13.私の一番
聞き逃してしまいそうなほどの小さな声。
「結婚式が待ち遠しいな。早く……君の一番になりたい……」
びっくりしてアンネリーゼは顔を上げまじまじとジークハルトを見た。
「何でもないよ」
彼は眉を下げ少しだけ困ったような表情をしている。瞳は迷子になった子供のようだ。声は少しかすれていた。
彼の心細そうに見える姿にアンネリーゼは反省した。ジークハルトはいつだってアンネリーゼを不安にさせないように言葉を惜しまない。行動でも示してくれている。今の言葉はきっとふいに出た彼の本音だ。安心をもらってばかりで彼を不安にさせていたのだ。
アンネリーゼは立ち上がりジークハルトの前に立つとゆっくりと彼の頭を引き寄せ抱きしめた。ちょうど自分のお腹に彼の顔が当たっている。彼は抵抗しない。これから言う言葉は恥ずかしいので顔を見れそうもない。
「ジーク。私にとってはあなたが一番大切な人よ。お姉様は大好きだけど今はお義兄様がいるわ。これからもずっと家族だけど、でもね。もし、たった一人を選べと言われたのなら私は迷わずジークを選ぶ。あなたがいてくれなければ、私はもう幸せになれないの。だから側にいさせてね。大好きよ」
いつからか分からない。でもとっくにあなたが一番なの。一番大好き。全てを抱き締められないならあなただけを抱き締める。
「……ありがとう……」
小さな、本当に小さな声だった。ジークハルトの体が微かに震えている。アンネリーゼは愛おしさでどうにかなりそうになりながら彼の背中を優しくよしよしと撫でた。
(大きな背中。いつも私を庇い守ってくれる頼もしい人。あなたが何を不安に感じているのかは分からない。でも私だってあなたを守れる。守ってみせる)
暫くそうしていたが、なんだかたまらなくなって屈んで彼のこめかみにそっと口付けた。
「ちゅっ」
ジークハルトがパッと顔を上げてアンネリーゼの顔を見る。その表情は目がまんまるできょとんとして幼く見える。なんて可愛いのかしら!
「ふふふ」
「リーゼ」
ジークハルトは静かに立ち上がるとアンネリーゼの頬を両手で包み込み顔を上に向けた。そして彼の少しだけ潤んだ青い瞳が近づきぼやけたと思ったら唇に柔らかな感触がした。唇同士が触れてゆっくりと離れる。ジークハルトの瞳が再び視界に入る。その瞳は柔らかく弧を描いていた。
アンネリーゼは目をパチパチと瞬いた。体が固まって動けない。ジークハルトは弾けるように破顔した。
急に自分が大胆な行動を取ったこと、彼に口付けられたことを理解し羞恥心が湧き起こる。心臓がドキドキと暴力的なまでに激しく早鐘を打つ。どうしよう。恥ずかしい。逃げたい! どこに?
咄嗟に彼に抱き着き彼の胸に顔を埋め隠れた。これは逃げたことになっていない。だけど側にいたい。今は離れたくない。少し顔を横にすると彼の胸に耳が触れる。ジークハルトの早い鼓動が聞こえて来て、彼もドキドキしていると思ったら何だか胸がいっぱいになった。彼の大きな腕がアンネリーゼの体を優しく包み込んだ。
侍女は気を利かせて応接室には二人きりだ。ただ静かに思いを確かめ合うように抱きしめあった。
ちなみに今日はバルリング公爵家に来ている。そしてお泊りをする。もちろん客間を使う。すでにジークハルトの隣の部屋を用意してくれているが結婚式までは使わない。楽しみはその時までとっておくのだ。
ジークハルトは仕事があるので一旦別れた。名残惜しそうな顔に笑ってしまった。だって晩餐ですぐに顔を合わせるのに。
「ジークがご機嫌だったわ。リーゼ、ジークと婚約してくれてありがとう」
アンネリーゼは晩餐までの時間をヘルミーナと一緒に過ごす。公爵家に嫁ぐための教育はすでに終わっているが、今日は話があるから時間を取って欲しいと言われていた。
ヘルミーナはことあるごとにアンネリーゼにお礼を言う。ジークと婚約してくれてありがとうと。繰り返し何度も。いつもなぜそんなに感謝されるのか不思議だった。アンネリーゼの方こそもらってくれてありがとうなのに。
その理由を今教えられた。
アンネリーゼはショックで固まってしまった。ヘルミーナがジークハルトの子供の頃のことを教えてくれたのだ。生まれた時からのヒルデカルトのジークへの冷たい対応。抵抗の力を持たない無垢な幼子を容赦なく嬲ったのだ。ヘルミーナは涙を浮かべ苦悶の表情を浮かべている。ずっと苦しんできたのだろう。息子を守らずに悪魔に預けてしまったと。
ヘルミーナは「ヒルデカルト様」と呼ぶ。一度も「お義母様」とは言わなかった。そういう存在なのだ。
アンネリーゼは自分が比較的温厚な人間だと思っている。争いは好まない。だけどヒルデカルトに対しては殺意を抱いた。生きていてこんな感情を抱いたのは初めてだった。アンネリーゼは優しいとよく人に言われるが本当は自分が冷たい人間だと理解している。自分や大切な人に明らかな悪意を示した人間には容赦しない。といっても出来ることは少ないのでこの世に存在しない人として扱う。大切な人を傷つける人間を許すことなど出来ない。それが例え血の繋がった親や祖母であっても。
アンネリーゼはヒルデカルトに会ったことがない。領地にいるとはいえ昨年正式に結婚式の日取りが決まった時に挨拶に行かなくていいのかと聞いたが、みんなが必要ないと言った。不思議に思ってはいたが詳しいことを聞ける雰囲気ではなかったのでそのままだった。
「ジークは私たちを一度も責めなかった。恨まれて当然、恨んでくれていいのに」
「ジークはお義父様もお義母様も大切に思っています。私は彼に誰かを憎み続ける人生を送って欲しくないです。罪を贖うために恨まれることを望まないで下さい。人を憎んだり恨んだりするそんな苦しみをジークに与えないで。なによりジークはお二人が苦しむことを望んでいないはずです」
「ええ、ええ、そうね。リーゼの言う通りだわ」
「ところでどうして急に教えてくれたのですか? 結婚式が近くなったからですか?」
たぶんジークハルトの性格から考えるとアンネリーゼにこのことを知られたくなかったと思う。ヘルミーナは眉をぎゅっと寄せた。そこには苛立ちが見える。
「ヒルデカルト様が……近いうちに王都に来ることになったの。アロイスはずっと領地から出さないつもりだった。ジークたちが結婚してもヒルデカルト様のことは私たちで対応するはずだったわ」
普段は領地の屋敷に軟禁状態で外部接触や外出も制限しているらしい。お義父様はそれほど傷ついたということだ。
「何しにいらっしゃるのですか?」
お義父様が阻止できない王都に来る用事があるということだ。正直、心穏やかではいられない。
「ヒルデカルト様の初恋の他国の公爵様のお孫さん、ご令嬢が観光にお見えになるのよ。よりにもよってヒルデカルト様を頼って。そちらの国の国王陛下からの親書も預かっているので断れないのよ。一度、領地の方でもてなしてヒルデカルト様が付き添われこの屋敷にお見えになる。どうせよからぬ目的を携えてくるのでしょうね。でも建前がしっかりしている以上無下には出来ないわ」
他国の国王陛下の親書を預かられているのでは拒めない。それなら直接王家に出向いて欲しい。ヒルデカルトを頼ることが怪しい。
「そのご令嬢のお歳はご存じですか?」
「二十一歳になったばかりで未婚。そして婚約者もいないそうよ」
「…………」
アンネリーゼは確信した。絶対にジークハルト狙いだ。でも私が阻止する。絶対に彼を渡しはしない!! 膝の上の手をぐっと握りしめた。
「リーゼにはきっと嫌な思いをさせてしまうわね。ごめんなさい。ジークもアロイスもやめさせる方法がないか考えたのだけど……」
「いいえ! 大丈夫です!」
アンネリーゼは笑顔だ。今こそジークを守る。ヘルミーナにそのご令嬢の詳しい情報を教えて欲しいと頼んだ。対策を考えねば。
ジークハルトはヒルデカルトが王都に来ることで無意識に心が弱っているのかもしれない。そうでなければ彼がアンネリーゼの前で弱気な発言をするはずがない。いや、出来ればいつでも言って欲しいが彼にも男として、そして公爵家嫡男としてのプライドがある。彼の矜持を傷つけたくない。
ジークハルトの心がアンネリーゼに向かっている限り無敵だ。アンネリーゼは口角を上げ、まだ見ぬ敵に微笑んだ。