ファミリアに捧ぐ 11
気力も体力も握力も底を尽いた。
ヒュドラからの返り血で顔面を赤くしながら、チサトはなけなしの気力を振り絞ってヒュドラの体内から魔力結晶を抜き取った。
これがヒュドラを討伐したという証明になる。
手にした掌ほどの赤黒い石を見つめていたチサトだったが、手から抜き出すのに使用した短剣が落ち、更には魔力結晶も落ちて、そしてついにはチサト自身が地面に倒れ込んだ。
酷い目眩に寒気と痙攣で全身が震え上がり、チサトは息をするのもやっとで地面を這いつくばった。先ほど浴びたヒュドラの毒が回り始めていた。
「鳥……とり、呼ばなきゃ……」
小刻みに呼吸をしながら、チサトは道具入れから小さな笛を取り出すと、唇を震わせながら笛を鳴らした。
少しもすると一羽の鳥がチサトのもとに舞い降りてきた。体には何も入っていない筒が括り付けられている。
チサトは道具入れを漁り、中からあらゆる道具を零しながら羽ペンと紙を取り出した。力の入らない指でヒュドラ討伐の知らせと、毒で動けず救護班の要請を求める内容を書いて、筒の中に無理矢理詰め込んだ。
鳥が空を駆けてゆく。あの鳥が無事に本部まで辿り着けることを必死に願う。
自分の道具はどこに置いたか。元の位置より随分離れてしまった。ヒュドラの毒に対してでは気休め程度だが、解毒薬を口にしないとこのままでは命が危うい。
呻きながらチサトはどうにか自身の荷物に辿り着き、中から解毒薬の入った瓶を手に取った。蓋を歯でこじ開け、中身を零しながら飲み干す。
「っ、あー、死ぬ」
その後、駆けつけてきたギルド本部の救護班の手で処置室に運び込まれたチサトは、ベッドで三日三晩ヒュドラの毒で高熱を出し魘された。
目を覚ましてからも意識がはっきりしない状態が続き、ようやく意識が回復しても抜け切らない毒から来る手の痺れでまともな食事が取れない日々が続いた。
チサトが約一月の治療を経て、一人で食堂にまで行けるようになった頃、ギルド本部にもう一人のハンターが担ぎ込まれてきた。
たまたま処置室に戻る途中でそれに遭遇したチサトは驚いた。担架で運ばれていたのがノエだったからだ。ノエは全身が真っ赤に腫れ上がり、意識を失っていた。
ノエは隔離施設とある場所に運び込まれていった。あの施設に運ばれるのは命の危険があるハンターだけだ。救護班の人間以外の立ち入りは原則禁止されている。
「……」
「人の心配ができるくらいには回復したか」
「アサギ教官」
すっかり髪が白くなり、顔にも随分と歳を重ねたように見えるアサギがそこにはいた。封筒のようなものが手には握られている。
「元だ。今は退任した」
「それでもアタシにとっては教官です」
「知らない人間がいたら誤解する。今はただの使いっ走りさ。……ノエの討伐対象はマンティコアだった」
「討伐対象……じゃあ、ノエはSランクの試験を?」
「ああ。あの症状はマンティコアの毒による免疫反応だな。ヒュドラの毒に比べたら軽いもんだが、似たり寄ったりだ」
「ノエは討伐できたんですか?」
「相打ちだな。至近距離でマンティコアの頭を撃ち抜いたときに毒を喰らったんだ。仕込んでいた罠を全部使い切ったんだろう」
「……死にませんよね?」
「わからん。時の運だ」
その言葉は残酷だったが、現実だった。
隔離施設の扉を不安げに見つめるチサトをアサギは横目に見ると、一つ小さな息を零した。
「お前はまだ自分の心配をしていろ」
「もう十分休んだつもりです」
「いいや。お前にはまだ試験が残っている」
「え、まだあるんですか? 何も聞いてないんですけど」
「魔物の討伐試験を達成した者にだが知らされる。機密性の高い試験だ。口外はするな。規律で厳しく禁じられている」
アサギは手にしていた封筒をチサトに差し出した。
「お前の準備ができたら開発部に行け。そこで最後の試験がお前を待っている」
「最後の試験……?」
封筒を受け取ったチサトは首を傾げつつ中の試験内容だろう紙を見る。何故か二枚入っている。それぞれに目を通したチサトは怪訝な表情になり、「……なんですかこれ?」とアサギを見た。
試験内容と思ったそれは、試験を受ける為の準備を記載したものと誓約書だった。
「その試験に合格できなければ、お前はSランクハンターにはなれない」
「え。こんな目に合ってるのに?」
「こんな目より、それは危険だ」
「?」
「もしそれを乗り越えられたら、お前にSランク昇格の祝いをやろう。最後まで気を抜くな」
アサギの表情はいつもと変わらなかったが、チサトを見つめる瞳の奥だけが感情の揺らぎを隠せないように不安げなものを浮かべていた。
全く要領を得ないまま、チサトはこの最後の試験とやらを処置室から出られるようになったあとに受けることになるわけだが、そこでの試験で、何故かチサトはもう一度処置室の世話になる羽目になる。
「あー、悔しい! チサトに先越されるなんて!」
ギルド本部の休憩スペースにノエの声が響き渡った。チサトが最後の試験を受けてから幾許かの時が経っていた。
ノエはマンティコアの毒により、足の痺れが取れず、車椅子の生活を余儀なくされている。
彼女の手には、黒い帯が引かれたチサトのハンターカードが握られていた。黒帯のハンターカードは、Sランクハンターである者の証だ。
「Cランクのときはアタシが先だったのに。逆転されるんだもんなぁ」
ノエは大きなため息を吐きながら、目の前に座っているチサトにハンターカードを返した。
「今回たまたまアタシが先越しただけでしょ。アンタはまだ療養しないと駄目なんだから」
「わかってるけどさぁ。はー、アタシもその最後の試験とやらを受けて、早くSランクに上がりたいなぁ」
「その最後の試験は、多分アンタが思ってるのとは全然違うと思う……」
苦い表情をするチサトに、ノエは不思議そうな顔をして口を開いた。
「危ない感じ?」
「まぁ、うん。言っちゃいけないからさ、アンタには気を強く持ってとしか言えないんだけど」
「そっかぁ。わかった、覚悟はしとくよ。アタシはそれまでにこの足をなんとかしなきゃ」
と、ノエは自身の足を強く叩いた。
ノエの受けたマンティコアの毒はヒュドラの毒に比べて抜けるのが遅い。リハビリ期間も含めれば、ノエが最後の試験を受けることになるのは今しばらく先だろう。
「チサトはこれからどうすんの?」
「ヒュドラみたいなのを相手にするのはもうしばらくないみたい。ただ今後は使徒討伐が主になってくるから、段階を踏んで徐々に討伐の難しい魔物を相手にしていくことになるって職員は言ってた」
「……そっか。いよいよだね。アタシより先にSランクになったんだ。アンタの活躍楽しみにしてるよ」
「そっちもね」
互いに死という言葉を口にしないのは、互いが簡単に死ぬような人間ではないとわかっているからだ。
少しの間談笑が続いていたが、「チサト」とアサギがそこにやってきた。
「約束のものを渡しに来た」
「約束?」
「それとノエ、お前はそろそろ検査の時間だ。処置室に戻れ」
「あっ、そうだった。チサト、また」
「うん」
ノエが車椅子を押して去っていくと、アサギがついてくるようチサトを促した。
アサギに連れられるまま、チサトは本部内の脇にある扉を抜け、渡り廊下の先にある広い敷地に出た。そこではギルド職員と多くの生き物たちが何かの訓練を行なっていた。
アサギが人の少ない場所を選び、指笛を吹いた。するとどこからともなく長い尾を揺らめかせながら、赤く美しい毛並みをした鳥が舞い降りてきた。
「Sランク昇格祝いだ。こいつをお前にやる。賢く使え」
「この子は?」
アサギの肩に羽を休めた赤い鳥は翡翠の瞳を煌めかせ、チサトを見つめていた。
「この世に二匹といない、フェニクスの血を引く伝達鳥だ」
「えっ、フェニクスって、使徒の?」
「ああ。大昔に行われた研究の薄暗い遺物だ。こいつは非常に賢いが、言うことを聞かせられるようになるまでには時間がかかる。どう使うかはお前次第だな」
「……綺麗」
赤い伝達鳥は翼を広げると、チサトの肩に飛び移った。
「この子名前は?」
「お前にやるつもりで育てたんだ。お前がつけろ」
そう言われると迷ってしまう。
フェニクスは不死鳥だ。そして火より産まれ、火に還り、そしてまた火より産まれ出ずる。
火は古い言葉でイグニスなどの単語があるが、そのままを持ってくるのはなんだか味気ない。チサトは少し悩んでから、ふと顔を上げた。
少し整えて、――アグニなんてどうだろう。
「アグニ。君、今日からアグニにしよう」
アグニと名付けられた伝達鳥は小さな鳴き声を上げて毛繕いを始めた。
この鳥が後にチサトにとってなくてはならない存在になるのは、もうしばらく先の話だ。




