11.天使との出会い
それから両親はジークハルトに感情を理解させるために必死だった。
カウンセリングや高名な医者を手当たり次第に集めた。いいと言われるものは何でも試した。結果は芳しくない。ジークハルトが何かを欲しがることも喜ぶこともない。怒ることも悲しむこともない。表情のない息子に両親は自分たちを責めた。なぜヒルデカルトを信じたのか。早く気付くことが出来ていれば……いつも息子に向ける表情には悲しみと悔恨が滲んでいた。
ジークハルトはそれを理解できない。なぜ両親は謝るのか。自分はどうすればいいのか。成績は優秀で剣術も馬術も誉められた。これ以上何をすればいいのかと聞いても二人は「もう十分だ」と悲しそうにする。
アロイスはジークハルトに友人が出来れば何かが変わるかもしれないと期待した。ちょうど王から同じ歳の第二王子の話し相手になって欲しいと頼まれていたのでいい機会だと引き受けた。
ジークハルトは初めて同じ年頃の子供と過ごすことになる。彼らが笑ったり怒ったりする姿を不思議な気持ちで眺める。そこで観察することにした。みんなが何に興味を持ってどんな時に表情を変えるのか。次第に自分が普通ではないことに気付いたがそこまでだった。
誰といても感情が動かない。そもそも自分に感情があるのだろうか? そんな風に思っていた時にアンネリーゼと会った。ジークハルトにとって運命の出会いだった。
両親はジークハルトに無理に婚約者をあてがおうとは考えていなかった。だが第二王子の友人たちの両親は相応しい婚約者を求めていた。両陛下も息子の側近候補には然るべき令嬢と縁組して欲しいと思い、第二王子の友人を募るためのお茶会と称して、まだ幼い貴族令嬢を王宮に集めた。もちろん自分もそこに呼ばれた。
小さな令嬢たちは緊張しながらも親に第二王子と仲良くなるように言われていたようで、お茶会開始から王子の側を離れない。ところが一人だけテーブルでお菓子に夢中の女の子がいた。ジークハルトはその女の子がなぜか気になった。目で追っているとハンカチにクッキーを包み席を立って歩き始めた。自分も王子の側を離れそっと後をつける。
その女の子は花壇の前に座りこんだ。そして膝にハンカチを広げてクッキーを口に入れる。さっき散々食べていたのにまだ食べるのか。今までジークハルトは母からお菓子を勧められたが美味しいと感じたことがなかった。お菓子だけでなく食事は義務で食べるもので感想を抱いたことはなかった。女の子は満面の笑みで頬張る。それほど美味しいものだろうか? そのクッキーは今までのお菓子とは違う特別なものなのか?
ジークハルトはその子をただ見ていた。しばらくするとその女の子が歌を歌い出した。
「ららら~ららら~ら・ら・ら~♪」
女の子の視線を追えばチューリップの蕾が目の前に広がる。可憐な歌声……。色とりどりの花の蕾……。綺麗な蕾……。綺麗?
頭が混乱する。これは何だ。分からない。でも――――。ジークハルトは思わず一歩を踏み出した。その気配に女の子が振り向いた。
ジークハルトに驚いて目をまんまるにしている。クリーム色の髪に琥珀色の瞳、ジークハルトには純真無垢な天使に見えた。
「おにいちゃまはだあれ?」
子供っぽい舌ったらずな甲高い声だ。女の子は興味津々という目で問いかける。その声にハッと我に返る。この子は天使じゃなくて人間だ。
「私は、ジークハルト。君は?」
「アンネリーゼだよ」
「そう。アンネリーゼは花を見ているの? 一緒にいてもいいかな?」
吸い寄せられるように隣に座るとアンネリーゼがクッキーを差し出した。困惑しながらも聞けば嬉しそうに勧める。美味しいから食べてと。
「これを……くれるの?」
ジークハルトは戸惑いながら口に入れた。そっと咀嚼する。誰かの手から何かを食べるのは記憶の限り初めてだった。小気味良いサクサクとした食感に甘さが広がる。味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
「ねっ! おいしいでしょう?」
自信満々のアンネリーゼが微笑ましくて目を細める。まるで誉めてと言わんばかりだ。
「ああ、こんなおいしいお菓子、初めて食べたな」
正直な感想だった。たぶんこれが美味しいだ。
「えっ?!」
ヒルデカルトはいつも決まった時間に食事をさせた。もともと食が細かったのでお腹が一杯で食べたくないと言っても一日の決まった栄養分だと許されなかった。空腹になることはなかったが、食事は義務であり苦痛でもあった。するとアンネリーゼが逡巡したあと再びクッキーを差し出した。
「はい。どうぞ!」
「いいの? お土産なんだろう?」
「そうだけどおにいちゃまがおいしいっていったからあげる。おねえちゃまのおみやげはまたテーブルにいってもらってくるからだいじょうぶなの」
幼い女の子が自分のために姉のお土産をくれると言う。胸に初めて感じる温度のある何かが広がり体を巡る。ジークハルトは再びアンネリーゼの手からクッキーをもらい、食べ終わると一緒に花を眺めた。
ふと自分の口元に手を当てた。少し口角が上がっていたことに気付く。
(私は笑っているのか? ならばこれは楽しい? それとも嬉しい? よく分からない)
静かに時間が流れていく。あっという間だったが、ただ穏やかな優しい時間だった。
「バルリング公爵子息様。お時間です」
侍女の言葉にジークハルトは立ち上がる。先ほど侍女に頼んだクッキーの入った袋を受け取りアンネリーゼに渡す。
「これは君のお姉さんのお土産の分のクッキーだよ。馬車止めまで送っていこう」
侍女は不満そうだった。彼女は第二王子付きの侍女だ。アンネリーゼが王子に興味を示さなかったことが不満なのだろう。それに友人であるジークハルトが側を離れて油を売っていたのだから。侍女の視線を無視してアンネリーゼの手を繋ぎ歩き出す。
「おにいちゃま。ありがとう」
「こちらこそありがとう。楽しかったよ。アンネリーゼ。また、会おうね」
「またあえる?」
「ああ、会えるよ」
きっと会える。会いたい、もう一度。そしたらもっと何かが分かるかもしれない。それを知りたいと思った。
「やくそくね!」
この子と話をしたら何かに手が届く、そんな予感がする。アンネリーゼが小さな手を大きく振る姿に胸が温かくなる。それと同時に胸のどこかが重くなる。離れることが寂しい。
夜、ベッドに入り昼間のことを思い出す。そうすると心の中のいろいろなものが堰を切ったように溢れ出す。知らず頬を涙が濡らしていた。手でそっと拭いながら自分が泣いていることに驚いた。記憶の限りジークハルトは泣いたことがない。呆然と拭った手を眺める。
翌日目を覚ますと体が熱く苦しい。起き上がることが出来なくて再び目を閉じた。どれくらいの時間が経ったのか、目を開けるとヘルミーナが心配そうに側で看病していた。
「ははうえ?」
どこかぼんやりとしている。
「ジーク。目が覚めたのね。あなたは熱があるのよ。お水を飲む?」
頷けば体を起こしコップを口元にあてがってくれた。冷えた水が体に滲み込んでいく。
「大丈夫よ。お母様はずっとここにいるからゆっくり眠りなさい」
「はい……」
そう言えば、両親が戻ってくるまで体調を崩してもいつも一人だった。決まった時間に侍女が顔を出すだけで誰かが側にいたことはなかった。そっとおでこに触れる母の手に不思議なほど安心して目を閉じた。
三日ほど寝込んだが、そのあとは頭の中も心の中もすっきりしていた。
あれほど理解できなかったいろいろなものがストンと落ちて来た。両親や第二王子、友人たちのおかげで感情を知識で得ていた。それはアンネリーゼに出会ったことで頭が理解し心が受け入れたのだ。ずっと解けなかった計算を繰り返し挑戦して、ある日呆気なく解けたようなそんな感覚に近い。
両親を含め周りにいた人たちはすぐにジークハルトの変化に気付いた。それはそうだ。無表情がデフォルトだったのに、表情が動くのだ。彼を知らない人には気付かないような小さな変化だったが見守ってきた人たちにとっては待望の瞬間だった。両親は体を震わせるほど喜び、興奮しながら最近何があったのかと聞いてきた。
「王宮のお茶会でアンネリーゼと会いました。あの、アンネリーゼとまた会えますか? 会いたいのです」
「そう、そうなのね」
ヘルミーナは涙を浮かべ頷いた。
「もちろん会えるさ」
父が手を回してくれたのだろう。その後アンネリーゼは王宮で定期的に行われる第二王子を囲んだお茶会に出席するようになる。でも王子たちの輪には加わらずすぐにジークハルトが花壇に連れて行って二人でおしゃべりをしていた。
第二王子も他の友人もそれを咎めることなく嬉しそうに送り出してくれた。
今では周りの人に心から感謝をしている。感謝が出来る様になったことが誇らしい。そう、ジークハルトは人に恵まれている。至らない身なのに自分を愛してくれる人のなんと多いことか。そしてアンネリーゼに会えた。その後、ジークハルトはアンネリーゼと正式に婚約を交わした。
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小さな天使は美しい淑女になった今も自分の隣にいる。
「私は幸せ者だな」
その呟きにアンネリーゼがはにかんで頬を染めた。