ファミリアに捧ぐ 73
――そこは、街の中心からは大きく離れたところにあった。人通りの少ない道を抜けた先、他の場所より幾分か自然が覗いた。出迎えたレンガ調の塀と黒く大きな門の向こう側に、その教会は建っていた。
「建て替えたのか。俺が住んでた頃より綺麗だな」
カガリは真新しい門に触れ、塀に打ち込まれているプレートに彫られた「メシィ孤児院」という文字を見つめた。
「……ただいま」
カガリは呟くと、背後に立っていたチサトを振り返った。
「どうぞ。ここは誰にでも開かれた場所なんです」
歓迎しますよ、と続けたカガリは門を開け、チサトを中へと促した。「お邪魔しまーす……」とチサトは辺りの静けさに思わず声を潜める。カガリが背後で門を閉め、慣れた様子で歩き始めた。
お墓というのはながち間違いではなかった。ここ、メシィ孤児院はカガリが幼き頃を過ごした大切な場所だ。確かに行きたい場所としてはかなり個人的な場所だった。
でもカガリは、ここに自分を連れてきたかったんだと思うと、チサトは少しだけ嬉しい気持ちになった。カガリにとって大切だっただろうこの場所を教えてくれるということは、秘密の共有に近いものだと思うから。
「今なら子供たちはみんな、前日祭で出払っていて丁度いいかと思ったんです。ここの子供たちはハンターに強い憧れを持っているので、あなたが来ると、きっと囲まれて質問攻めになってしまうから。会うだけなら明日の授与式には来ると思いますし」
言いながら、カガリは教会の扉を開けた。再び促されて中に入ると、一瞬空気が変わったような気がしてつい辺りを見渡した。……気のせいか。
祭壇までには中央を境に、二組の長椅子が五つほど列を成していた。窓からは少しずつ落ち始めている陽の光が差し込み、より教会内を幻想的にさせていた。
天窓にあたる部分にはアテナと思しき槍を掲げた人物を模ったステンドグラスが美しく輝いている。床は建物内が映り込むほどに磨かれ、それらはどれもごく最近作られたもののように見える。カガリの言っていたとおり、建て直しがあったのだろう。
気づくとカガリがチサトの横を通り、祭壇へと向かっていった。そのあとを追うと、入ったときから既に視界に映り込んでいた大きなアテナ像を目の前にする。右手には槍を、左手にはあらゆる邪悪を払うと言われているアイギスの盾を持っている。
カガリはアテナ像を感慨深い気持ちで見つめていた。記憶の中よりも随分と綺麗な姿をしている。だがそのほうが女神としての美しさがあった。カガリは荷物を置くと、右手に拳を作り、その手の甲に開いた左の掌を重ね、それを胸元に当てて祈りを捧げた。
不思議な気持ちでそれを眺めていたチサトの横から、「まぁ、カガリ君?」と年老いた修道女が姿を見せた。
「シスター・アテネ? まだこちらにいらっしゃったんですね」
驚きを隠せない様子でカガリがアテネと呼んだ修道女に駆け寄っていく。
「ええ。随分と大きくなって。今は何を?」
「養子に迎え入れてくれた方の住む集落で、ギルド職員を」
「そうですか。あなたは小さい頃、よくアテナのような強くて勇ましいハンターになるのだと言っていたものですが、優しいあなたでは不向きだったようですね」
「っ……お恥ずかしい限りです」
こめかみを掻くカガリにアテネは優しく微笑むと、視線をチサトのほうへと向けた。
「あなたのお連れの方を私に紹介していただけますか?」
「あ、そうでしたね。彼女はミカゲさん、現役のSランクハンターです」
「まぁ。そうですか」
アテネはゆっくりとした足取りでチサトの傍までやってくると、穏やかな表情でチサトを見つめた。
「ではあなたが明日の授与式で登壇される、使徒の討伐者ですね?」
「あ、はい」
「命を賭してもおかしくない大怪我をなさったとか。私たちハンターではない者たちは、皆あなた方に心からの感謝と尊敬を抱いております。この小さく、傷だらけの手に一体どれだけの人々が助けられてきたことでしょう。どうかその手から零れ落ちてしまったものを嘆くことのないよう、あなたの心が少しでもあなたご自身を愛しんで差し上げられることを祈ります。そして、あなたの体に刻まれた多くの傷を嘆くことがありませんように。その傷を受け入れ、認め、共に愛して差し上げられる方があなたにいますように。――あなたに、戦神アテナのご加護がありますように」
自身の手に優しく寄り添うアテネの手は、とても柔らかく温かかった。
チサトはこんな時、どうやって言葉を返せばいいのかわからなかった。感謝を述べている相手に対して礼で返すのはどうにも違う気がして、謙遜するのも何か違う。それに対してどんな顔をしていいのかさえもわからない。
彼女の言う言葉の全てに、チサト自身が思い当たらないことがないわけでもなかったから。結局チサトは、アテネの言葉に何一つ返事ができなかった。
ゆっくりしていってほしいというアテネの言葉に甘え、二人はアテナ像がよく見える最前列の長椅子に腰を下ろした。
チサトがアテナ像を見ながら、無意識だろう、腕の火傷の痕を擦っている。カガリはそれを見て、そうだよなと思った。気にならないわけがなかったのだ。自分の体に残る戦いでの傷跡は、その多くが生涯消えないものばかりなはずだ。
ハンターになることを選ぶ以前のチサトが、普通の女性としての幸せを望まなかったことなんてあっただろうか。ハンターという職を選ばなければ、どこにでもいる普通の女性として生き、どこかの誰かと恋をし、家族になり、子供ができ、戦いとは無縁な生活を送っていたはずだ。
それを思うと、カガリは胸が締め付けられるような苦しさに襲われて、どうにかしてそんな彼女の支えになれやしないかと考えてしまう。守られてばかりの自分が何を偉そうなことをと、そう思う自分がいるというのに。
「……手を」
「え?」
「さっき手を、なんか、あれしてたじゃないですか。アテナ像の前で」
チサトが不意に口を開いて、先ほどカガリが祈りを捧げていたときの仕草を真似た。ああ、とカガリは右手に拳を作り、その手の甲に広げた左の掌を重ねる。
「そう、それ。見慣れない動作だから気になっちゃって」
「これは……どちらもアテナの手を表していて、右手が槍を、左手がアイギスの盾を表しているんです。二つを重ね合わせることで、アテナへの信仰を表すと共に、アテナの強いご加護がありますようにという、二つの意味が込められているんです。この教会に来た子供は、一番にこれを覚えるんですよ」
「へぇ。いいですね、そういうの。アタシは神頼みなんてしてこなかったから」
「神を相手取ってるようなものです、そんな暇はなかったでしょう」
「……そうですね」
チサトは再びアテナ像を見たが、またすぐにカガリを向き直った。
「よかったらアタシに教えてくださいよ。アテナに焦がれていたっていう幼き日のあなたのこと」
「あまり面白くもなんともないと思いますが……」
カガリは求められるままに話し出した。
物心ついた頃にはここで見知らぬ子どもたちと過ごしていたこと、毎日アテナ像の前に祈りを捧げていたこと、アテネが寝る前に必ずアテナ神話の読み聞かせをしてくれたこと、寒さが厳しくなってくると、食糧を求めて野良の魔生物がやってくること、裏の畑で野菜を育てていたこと、親がいなくても決して不幸ではなかったこと、それらをカガリはゆっくりと、少しずつ、チサトに話してくれた。チサトはそれを穏やかな表情で聞いていた。
気づくと、より陽は傾き、夕暮れ時の柔らかな光が教会内にも届いてくる。そろそろ子供たちが帰ってくる時間だ。二人は最後にアテネに挨拶をすると教会を出た。
互いに言葉を交わすことないまま、表の通りまでやってくると、一気に元の世界に戻ってきたようでどこか安堵のため息が零れる。
「すみません、最後は私に付き合っていただいて」
「いいえ」
チサトは首を振ると、「じゃ、そろそろアタシも帰りますね」と言った。
「途中まで送りましょうか?」
「いいですよ。魔物に襲われる可能性は低いんで」
「あ、そうですね」
「というか、あなた今武器持ってないでしょ」
「そうでした」
二人は笑い合うと、また明日と言葉を交わして別れた。チサトの背中を見送る寂しさを感じて、カガリはそれを振り切るように歩き出した。本番は明日だろう、そう自分に言い聞かせて。




