ファミリアに捧ぐ 25
すっかり武器を慣らす気分ではなくなってしまったチサトは、気持ちを切り替える為にも見張り台へと足を運んだ。心地のいい風が流れている。陽が徐々に沈み始めているからか、遠くの空はほんのりと朱色を滲ませている。
延々と続くイーニスの群れの向こう側で、薄っすらと天高く聳える塔が見える。あれこそがギルド本部であり、今の世界の時代を象徴する建造物だ。
イーニスの群れがここに留まらなければ、今頃チサトはあのギルド本部に戻り、教官としての研修を受けているはずだった。ハンターカードも返納予定だった。
ハンターには、本部で行われる試験を受けたあとに三ヶ月、全武器種を一通り扱えるようにする為の基礎訓練と、ギルドが飼育している戦闘訓練を積んだ魔生物との模擬戦、そして魔物の基本的な知識を学ぶ為の座学を行う期間がある。これらは全て教官によって学ばされるものだ。
教官とは、怪我といった理由で退陣を余儀なくされた歴戦のハンターたちが、ハンター以外での雇用に就きにくいという問題を解消する為に生まれたもので、俗に言う教官制度と呼ばれるものだ。チサトもこの制度を利用して教官になる予定だった。
チサトは自身のハンターカードを取り出した。ランクごとにハンターカードには色があり、同時に作りが強固なものに変わっていく。Sランクに至っては大抵の魔物の攻撃では傷一つつかない、特殊なコーティングが施されている。
これも開発部の叡智の結晶らしく、技術の流出を恐れてハンターたちにはどんな作りであるのかは教えられていない。チサトがこのカードを手にしたのは今より10年ほど前だ。30を少し越えた頃だったように思う。
そこからはずっと使徒の討伐や、眷属の中でも一際強いと呼ばれる魔物を相手に戦ってきた。そのほとんどが一人だった。とても長い時間のようにも、短い時間のようにも思えた。その日々も、もうすぐ終わろうとしている。
「……」
しかしいざその時が間近に迫ると、何故か躊躇している自分がいる。教官という言葉が、酷く自分に似合わないもののような感覚になる。ここでの滞在は、まるでそんな自分の心を表しているかのようだった。
ハンターカードをしまい、そろそろ戻ろうかと地上を見下ろした際、ミアとその友達らしき子供たちがこそこそと周囲を見渡しながら訓練場のほうに向かっていく姿を見かけた。きっと先日のミアが内緒だと言っていたことに関係があるに違いない。
子供の秘め事なんて可愛いものだ。チサトは穏やかな笑みを浮かべ、見張り台を下りていく。
魔障の毒を排出するにはどうにも体力がいるらしく、少し体を動かすと夜まで泥のように寝てしまう。しかしおかげで大分体の調子が戻ってきた。明日明後日には万全の状態に持っていけるだろう。
寝て目が覚めればやはり空腹が襲ってくる。窓の外では月が高く昇っており、これは下が酒場になっている時間だなとチサトは部屋を出る。案の定一階では賑やかなハンターたちの声が聞こえてくる。
階段を下りると、窓際の席にカガリがいた。一人晩酌をしていたようだ。傍にはまた「メシィ通信」の情報紙が置かれている。どことなく元気がないように見えた。
チサトはイオリに酒と食事を頼み、カガリの前に腰を下ろした。
「どうしました? いつもは背筋が伸びていらっしゃるのに」
「いえ……」
カガリは一瞬視線を彷徨わせ、何かを言い淀んだが、「ミアのことで」とまるで言葉を探すように言った。
「少し、言い過ぎたかなと」
「お、意外」
「ちょっと気づきがあって。今になって後悔が少し」
自嘲気味に笑うカガリは残り少ないグラスに酒を注いでいく。
「大人になっても、親になっても、間違いだけはなくなりませんね」
「そうですか。気づけただけよしってことでいいんじゃないですか。アタシも今日ね、あのあと生意気な見習いに会ったんですよ」
「ハルト君に?」
「ええ。で、訓練つけてくれってうるさいんで、ムキになって言い負かしちゃいました。もう、昔の自分見てるみたいで嫌で嫌で。でも言って当然のことを言ったと思ってるんで、あなたとは違って後悔も反省もしてませんけど」
「なら、きっとあなたは正しいんですよ。長らくSランクハンターを務めてきたんですから。……本当は私があの子にいろいろ教えてあげる立場にならなければいけないのに、申し訳ない」
「あなたはギルド職員ですもん。ハンターと立場が違うから意見が合わないのは当然だと思いますけど?」
「そうですかね。でもあなたのような歴戦の勇士からの言葉のほうがよっぽど説得力があるでしょう。あの子に必要なのは、そういう経験者の言葉だと思いますし」
「はい、お待ちどう。メインはもうちょっと待ってて」
そこにイオリがチサトの分の酒と、頼んでいないプランクトスの素揚げをつまみとして出してきた。
「いいの?」
「兄貴の相手してくれてるお礼」
イオリは二ッと笑って去っていく。カガリは気まずげに眼鏡をかけ直した。ふふっとチサトは笑い、頬杖をついた。
「でも子供相手にちょっと大人げなかったなって思います。アタシが昔言われて説教くさいって思ってた人と今の自分がおんなじで、嫌になっちゃう」
「それは私も同じですよ。その時の自分も無知であったはずなのに、まるでわかったように言ってしまう。ところで、お体の具合はいかがですか?」
「大分動くようになりました。もう少しってところですね」
チサトは右手で何度も握り拳を作った。武器がちゃんと元の状態で戻ってきたら、討伐任務にも行けるようになるだろう。
「余ってる討伐依頼があったらアタシ全部片しますよ。体鈍っちゃいますからね」
「討伐任務と言っても、この辺りじゃリュコスかナーノスくらいですけど」
「どんな魔物も脅威には変わりないでしょう?」
「そうですね。私の妻もリュコスの犠牲になったわけですし」
ぽつりと零したカガリはグラスをくっと傾けた。そうか、カガリが酒を呑んでいたのはそっちの理由か。これは悪いことをしてしまったなとチサトは息を零す。
「……奥様、どんな方だったんですか?」
「妻ですか? 彼女は……そうですね、心がとても温かい人でした」
カガリの妻を語る様子はとても穏やかだった。五年、それだけの時間が経っても、大切な人の死はいまだに人の心に大きな穴を開けたままだ。あと何年経てば、カガリはもっと楽しそうに妻のことを話せるようになるだろう。
チサトには優しい記憶を言葉に紡ぐカガリの話を、ただ聞くことしかできない。
「そう、それから――」
微笑みながら自分の話を聞いているチサトにカガリが我に返った。人の優しさに甘えて自分ばかり話し続けるなんて。カガリは少しばかり姿勢を正した。
「すみません、私ばかりがこんな話」
「いいえ。話したいときに話したほうがいいですから。アタシね、何も失ったことがないんですよね。大切な人は作ってこなかったし、定住地も作らなかったんで。だからね、こうして誰かが、誰かを大切に想うときの話を聞いているときが一番温かい気持ちになれるんです。自分が少しでもそんな人たちが生きてる世界を助けられてるんだなぁって思うと、ハンターやっててよかったなって思うっていうか」
「じゃあ、あなたのことは誰が想ってくれるんですか?」
「ん?」
「あなたのその思いはハンターとしては尊敬するに値するものだと思います。あなたはそれでいいかもしれない。でも、あなたのことは誰が想ってくれるんですか?」
「誰って……」
「だっておかしいじゃないですか。あなたは私たちを命がけで守ってくれているのに、その命がけで守ってくれている人のことを誰も想わないなんて。そんなの不公平ですよ」
「……って、言われても」
「教官になるんでしたよね」
「え、ええ……その予定ですけど」
「だったら、あなたを想ってくれる人をぜひ見つけてください。この世で唯一のファミリアを。あなたの為にも」
「……ファミリア」
「と言うと、なんか偉そうですね。すみません、歳食った男の戯言と思って、適当に聞き流してください」
カガリは小さく笑って、また酒を口に運んだ。
巡り巡って自分のほうが不思議な気持ちにさせられてしまった。なんだかなぁと、チサトはプランクトスの素揚げを口に放り込んで小首を傾げた。
その頃、ハルトは自宅にて槍の手入れをしていた。子供が一人で住むには少しばかり大きい家だ。
一人黙々と槍を磨いていたハルトだったが、ふと思って暖炉の上に置かれている写真立てに目を向けた。槍を置き、ハルトは写真立てを掴んだ。そこには幼き日のハルトと、槍を手にした笑顔の女性が映っていた。
ハルトの額と女性の持つ槍の先には赤い揃いの布が巻いてある。女性の持つ槍と、ハルトが手入れをしている槍はまったく同じもののように見える。
「……姉ちゃん」
ハルトは呟くと写真立てを置き、家の奥に向かった。ある部屋の前に立つと、小さく息を吸い込んで扉を開ける。部屋の中は暗い。ランプに灯りを点けると、ベッドが一つといくつかの本棚が壁を埋め尽くしていた。本棚にはぎっしりと本が詰まっている。
一つの本棚の前に立ったハルトは埃に塗れている本の背表紙をなぞった。どれも魔物の名前が記されているものばかりだ。その内の一冊を手に取り、適当なページを開く。読み途中だったのか、本の間には押し花で作られた栞が挟んであった。
一文にリュコスの名前を見つけ、ハルトは険しい表情をすると本を音を立てて閉じた。そして元の場所にそれを押し込んでしまうと、ランプの灯りを吹き消して部屋から逃げるようにして出ていってしまった。




