ファミリアに捧ぐ 46
この森はカガリにとって庭みたいなものだった。
幼い頃から眺め、大人になってからは幾度も歩いてきた場所だ。おおよその地形と、そこに行くまでの最短ルート、魔物が出現しにくい場所も全て頭に入っている。カガリがその場所に行くのは誰よりも容易かった。
沢の傍まで来たカガリは念の為銃を引き抜き、灯りが向かっていった方向へと進む。この上流は沢の水源だ。魔物も水を求めにやってくることがある為、鉢合う危険性の高い場所でもある。カガリは息を潜め、慎重に歩みを進めた。
少し行くと水源となる場所に出る。辺りを見渡すと、火の消えたランタンと、傍にアンバーが寝そべっていた。
「アンバー?」
カガリが声を潜めてその名を口にすると、アンバーがむくりと体を起こした。まるでどうしてこんなところにいるんだと言わんばかりだ。
周囲にチサトの姿は見当たらず、カガリはアンバーに駆け寄り「ミカゲさんはどうした?」と返ってくるはずもない問いを投げかける。
と、水場から何かが出てくる音が聞こえてきた。その音に咄嗟にカガリは銃を構えたが、次の瞬間には「え」と声が出ていた。
「ん?」
水から出てきたのはチサトだった。月明かりの逆光ではっきりとは見えないが、明らかに全裸だ。一瞬世界が止まり、カガリは「す、すみません……!」と声をうわずらせながら逃げ去ってしまった。
「え、ちょっと、何も逃げなくても」
完全に姿が見えなくなってしまったカガリになんでここにいたんだと思いつつ、チサトは何かを気にしたように手を体に滑らせた。
「……見られたかな」
「すみません、本当にすみません……」
膝を折るカガリが今にも地面に額をつきそうなのを見て、チサトはいっそ哀れにすら思えてきてしまった。
「大丈夫ですよ。生娘じゃあるまいし」
「しかし……」
逃げたカガリはチサトの野営地にいた。チサトがアンバーと帰ってきた時点で既に地面に膝を折っていた。人ってそんな簡単に膝を折れるんだなとチサトは思った。
「それよりなんでここにいたんですか?」
「それは……その……」
「まさか本当に覗こうとしたわけじゃ」
「ちがっ、違います! あなたが心配で……!」
「心配?」
あ、とカガリは言葉を詰まらせると、その理由を申し訳なさそうに話し始めた。
ハルトが移動するチサトの話をし始め、魔物と交戦中なのではと言い出したとき、この夜に土地勘もない場所で戦闘をするのはさぞ厳しいだろうと思った。
ハティはスコルより凶暴だ。危険な目に遭ってしまって怪我でもしたら? そう思ったら、カガリは動かずにはいられなかった。
「それでハンターでもないあなたが夜の森に来るって。何かあったらどうするんですか」
「あの、まぁ、一応この森は私の庭みたいなものでして。余程奥深い場所でない限りは大体地形が頭に入っていたので、魔物が潜んでいそうな場所には見当がついていると言いますか。……いや、危険でしたね。すみません」
カガリはすっかりチサトの顔が見れない。ため息をつくチサトに落ち込み激しいカガリは項垂れるばかりだ。
「ま、心配してわざわざ来ていただいたことには素直にありがとうございますと言っておきます。でもあなたのしていることは命を危険に晒しているのと一緒ですから、褒められたものじゃありませんね」
「仰るとおりです……」
「で、挙句にアタシの裸を見たと」
「あの、それは本当に何の心構えもしていなかったと言いますか……! あっ、でも、月明かりの逆行でよく見えませんでしたから! 薄っすらと、薄っすらとなんとなくな輪郭だけ! はっきりとは見ていませんから!」
それはそれはもう自分が今引き出せる精一杯の言い訳を考えるカガリの慌てように、チサトは吹き出してくつくつと肩を震わせた。カガリはますます申し訳なさそうな顔で「本当にすみません……」と項垂れる。
チサトは焚いている火に薪をいくつか追加し、「気にしてませんよ、別に」と返した。
「裸見られたくらいで怒ったりしません。40を超えた女の体なんかより、若い子のほうがよかったでしょ、あなたも男なんですから」
「いや……」
カガリは返答に困った。そんなことはないと言うとそれはそれで誤解を受けそうで、しかしじゃあ若い子のほうがなんて言えば彼女を傷つけることになりかねない。
どう答えたものか考えていると、チサトは「よっぽどだったんですね」と言った。カガリの返答には期待していなかったようだ。
「女の体に耐性がないって、つまり奥さん一筋だったんでしょ?」
「は……ええ、まぁ、その、そうですね」
「家族想いでいいじゃないですか。あなたのそういうとこ嫌いじゃないし」
他人にそんな風に言われたことが初めてだったカガリは、なんだか不思議な気持ちでその言葉を受け入れていた。正直ミアを守っていくことだけで精一杯だった数年間だっただけに、他の女性に気をやるなんてことはできなかったが正しいのだが。
「というかね、いつまでそんなところで膝折ってるんですか。悪くしちゃいますよ、足」
チサトが隣に腰掛けるよう促してくる。魔物の毛皮を加工したものが彼女の座る場所に敷かれていた。
カガリは気づいてから確かに膝が痛くなり出した。立つと「いてて……」と膝が悲鳴を上げてよろめいた。チサトがほらねと笑う。
チサトの隣に座り込み、焚き火の灯りを揃って眺める。何か話さなくては。カガリは自分がここにいる理由を探した。
「……昨日」
「ん?」
「あなたがご自身のことを話してくれたじゃないですか。よかったら私の話も聞いていただけません?」
「それ、話題探してのそれでしょ」
「まぁいいじゃないですか。面白くともなんともない話なんですけどね。……私、9歳の頃にこの集落に来たんです。というのも、元々はギルドが運営する中央の孤児院で育ちまして」
「孤児院? 中央の……そうだ、あなたも姓持ちでしたね」
「ええ。私ね、物心ついたときにはもう孤児院にいたんです。両親は魔物に殺されて、他に引き取り手がいなかったそうで。物心つく前の話なので両親のことは全く覚えがないんですけどね」
「そうだったんですか。……? 物心つく前ってことは、じゃあ妹さんは……」
「はい。私とは血の繋がりのない、赤の他人です。イオリは当時、サノを経営していた彼女の祖母と暮らしていて、男手が欲しかった彼女の祖母が私を養子に迎えてくれたんです。イオリの両親は私と同じく魔物に殺されていて、私ともきっと気が合うだろうと思ったそうです。それと、本心では私にイオリと一緒になって、サノを継いでほしかったんだと思います」
「あー、ありがち。でもあなたも妹さんも、一緒にはなってないし、なんだったらサノは妹さんが継いでますよね?」
「自分で言うのもなんですが、私には経営の才がなかったのと、この性格が災いしてハンターの諍いを止められなかったり、総合的な判断でイオリがサノを継ぐのがいいだろうとなりました」
「確かに、半人前が言いたい放題でしたもんね」
「言い返そうと思えば言い返せましたよ。でも言い返すと大人気ないじゃないですか」
「まぁ、そうかもですね。でも珍しいですよね。普通は引き取ってくれたお祖母さんの思惑通り、あなたと妹さん、互いに恋愛感情を抱いて一緒になったっておかしくなかったのに」
「そう、それが不思議なもんでね。私はイオリを4歳の頃から知っているわけですが、私が孤児院にいた頃、よく下の子の面倒を見ていたので、イオリにも同じように接したんですよね。そうしたらお兄ちゃんお兄ちゃんって、本当の兄のように慕ってくれて。私も孤児院を出て急に一人になって寂しかったのもあって、イオリが本当の妹みたいに思えたんです。結局、私とイオリの関係は兄と妹止まり、互いに別々の人を好きになって家族を持ったわけですね」
「へぇ。いい話じゃないですか」
チサトが言うと、ですかねとカガリは笑みを浮かべる。
「その後、私が成人を迎える頃に祖母が亡くなりましてね。当時イオリはまだ12歳、サノの手伝いはしていましたが経営なんて訳もわからずで。サノはギルドの寄宿舎を兼ねていますしサノを閉じることはできない。私もどうしたものかと思っていたときに、祖母に世話になったというハンターや商人、集落の人々が集まってくれましてね。ハンターの皆さんは祖母がどのようにサノで自分たちを迎え、もてなしてくれたかを、商人の方は経営の手解きや食事の提供を、集落の人々はサノの経営がイオリの手で回るようになるまで私たちの手助けをしてくれたんです。とてもありがたかった。それと同時に、人との繋がりの大切さがよく沁みました。私はこの集落でいろんな人に助けられて、今まで生きてきました。今度は私が、その恩に報いる番だと思っています」
「その為なら、五感を失うことも厭わない?」
カガリは思わず言葉を詰まらせて、それから小さく息を吐いた。
「……ご存じだったんですか」
「まぁ、ちょっと。でも、アタシにあなたを否定することはできないですから。やりたいだけやればいいんじゃないですか? アタシもアタシの責務を全うするだけですし」
「理解していただこうとは思っていなかったので、そう言っていただけると少し気持ちが救われます。あの、話しておいて何なんですが、できればこの話、ここだけの話にしてもらえたら」
「?」
「私がこの集落に来てからもう随分と経って、今の集落の中でも、私とイオリが本当の兄妹でないことを知っている人が少ないんです。ミアにもその事をまだ伝えてはいません。イオリは私と本当の兄妹でないことを、内心とても気にしています。あなたが私とイオリを似ていると言ってくれたとき、思わず顔を見合わせてしまいました」
「ああ……そっか。それで二人とも、なんか不思議な顔してたんだ。わかりました、誰にも言いません。もちろんミアちゃんにも」
「ありがとうございます。――すみません、軽く話すつもりが随分と長居をしてしまいました」
カガリが立ち上がろうとした際、何かが懐から落ちた。愛読書のアテナ神話の本だった。
「落ちましたよ」
「おっと。ギルドから持って帰ってきたときのままでした」
チサトが拾い上げてくれたそれを一度は受け取ったカガリだったが、ふと思い立って、それをもう一度チサトに差し出した。
「よければお貸しします。暇潰しにでも」
「いいんですか? 大切な本じゃ?」
「それは孤児院のシスターが子供全員に渡してくれる、お決まりのものなんですよ。孤児院は教会を兼ねていて、そこで信仰されていたのがアテナ神だったんです。私が孤児院から持ってこれたものがその本だけだったので、なんとなくずっと持ったままでした。特別でもなんでもないんです。ただ子供の頃は、私もいつかそんな風に戦いたいと思ったものです、現実はこれですけどね」
カガリは両手を広げて今のギルド職員である自分の有様を見せる。残念ながらカガリの性格はハンター向きではない。チサトは笑いつつ、差し出された本をありがたく受け取ることにした。
「それでは、私はこれで」
「アンバー」
カガリが行こうとすると、チサトが離れて寝そべっていたアンバーを呼び寄せた。アンバーはやってくるとカガリの傍で歩き回る。
「途中まで護衛してくれますから」
「大丈夫ですか? あなた一人で」
「心配無用です。元々一人だったんですから。あなたこそ気をつけて」
そうか、彼女からしてみれば心配するべきは自分のほうか。自分が渡した本を読み出すチサトにカガリは言葉を返せず、アンバーと共に森を歩き出した。
幸い、帰路も魔物には遭遇せず、集落の出入り口に差しかかると気づけばアンバーとの距離が離れていた。振り返るカガリが集落に辿り着いたのを見ると、アンバーは琥珀色の瞳を光らせながら数秒見つめ、森の中へと駆け出していった。
「……ミカゲさんをよろしくな」
自分の心配では彼女の何の手助けにもならないだろうけれど。カガリは小さく息をつくとサノに続く道を歩き出すのだった。




