ファミリアに捧ぐ 53
北の空の明るさは数日続いた。一度目の空の明るさはなくなっていたものの、残るもう一つの集落がある方向で同じように空が燃えた。
ギルドに避難したミクロスの住民たちはロビーで身を寄せ合い、息を潜めていた。ギルドの建物は魔物の襲撃時に備え、出入り口や窓には緊急措置として頑丈な格子がかかるようになっている。建物全体も強固な造りな為、余程のことがない限りはリュコスと言った小型の魔物が侵入することはできない。
カガリは窓の外を眺めている。その表情に余裕はない。集落全体が静かだ。風の音すら聞こえてこない。
「嫌な静けさだね」
と、イオリが近づいてきて言った。
「ああ。……さすがに今回も来なかったらどうしたもんかと思ってたよ」
カガリが身を寄せ合う住民のほうを振り返る。
そこから少し離れ、受付の椅子に腕を組んで座り込み、瞼を閉じている逞しい体つきの男が一人いた。これまで一度も姿を見ることのなかったサノの料理人であり、イオリの夫でもあるラスである。
彼はその職人気質から、一度もギルドの招集には応じず、サノの厨房で黙々とハンターたちの食事を作り続けてきたツワモノだ。寡黙な人物で、口が達者なイオリとは真逆の性格をしている。
「命あってのだからね。復興のときには自分の作る飯が必要になるだろうって言うんだ。どこまでも料理馬鹿だよ」
「いや、ハンターのことを信じてるってことだろう。負けると思ってない」
「……でも今回のやつ、今までのとはちょっと違うんでしょ? チサトも余裕なさそうな顔してたし」
「そうだな。あの人が負けるとは思いたくないけど」
「カガリ」
話し込んでいるカガリのもとに、シロマがいくつかの資料を手にやってきた。
「お前が以前、本部の学者に調査依頼をした洞窟の絵画の件、返答が来た」
「こんな時にですか」
「目を通しておけ。これが本当ならとんでもない事実だ」
「?」
カガリはシロマから資料を受け取り、中に目を通した。資料を掴む手には異様な汗が滲み始める。カガリは思わずシロマを見た。
「行くなら地下通路を介して行け。長居はするなよ」
「……」
視線を彷徨わせたカガリは一瞬迷った様子だったが、すぐにその迷いを捨て地下へと続く階段を駆け下りていく。通路奥の重たげな扉を押し開き、カガリは資料を握り締めて地上に続く梯子を昇った。
学者の出した調査結果、それは考察には違いなかったが、カガリを突き動かすには十分な内容だった。その内容はこうだ。
あの壁画に描かれていたのは、使徒とそれを討伐していたかつての人間たちで、傍らの羊たちはイーニスを表している。そしてその傍にいる羊飼いのような人物は、かつて人々からは太陽神と崇められたアポロン、もしくはそれに等しい人物であることの示唆ではないか。
これまでイーニスの名は大量に湧く存在であることから、無限を意味する「インフィニス」の略語ではないかと学者の間では言われてきた。そしてイーニスには、他の魔物や魔生物を生み出した元なる神がいないとされてきた。――否、いないと思われてきた。
しかしもし、イーニスにもその元となる存在がいたとしたら。太陽神アポロン、もしくはアポロンに等しい存在が生み出した眷属、或いは魔物であったのならば、話が変わってくる。
古い文献にはこうある。かつて存在した神々の中にも人に友好的な存在がいた。彼ら彼女らは人間とあらゆる手段を用いて言葉を交わした。ある者は人を、ある者は自然を、ある者は魔物を介した。イーニスもそうだったのではないか。神が人間に遣わした眷属、或いは魔物だったのではないか。
学者はイーニスの行動を細かく洗い出し、イーニスの出現場所に何か意味がないかを調べた。そしてわかったことがある。
(イーニスの群れの始まりには、――使徒がいる)
報告は更に続く。
イーニスの群れの始まりには使徒が出現、もしくは付近に出没しており、そのほとんどがSランクハンターによって討伐されていたことがわかった。討伐されている頃には群れが忽然と姿を消している為、これまで誰もその出発地点に着目をしていなかった。
しかし今回のことで新しい可能性が出てきた。イーニスはただ存在するだけの魔生物ではない。「使徒を呼び込んでくるもの」或いは「使徒を運んでくるもの」としての役割があったのではないか。
だが時代が過ぎ、人間たちの文明が発展していくと、イーニスの手を借りなくても人間たちは自ら使徒の行方を探すようになった。イーニスの存在がなくとも先んじて使徒を討伐するようになった。これにより、イーニスの本来の存在意義は忘れられていった。イーニスという名も元々の名前とは違っていたのではないか。
古来の言葉で、現代において同じ略称の仕方をする言葉がある。「キーボートス」、意味は「箱舟」だ。使徒を「運び込んでくるもの」の意として名前を付けるならば、同じルールに則れば「キートス」が正しい名称なのではないか。
(使徒を運び込んでくる……ミカゲさん)
では何故現代において、イーニス、――否、キートスは同じ場所に留まり続けるのか。使徒の存在を知らせるだけならば出現したあとは去ればいい。なのに残り続ける。
キートスは、「使徒を討伐できる人間」のところに出現するのではないか。あの壁画はそれを示唆しているのだとすれば。だからキートスが出現する場所の使徒は常に討伐されてきた。討伐できる人間のもとに出現するから、討伐されたあとには去るのだと考えるのが打倒ではないか。
「これが本当なら――」
カガリはいても経ってもいられなかった。地上では緊迫した空気が流れている。空の雲行きも怪しい。しかしカガリは見張り台にいるチサトのもとに駆け込まずにはいられなかった。
「ミカゲさん! とんでもない発見です! イーニスについて――」
「しっ」
チサトは北の地を睨みつけている。耳を澄ませ、その奥に潜む何かを感じようとしている。カガリも異様な気配を感じて、同じく北の地を見た。
聞こえてくる。
大地を駆けてくる荒々しい足音、気配、禍々しい空気の震え。
「――来る」
「え?」
「こっちに向かってくる。わかる、肌を焼く空気、足元に伝わってくる振動。――近い。ハルト! 鳴らして!」
その声に見張り台の一つに設置されていた襲撃の警鐘をハルトが叩き鳴らした。
待機していたハンターたちが各々の武器を手に取る。
「あなたはギルドに!」
「しかし!」
「いいから行って!」
北の地から目を逸らすことなく叫ぶチサトに、カガリは資料を握り締めるもすぐに踵を返した。
チサトは空に向かって指笛を吹くと、足元に置いていたケースからガントレットを取り出し装着した。ネロがその直前まで改良に取り組み、使用回数の上限を250発にまで広げてくれた。――それ以内でおさまってくれたらいいけど。
チサトは言えずにいた。
ネロは一分につき三発打つ仮定の話をしたが、実際の使徒戦においては、チサトは一分につき約二倍の五から七発打つのだ。ネロの技術の結晶を無駄にはしたくない。急所を確実に狙っていけば難しい話でないのだから。
上空にアグニが旋回し始める。アグニは、使徒戦が始まると一定の間隔で鳴くように訓練されている。それは討伐時間の目安になる。どんなに数多く使徒を討伐してきたチサトでも、アグニが五回鳴く頃には魔障の毒でまともに動けなくなる。四回までが限界だ。
更にチサトは目を凝らす。初めは何もなかった。遠くの地平線は一筋の線を描いている。しかし徐々にその線は歪み始め、見る間に大きな影となっていく。
「遠距離部隊、構えて!」
チサトの合図に弓やボウガンを持ったハンターたちが構えた。
震えが走る、指先の感覚を奪うほどの震えだ。緊張に神経が盛り、あらゆる音が消えていく。影は、次第にその姿をはっきりと形作り、チサトの視界に映り込む。
――元はただのリュコスでしかなったその存在は、今や見る影もない。
大きく変貌した巨体、全身の毛が逆立ち、血に塗れた体毛は赤黒く変色している。巨大な牙には血がこびりつき、大きな口から垂れ下がる舌からは大量の涎が滴り落ちている。
左目には大きな傷があり、ユノの報告とも一致している。耳は片方欠けており、傷跡を見るからにしてもごく最近つけられた傷だ。顔面にも大きな斬り傷がいくつもある。サジとノエが死に物狂いで残した傷だ。それでも猛進してくるあの凄まじさ、気性が荒いと言われている使徒喰らいらしい。
チサトは僅かに残る時間で使徒喰らい、リュカオンの名の意味を思い出していた。いくつかある逸話の中で、元となる人物はやはり人間を殺している。
「大層な名前貰っちゃって」
リュカオンは集落の姿を捉えると、ハンターたちの目にもはっきりと留まる距離で突然足を止め、遠吠えを上げた。周囲の森の中からリュコス、スコル、ハティの三種がぞろぞろと飛び出してくる。
一体どこにそれだけの数が潜んでいたのか、それは瞬く間にリュカオンを取り囲む。リュカオンは荒々しい息遣いをしながら数歩前に歩き出すと、再び走り出し始める。
チサトは見張り台から飛び降り、集落の入り口に立つ。リュカオンは木々を薙ぎ倒しながら突き進んでくる。
小回りの利くリュコスといった魔物の群れが先んじて集落に雪崩れ込んできた。頭上から一斉に矢が放たれる。柵を飛び越えようとしてきたリュコスが次々に倒れていく。
それでも倒し切れなかったリュコスや、入り口から入り込んでくるスコルとハティの奥で、激しい唸り声が響き渡る。次の瞬間、眼光鋭い獣の目がチサトを捉えた。
ついに対面に至った凶悪な存在は刹那、左目に強烈な一撃をくらい歪な奇声を上げるのだった。




