この日の夜もチサトの膝で眠ってしまったミアを、カガリが仕方なくベッドへと運んだ。
「すっかりあなたに夢中みたいで」
「恋しかったんじゃないですかね。母親っていう存在が。ミアちゃんの年頃はまだ恋しい時期だと思いますし」
「……そうですね」
ミアを撫でるカガリの目は娘を思う父の眼差しに溢れていた。「今日はお先にどうぞ」とチサトはカガリを見ながらベッドを叩く。
「ここまでずっと欠伸してたんですから。しばらくしたら交代してもらいますんで」
「面目ない。そうさせてもらいます」
カガリはベッドに潜り込み、瞬きの間に寝息を立て始めた。あまりの早さにチサトも軽く笑ってしまった。
誰かと共に行く旅路は思ったより楽しい。きっとハンター生活も最初からこういった楽しさを感じていたら、少しはパーティを組むことに抵抗はなかったのかもしれないなと思った。
初めてまともに組んだ、サジとの最初で最後のパーティ戦を思い出す。痛むはずのない背中の傷が、少しだけ疼いた。
「あのジジイ……死んだって許さないからな」
チサトはその怒りの矛先を、ストーブにくべる薪に向けた。バチッという音を立てて放り込まれた薪からは火の粉が上がり、チサトの目の前で空気の中に溶けていった。




