ファミリアに捧ぐ 12
そして時は流れ、現代――。
山のような巨大な体に燃えるような赤い皮膚、鋭い牙を四本携え、吐き出す息からは白煙を立ち昇らせながら、逆立てた鬣を震わせる猪のような生物は、全身を覆う分厚い皮膚から大量の血を滴らせていた。
地鳴りのような呻き声をさせ、猛々しい咆哮を上げながら目の前の対象物に向かい蹄で大地を蹴る。巨体が空を切る。興奮に血走る目で牙が振るわれる。
それは小さい体だった。突き上げれば簡単に空に放られてしまうだろうほどの体躯だった。
激しい砂煙を巻き上げながら、猛進してきた巨体が突如として速度を落とし、ついにはいくら蹄を蹴ろうが前には進まなくなった。
――彼女は、その両腕にガントレットを纏わせ、額に脂汗を掻き頬にできた切り傷から血を流しながら、自らの体の半分ほどはあろうかというほどの牙を鷲掴み、腕力でもって巨体の猛進を押し留めていた。
全身をその猛獣から浴びたであろう返り血で染め上げつつ、目前に迫る涎を滴らせた大口に歯を食い縛る。
握り込んでいる牙からミシミシと音が鳴る。次の瞬間には亀裂が入り、片方の牙が真っ二つに折れた。
「ッ、ぐっ……!」
片方の支えを失くした体が一気に後方に押し退かされる。地面を抉るほどに踏ん張りを利かせた足にもう一度を力を籠める。
多少なりとも緩やかになった速度に残った牙の根元を掴むことで態勢を整える。へばりついている髪が鬱陶しい。血を浴びて鉄臭い、払う暇が惜しい。
牙の向こうに見えている分厚く硬い歯がガチガチと音を立てているのが視界に入り、頬を何度目かの汗が伝った。
その歯が噛み砕いてきたのは木の実や小動物だけではないだろう。嫌な血生臭さに鼻が曲がりそうだ。ここに至るまでに同族を食い散らかし、あらゆる敵を退け、そして人間までもを食らってきただろう。
そういうものだ、そういうものなのだ、これらの存在は。そうして力を得て、人間の手に負えないものになっていく。野放しにしてはいけない。
(死んでも殺せ! 殺せなくてもただでは終わるな!)
息を吸い込み、全身に力を籠める。押さえ込むだけで手いっぱいだった巨体が微かに揺れ動いた。
踏ん張るだけだった足が僅かに前に進む。巨体の足が半歩後退した。それを合図にまた半歩後ろに下がる。
喉奥で声にならない唸り声を絞り出し、更に更にと押し退かせる。数歩後退した先で、蹄が地面から突き出ていた岩に滑り、巨体がバランスを崩し座り込んだ。
――勝機を見た。
拳を握り込み、牙に振り下ろせば三本あったものが根元から破壊される。
巨体が喚き、体を転がしながら起き上がる。蹄を蹴る一瞬の予備動作。
すぅ、と息を吸い込み、感覚を研ぎ澄ます。先ほどの猛進が緩やかになる、僅かに靡く髪が突き抜ける風に揺れたとき、その人物の姿は猛獣の視界の横にあった。
衝撃波にも等しい、激しい横からの打撃は猛獣の顔を歪ませた。猛獣は奇声を上げながら横転した。
起き出す間もなく、再び体を突き抜ける雨の如き打撃に骨の砕ける音と共に大量に吐血した。
衝撃に耐え切れず裂けた皮膚から血が溢れ出る。全身を痙攣させながら、血走った目が鉛色に淀む空を飛ぶ何かを捉えた。
――鳥だった。
長い尾を靡かせながら、優雅に空を泳いでいた。鳥が一声鳴く。
視界に何かが過ぎった。暗い影が急速に迫ってくる。猛き獣がその瞳に何かを映したのはそれが最後だった。
「あー……」
酷く疲れ切った様子で、彼女は猛獣の亡骸を背もたれに座り込んだ。血塗れのガントレットの中で、歪な形をした赤黒い石が握り込まれている。
猛獣の心臓があるだろう部位は大きく肉が切り開かれ、地面に突き刺さっている短剣の周囲には血だまりができていた。
石を足元に転がし、ガントレットを放り投げる。日に焼けておらず、健康的な白い肌が覗く。巨体を倒したとは思えない細腕をしていた。
彼女は腕に傷がないことを確認すると、どこか安心した様子で懐に手を忍ばせた。小さな金属ケースから手巻き煙草と火点け道具を取り出す。
煙草を口に咥えながら、火打石で火種に火を灯し、煙草に火を点けると紫煙がゆっくりと空気に混じる。
天を見上げれば、先ほどの鳥がまだ上空を旋回している。それをぼんやり眺めていると、その奥の重たげな色をした雲から冷たい何かが頬を打つ。
ぽつりぽつりと泣き出した空が、地上を濡らしていく。辺りには誰一人として姿がない。この限られた世界には自分一人だ。また頭上で鳥が鳴く。
……急がないと。
これだけの巨体だ、解体作業は骨が折れる。体が言うことを聞いてくれるうちに済ませなければ。
丸々太った体だ、肉は然るべき対処をした後に市場に流せばしばらく小さな集落が困らないほどの食料になるだろう。
牙と皮は鑑定士に渡して、適当に処理をしてもらえばいい。骨と、それからはあれは――。
疲れ切った目が足元に転がっている赤黒い石に向けられる。
……あれは所定の場所に置いておけば、その内取りに来てくれる。
紫煙を吐き出し、煙草を掴み取ると大きなため息が出た。体を覆う雨で頬にこびりついていた血が流されていく。
「……」
何度死ぬ覚悟をしてきただろう。何度五体満足でいられることをありがたく思っただろう。
死ぬことへの恐怖も、怪我をする恐怖も、我に返れば全身の震えと共に襲ってくる。あと何回こんな感覚を味わえばいい。あと何回こんな化け物じみた生き物を殺せば慣れるのだろうか。
……いや、永遠にそんな日はやってこない。
自分が辞め時を決めなければ延々と繰り返される日常だ。自分なりに望まれた人生を歩んできたと思う。歩みを止めるのは簡単だ。
ただ一言、辞めたいと言えばいい。
もう自分は十分期待に応えてきたはずだ。ここいらで一つ、荷を下ろしたって構いやしないだろう。よく頑張ったと、言われていいくらいには生き残ってきた。
「……やめっか。アタシな」
ため息と共に深々と零した彼女は、――チサトは、膝を叩いて「よしっ」と重い腰を上げるのだった。




