3.思い上がっていた令嬢は身の丈を知る
「黙れ。うるさい女だ」
自分に向かって放たれた低く冷たい声にカタリーナは耳を疑った。何を言われたのか理解できず目を大きく瞬く。まるで暴言を投げつけられたように感じたが聞き間違いに違いないと、気を取り直して話を続ける。貴公子と名高いジークハルトがそんな言葉を使うはずがないと思い込んでいた。
「お恥ずかしながら私は妖精姫と言われています。ジークハルト様の隣に並んでも恥をかかせることはありませんわ」
「私はお前が隣にいたら恥ずかしくて夜会になど顔は出せぬ。その心根で妖精姫だと? 笑わせるな。お前がリーゼに勝っているところなど一つもない。彼女以上に美しい女性などいない。クリーム色の髪も琥珀色の瞳も尊く愛らしい。さらに博識で知性もあり未来の公爵夫人としての研鑽を積んでくれている。努力家で驕ったところもない。素晴らしい淑女の上に穏やかで清らかな心を持っている。まさに天使だ」
「えっ??」
カタリーナは頭が真っ白になった。自分を化け物と呼んだ? 今まで賛美されることが当然で蔑まれたことなどない。自分でも綺麗な顔で生まれてよかった! と思い自分磨きに勤しむ日々である。それなのに彼は自分よりアンネリーゼを美しいと本気で思っているのだ。
カタリーナは屈辱でぶるぶると唇を震わせた。ジークハルトは絶対にカタリーナの美しさに惹かれると思っていた。父もカタリーナの美貌なら婚約者の座をアンネリーゼから奪えると言っていたし、自分もそれを疑いもしなかった。ジークハルトが本当に真に愛するのは自分だと信じていた。不本意なアンネリーゼとの婚約から私が救って差し上げる! と息を巻いて今日に挑んだ。カタリーナには縁談が引っ切り無しに来ている。爵位は伯爵家で侯爵家のアンネリーゼには敵わないがこの美しさがあればおつりがくると思っていた。
カタリーナの困惑と苛立ちをよそにジークハルトはアンネリーゼを褒めたたえる言葉をつらつらと語る。それも恍惚とした表情で。その表情はヤバイ人のものだ……。
理解しがたい状況にジークハルトの顔を縋るように見上げた。冗談だと言って欲しい。きっと何かの間違いだ。さっきのヤバイ表情は幻覚だった、そんな淡い期待を込めて。だがそれは瞬時に粉砕された。ジークハルトの青い瞳はぞっとするほど鋭くその奥には怒りが滲む。彼はこんな目をしていただろうか? まるで視線だけで凍ってしまいそう。
「だいたい、私はお前に名前を呼ぶ許可をしていない。どういうつもりだ?」
自分は特別になれると信じていた。まさか名前呼びを咎められるなんて……。
「あ……あ……」
カタリーナは彼の視線のあまりの恐ろしさに全身に鳥肌を立てた。そして冷や汗が噴き出てくる。さっきまでの苛立ちなど霧散するほどの状況になり、ようやく自分が虎の尾を踏んだことに気付いた。恐怖のあまり足が縺れる。空気が上手く吸えない。それほどの威圧感があった。ジークハルトの支える腕のおかげで醜態をさらすことなく踊れているが、憧れの人とのダンスに浮かれていた気分はもうどこにもない。頭のなかは真っ白でどう取り繕えばいいのか分からない。今すぐ逃げ出したいがそれも出来ない。かろうじで口を突いて出たのは拙い謝罪の言葉だった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、……も、も、も、も、も、もうしわけご、ござい、ま、せん……」
顔色は悪いだろう。気を失わない自分を誉めたい。いや、いっそ失神できた方がマシかもしれない。泣きそうだし泣きたい。顔からは見苦しいほど汗が噴き出ているがそれどころではない。心の中で「反省したからゆるしてぇ!」と叫ぶ。頭の中には『没落』と『死』という単語がぐるぐると回る。カタリーナの心の声が果たしてジークハルトに聞こえたのか、彼は温情をかけてくれた。
「カペル伯爵令嬢。今回だけは見逃そう。だが、今後私やリーゼに不快を与えれば……」
ジークハルトは鋭利な眼差しで「分かっているな?」と告げる。この表情は間違いなく魔王だった。
「あ、あ、あ、あ、ありがとうございます!! 本当に申し訳ございませんでした。ち、ち、ち、ち、父にもよく言っておきますので、ど、ど、どうかお許しくださいませ。たった今、己の立場を自覚しました。以後ご不快にさせないと誓います!!」
必死になって謝罪と感謝を告げる。カタリーナの恋は冷めた。冷めたというかキラキラした恋心は凍って粉々に割れた後、太陽に当たって溶けて蒸発してしまったかのように跡形もなく消えてなくなった。
カタリーナは自惚れが強いが身を亡ぼすほど馬鹿ではない。貴族としての打算だって持ち合わせている。くだらない野心を抱いたばかりに危機一髪だった。さっきまでは憧れと恋に夢中になりヒロインのような気持ちに浸っていた。そしてジークハルトとの結婚を夢見ていたが彼の態度で目が覚めた。
カタリーナの頭の中に浮かんだのはカペル伯爵家(もっぱら母の言葉)の極意『長い物には巻かれろ』だ。低位貴族の処世術。生き残るために今、プライドを捨てる!
貴族令嬢としての意地でダンスを止めず踊り続けながらも、更なる謝意を示す為に器用に頭を下げジークハルトに許しを請う。心の中では安直な父親に罵詈雑言を浴びせる。それに乗ったカタリーナの責任は今は考えない。そもそも父親なら調子に乗った娘を諫めるべきなのに逆に煽るからこんなことになったのだ。名門のバルリング公爵家に嫁ぎジークハルトに愛される夢を見たが、泡沫の夢だった。絶対に見てはいけない夢だった。現実に戻った今、自分に見合った幸せを手に入れると心に誓う。
ジークハルトはそれを見透かすような視線を向けると片方の口角を僅かに上げた。魔王様が不敵に笑っている……。もう、彼はカタリーナが恋した人ではないのだ。
「分を弁えることはいいことだ」
(魔王様が許してくれた!!)
彼の言葉に危機を脱したことを理解する。何とか空気を吸い肺へ送りこむ。危うく酸欠になるところだった。今後、自分は二人の幸せと世界の安寧を願うと決めた。そしてこの世界の片隅で自分を大事にしてくれる人と結婚して静かに暮らすのだ。欲は人を不幸にする。やはり幸せは身の丈にあったものを選ぶべきなのだ。ぶかぶかの服を着たって見苦しいだけだ。
ジークハルトはカタリーナを父親の元に届けると何も言わずにその場を去った。カタリーナは脱力してヘナヘナと椅子にへたり込んだ。そして上手くいったと勘違いしてニコニコ顔をしている父親をキッと睨む。
「お父様。身の程知らずは罪です! 没落は嫌です!!」
これ以上会場にはいられないとすぐさま帰宅したカタリーナは、事の顛末を母に報告し二人で父を叱咤した。カペル伯爵家の実権は母が握っている。父を生贄にして自分は母からの叱責をなんとか免れた。その後、バルリング公爵家からの圧力はなかった。どうやら本当に許してもらえた。我が家は間一髪で没落を免れることが出来たのだ。
謝罪の手紙をアンネリーゼに出した。彼女の心証を良くしジークハルトにも敵対心はないという表明の意味があった。むしろ絶対服従します的な。打算によるものだったがすぐにアンネリーゼは返事をくれた。無視される覚悟はしていたが返事が来たことでホッとした。手紙の内容は謝罪の必要はないことと、お茶会に来て欲しいとのことだった。
なんて優しい人なんだろう。不躾にジークハルトをダンスに誘ったことを責めるどころか、お茶にまで招いてくれたことに感激し思わず涙目で美しい文字を何度も読み返した。心の清らかさはまさにジークハルトの言葉通り天使様じゃないか。自分はアンネリーゼの足元にも及ばない。カタリーナは己の行いを再び反省した。そして『妖精姫』の通称の撤回を決意した。
それ以降カタリーナにとってアンネリーゼは『理想のお姉様』となり慕うことになる。