18.侯爵令嬢とその婚約者のありきたりな日常
イルメラは帰国するはずだった……のに三日ほど延長することになった。その三日間彼女はバルリング公爵家の経営する王都内にある宝飾店の本店支店を合わせて三店舗を巡り一日中過ごしていた。それが目的ならばと受け入れた。彼女は満足するまで買い物をしていたので通常月の十倍ほどの売り上げになった。(お買い上げ有難うございます!)これは従業員にボーナスが出せる。
売り上げに貢献してもらえるのはいいがアンネリーゼは正直なところ呆れていた。そんなに宝石ばかり眺めて飽きないのかしらと。自分だったら恐ろしくてこんな金額の買い物は出来ない。
三日後。曇天の下、玄関前には六頭立ての黒塗りの豪華な馬車が止まっている。大きくビュルス公爵家の家紋が入っている。イルメラの荷物以外にも大量の買い物の品物が積まれた馬車が何台もその後に控えている。護衛騎士がずらりと並び、まるで一国のお姫様の輿入れのようだ。
でも今度こそイルメラは帰国する。出発の時間となり公爵家勢ぞろいでお見送りだ。そこにはローレンツもいる。なぜなら昨日イルメラが「ローレンツ様も当然見送りに来て下さるわよね?」と言い出したからだ。アンネリーゼは引きつった顔で「たぶん……」と答えた。ジークハルトは眉を下げ申し訳なさそうな表情でローレンツに足を運ぶよう頼んだ。ローレンツはこれがイルメラ接待の最後の仕事になるからと快く来てくれた。
「ローレンツ様。あなたのおかげで楽しく過ごせましたわ。ところで……ローレンツ様は婚約者がいらっしゃらないのよね?」
やっぱりそこが狙いですよねとみんなが心の中で呟いた。イルメラは期待を込めて問いかける。ジークハルトは諦めてローレンツに乗り換えるつもりのだようだ。彼は見目も麗しく侯爵家嫡男だ。地位はジークハルトには及ばないが十分だろう。ローレンツはバルリング公爵邸に来てからイルメラを常にエスコートしていた。それもずっと賛美していたのだから自分に気があると思っている。愛されていると確信している……。
「ええ。残念ながら婚約者はいませんが……密かに思いを寄せる女性がいます。これから全身全霊で口説こうかと思っています」
「まあ、まあ!! そう、そうなのね! でもローレンツ様ならそんなに必死にならなくても相手はきっと受け入れると思うわ。今すぐにでも告白したらどうかしら?」
イルメラはローレンツの想い人が自分だと思ったようで喜色を浮かべる。今ローレンツから求婚されれば二つ返事だろう。
「ところが残念ながらすでに断られてしまいまして。ですが諦める気はないので頑張りますよ」
「えっ? 断られた? 私はまだ…………あなたの想い人とはどんな人なの?」
イルメラは告白された覚えがないので困惑中だ。当然ローレンツが告白をするはずがない。イルメラのことは厄介者としか思っていないのだから。
「実は子爵令嬢なのですが身分差があると応じてもらえなくて。でも愛があれば必ず乗り越えられるでしょう」
ローレンツはしれっとイルメラが相手ではないと突き放す。即座にイルメラの顔からは表情がストンと抜けた。散々褒めちぎって、恭しくエスコートをして絶対に自分に気があると思っていた男性には他に好きな女性がいるという。
沈黙が落ちた。このような空気に慣れているのかビュルス公爵家の騎士は何事もなかったようにイルメラにスッと手を差し出す。イルメラはその手を取り無表情のまま無言で馬車に乗り込む。カツカツとイルメラのヒールの音だけが響いた。護衛騎士が静かに扉を閉めそのまま出発かと思いきや窓からイルメラが顔を出した。そしてアンネリーゼの顔だけを見て言った。
「アンネリーゼ様。新しい商品が入ったら連絡をお願いします。必ずですわよ!」
「はい。必ず……」
まだ宝石が欲しいの?……。そして馬車は今度こそ出発した。見送る人たちの心は一つだ。「もう、二度とこないでくれ」と。じきに馬車は見えなくなっていった。
それから数カ月後、エーレルト王国の国王が王太子にその座を譲った。一カ月後には、イルメラ・ビュルス公爵令嬢が隣国の第五王子の側室として輿入れすることが発表された。
イルメラを可愛がっていた国王や両親が隠居したことによって厄介払いとばかりに結ばれた縁談だった。彼女はなぜ自分が側室だと憤慨したそうだが、「じゃあ、正室としての公務が出来るのか?」と問われ諦めたようだ。
これは何らかの取引の結果の結婚のようでイルメラの望む愛される生活は望めなさそうだ。すでに第五王子には正室とお子様がいらっしゃるのでイルメラは厳しい立場に立たされる。噂では正室である女性はお金の管理に厳しいしっかり者だと言われているので、結婚後のイルメラに充てられる予算は少なそうだ。もう宝石を買ってもらえないかもしれない。アンネリーゼはせっかくできた上客との縁が終わってしまうことが残念だった。
イルメラより一足先に領地に帰って行ったヒルデカルトの表情はどこか凪いで見えた。イルメラに付き添ってきたが、特にアンネリーゼとジークハルトの仲を邪魔するような動きはなかった。というか初日の挨拶しか話をしていない。
ただ最後にジークハルトに一言「幸せに」、それだけを言って去った。ヒルデカルトの後姿は小さく見えた。アンネリーゼにヒルデカルトの気持ちは想像もつかないし、またジークハルトの胸中を察することもできない。
ジークハルトはヒルデカルトに何も言わなかった。きっといろいろな思いが去来していたはずだが聞くことは憚られた。もし彼が言葉にしたいと思った時に必ず寄り添おうと思った。
嵐が去り、ようやく私の世界は平和を取り戻した。
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「ららら~ららら~ら・ら・ら~♪」
アンネリーゼはディンケル侯爵家の庭でお茶会の準備をしている。空は晴れやかに澄んでいてそよ風が気持ちいい。白い丸テーブルの真ん中には白い花瓶に生けたピンク色のラナンキュラスが活けられ華やかに花弁を広げている。今日のお花もお菓子もジークハルトが用意してくれたものだ。
「アンネリーゼ様。お客様がお見えになりました」
「ありがとう。今行くわ」
侍女の言葉に返事を返すと玄関へ出迎えに行く。
今日はカタリーナとモニカを招いてお茶会だ。夜会後の報告会も兼ねている。
「ようこそいらっしゃいました。モニカ様、カタリーナ様」
「アンネリーゼ様。お招きありがとうございます」
モニカの挨拶はいつ見ても美しい。
「お招きありがとうございます」
カタリーナは今日も元気いっぱいだ。二人をそのまま庭へと案内する。
「どうぞ、おかけになって」
二人に椅子を勧める。
「カタリーナ様。今回はいろいろ相談に乗って頂きありがとうございました。本当に助かりましたわ」
「お役に立てて良かったです。それよりも夜会の時のお二人の髪型は本当に素敵でしたわ! とても似合っていました」
お礼を伝えるとカタリーナは笑みを溢した。侍女はその横でお茶菓子と紅茶をテーブルに並べていく。注がれるお茶は爽やかなハーブティーだ。
「そのことですけどカタリーナ様。私、本当に大丈夫でしたか? お化粧も変えたので落ち着きませんでしたわ」
モニカは不安げに首をかしげる。
夜会の日、アンネリーゼもモニカも髪型だけでなく化粧もいつもと変えていた。いつもより明るいピンクのチークを入れていた。口紅も明るめだった。子供っぽすぎないかとビクビクしていたが自分が気にするほど周りは気にしていないようで特に何も言われていない。モニカはティーカップに手を伸ばす。香りを確かめながら口を付ける。
「でも好評でしたでしょう? 私見ていましたよ。モニカ様が引っ切り無しにダンスに誘われているところを」
「そうなのだけど、いつも男性に敬遠されて壁の花なのにあんなに誘われたら逆に揶揄われている気がしてしまって……」
モニカは眉を下げると「私には無理かも」と弱音を吐露した。
「今日はいつもの髪型に戻してしまったのですね。残念だわ」
カタリーナが眉を下げ唇を尖らせる。そうなのだ。モニカもアンネリーゼもいつもの通りきっちりした髪型に戻している。夜会の時は新鮮でこの髪型もいいかなと思ったが、やはりいつも通りが落ち着くと戻してしまった。カタリーナは普段もゆるふわで今日はハーフアップだ。アンネリーゼとモニカは顔を見合わせ頷き合った。お互いこの方がしっくりくる。
「カタリーナ様には申し訳ないけど私はしばらくゆるふわをお休みするわ。ごめんなさいね」
「モニカ様に無理をして欲しい訳ではないのでそれはいいのですが、もったいない気がします。あんなに可愛かったのになあ。アンネリーゼ様はどうしますか?」
「私も。もう少し多くのご令嬢に流行ってから参加させてもらおうかしら。だからカタリーナ様、頑張って下さいね」
嫌ではないが落ち着かないので、とりあえずカタリーナとその友人のご令嬢に「ゆるふわ」の流布を任せて見守ることにした。
「もう~~~。お二人とも保守的ですわ。ですが私は諦めません。絶対に社交界に可愛いを流行らせて見せます」
「楽しみねえ」
「楽しみだわ」
すでに私たちには他人事である。
「そういえばモニカ様。いつの間にローレンツ様とお知り合いになったの? 実は先日ローレンツ様がモニカ様をお茶に誘っているけど断られているので口添えをして欲しいと頼まれたのだけど、モニカ様はローレンツ様がお嫌い?」
イルメラを見送った後、ローレンツがアンネリーゼに相談があると言い出した。もちろんジークハルトも一緒だ。そこでモニカに好感を抱いたので親しくなりたい。彼女のことを知りたい。お茶の誘いをしているが芳しくなく断られている。アンネリーゼが仲が良いと聞いたので、説得してもらえないかと頼まれた。
イルメラに言った想い人とはモニカのことだった。てっきり断るための嘘だと思っていた。
相変わらずローレンツは社交界では軽薄な男性のままだ。友好のために訪れたイルメラに構い過ぎたせいで物凄い女好きであると噂に拍車がかかってしまった。これはジークハルトを守るための行動で彼の意思ではないのだが、それを言いまわるわけにもいかない。さすがに申し訳なく思っている。二人で誠心誠意頭を下げて謝り感謝も伝えた。ローレンツは気にしたふうでもなく「俺がしたかったからそうしただけだ」と笑っていた。
今回ローレンツと度々話をしたが噂ほど軽薄だとは感じなかった。もちろん実際の女性関係は分からない。ジークハルトに聞いたが「来るものは拒まず、去る者は追わず」ではあるが、だからといって女性を軽んじている訳ではないそうだ。同時に複数の女性と付き合ったこともないはずだと言っていた。ただ女性不信なところがあるらしい。アンネリーゼの経験値では男心は理解できそうにない。それ以上は個人的なことだからと教えてもらっていない。ただ「信用して大丈夫な男だ」との言葉を信じモニカに話をすることにした。
「まあ! 女たらしのヘルモント侯爵子息と完璧な淑女のモニカ様に恋のお話?! 詳しく聞かせて下さいませ」
カタリーナは興味津々でモニカが口を開くのを待っている。アンネリーゼも密かに詳しいことが知りたいと思っていた。
「恋なんかじゃないわ! べ、べつにただの知り合いなだけです。先日の夜会の時にヘルモント侯爵子息がご令嬢に手を出していると誤解して非難してしまって。そのお詫びに行って以降、何故かお茶に誘われていますが、どうせ揶揄っているのですわ。何と言ってもあの、ヘルモント侯爵子息なのですから」
モニカはバツが悪そうだ。表情から見るに照れている訳ではなく本当に誘われている意味が分からないという感じだ。それにしてもその誤解はちょっとローレンツが可哀そうかも。
「そう、モニカ様はローレンツ様が苦手ということよね。それならお断りしておくわ」
ローレンツは今回の恩人ではあるが親友(だと思っている)が望まないことは出来ない。ローレンツには別の方法で恩を返そう。
「えっ? でも今回アンネリーゼ様もジークハルト様もヘルモント侯爵子息にお世話になってそのお礼で頼まれているのですよね? お断りして大丈夫なのですか? モニカ様、お茶だけというなら一回だけでも会ってみてはどうですか?」
ちなみに二人にはジークハルトにイルメラを接近させないためにローレンツの手を借りていたことを話している。カタリーナは二人の仲が進展すれば面白そうという気持ちが隠せていない。さりげなくモニカが断れないようにしようとしている。カタリーナがローレンツの悪い噂を気にしていないのが不思議だった。口調からローレンツに嫌悪感を抱いていなさそうだ。
「……アンネリーゼ様から見てヘルモント侯爵子息はどんなふうに見えましたか?」
モニカが警戒心いっぱいの猫のように見える。可愛い。
「思っていたよりもいい人よ。友人思いで優しい。今回の事だって彼の評判が悪くなると分かっていて引き受けて下さったの。ただ女性関係については私には分からないからモニカ様に無理にお茶をして欲しいとは言えないわ。でも噂が全てではないので、出来るならモニカ様自身の目でローレンツ様の人柄を判断して欲しいと思う」
モニカはしばらくティーカップを睨みながら考えていた。そして何かを振り切るようにアンネリーゼの顔を見る。
「一度だけ。一度だけならお茶に行ってもいいです。アンネリーゼ様からヘルモント侯爵子息に予定の空いている日を連絡して頂けるように伝えて頂けますか?」
「モニカ様。私のために無理はしなくていいのです。気を遣わないで」
モニカは苦笑いを浮かべ首を振る。
「一度行けば彼も気が済むでしょう。毎日手紙とお花が届いて辟易していたのできちんとお断りするいいきっかけだと思うわ。アンネリーゼ様は気にしないで」
えっ?! 毎日お花と手紙?? ローレンツがそんな情熱的なことをするなんて聞いていなかった。ローレンツが揶揄ったりするようなことをしないと信じているがこれは本気の本気では?
「本当にいいの? 無理はしていない?」
「大丈夫よ。ちょっとお茶をするくらいですもの」
「モニカ様。ヘルモント侯爵子息とデートですね!! 後日の報告、楽しみにしていますね」
「デ、デート?! 違うわ。ただお茶をするだけよ」
「それをデートと言うのです。モニカ様。せっかくですからゆるふわで行きませんか?」
「しません!」
カタリーナのはしゃぎっぷりに対し、モニカは顔いっぱいに不本意を浮かべ口を引き結ぶ。この様子を見ているとローレンツとモニカの二人の間に甘い空気が生まれるとは思えない。
(かなり前途多難そうですよ、ローレンツ様)
「モニカ様。もし嫌になったら必ず私に言って下さいませ。接触禁止令を出しますから。それと会って酷いことを言われたとか不愉快になったことがあったら私が制裁を与えます! 絶対に我慢しないで下さいね」
ローレンツは恩人ではあるがアンネリーゼは親友を守りたい。モニカを犠牲にするつもりはない。
「ヘルモント侯爵子息の噂の殆どは振られた女性の腹いせで流れているのでしょう? もちろん私も詳しいことは知りませんが、彼に助けられた友人もいるので悪い人だという印象はないのです。きっと大丈夫ですよ」
カタリーナはローレンツの味方のようだ。彼女なりに人を観察して判断している。噂だけで判断しない。いい子だわ。
「モニカ様。不安なら私も同席するわ。護衛騎士も連れて行きましょうか?」
「待ってください。それに騎士って大げさすぎです。そもそもアンネリーゼ様が同席したらバルリング公爵子息も絶対に一緒に来ます。四人でお茶も悪くはありませんがモニカ様の恋が進む気がしません。ここは二人で会った方がいいと思います」
カタリーナの言葉にモニカは一瞬だけ渋面を作る。珍しい表情に吹き出しそうになるのを堪えた。
「アンネリーゼ様。さすがにご一緒していただかなくても大丈夫です。私も大人ですもの。それにヘルモント侯爵子息が不埒なことをする人ではないと知っているのでお茶くらいなら二人でも大丈夫です。あとカタリーナ様。これが恋に発展することはありません!」
「モニカ様。可能性を捨てないで下さい。人の心は変わるものですよ」
カタリーナはひたすらローレンツを押すようだ。二人がヒートアップしそうなので口を挟む。
「分かりました。モニカ様がそう言うならとりあえずローレンツ様に連絡しておきますね」(もちろんジークハルトを通してだ)
念のためローレンツがモニカに軽薄な真似をしないようジークハルトからも注意してもらっておこう。
「アンネリーゼ様。今日のお菓子も美味しいです~」
カタリーナはすでにお菓子に意識が行っている。その無邪気な様子が可笑しくてくすくすと笑ってしまう。
「このお菓子も私のお気に入りよ。モニカ様もどうぞ」
今朝バルリング公爵家から届いた出来立てお菓子だ。アンネリーゼも手を伸ばす。
その後は話題がカタリーナに移り、婚約者と普段どう過ごしているのかをモニカと二人で追及した。本日のお茶会も楽しい時間を送ることが出来た。
二人が帰って暫くするとジークハルトが会いに来た。今日は来る予定の日ではなかったが、きっと来ると思っていた。
「ジーク、いらっしゃい」
「会いたかったよ。リーゼ」
「昨日も会ったのに?」
「ずっと一緒にいたい。駄目か?」
「私もよ」
甘い声に胸が高鳴る。ジークハルトの青い瞳がアンネリーゼを優しく包み込む。この瞬間が心地いい。彼に愛されていると実感する。私も同じ気持ちだ。だから彼がくれる、それ以上のものを返していきたい。
ジークハルトは手を伸ばすとアンネリーゼを宝物のように優しく抱きしめる。その温度にそっと体を預ける。
これが私と婚約者のありきたりな日常である。
お読みくださりありがとうございました。誤字脱字報告、評価等にも感謝申し上げます。