1.私の素敵な婚約者
よろしくお願いします。
アンネリーゼはダンスの足を止めることなく眼の前の婚約者の顔を見上げた。
ジークハルト・バルリング。いつ見ても美しく、いつまでだって見ていたい。
彼は公爵家の嫡男でアンネリーゼより五歳年上だ。文武に秀でている上に誰もが見惚れるような眉目秀麗な顔。彼の瞳の色は澄んだ空のような青色。ジークハルトが自分に向ける眼差しは、まるで春の日差しのように暖かい。
お互いに見つめ合えば彼の口元には愛しさを滲ませた笑みが浮かぶ。その笑みが自分に向けられていると思うと得も言われぬ多幸感が胸いっぱいに広がる。知らずアンネリーゼも零れんばかりの笑みを彼に向けていた。言葉がなくても一緒にいられるだけで楽しい。会話をしなければと気負うような仲でもない。ただ見つめ合いながら気付けば二人は三曲続けて踊っていた。
「リーゼ。そろそろ休憩しようか。疲れただろう?」
「ええ。そうね」
ジークハルトの声に我に返る。つい夢中になって二人の世界に浸っていた事を自覚すると、目の下を薄っすらと桃色に染めた。楽しい時間はあっという間に終わってしまう。名残惜しく思いながらジークハルトのエスコートで姉夫婦の元へ向かった。
アンネリーゼはディンケル侯爵家の二番目の娘で姉のマルティナが婿を取り家を継いだ。
マルティナはアンネリーゼから見て贔屓目なしに美しく優秀で完璧な淑女であり目標だ。気品に溢れ優雅な所作はこの会場内の誰よりも素晴らしいと思う。そのマルティナの夫ヴァルターはオイゲン辺境伯家の次男で大きな体躯に精悍な顔立ちの勇ましそうな男性だ。最初に会ったときはその威圧感に怯みそうになったが、姉を見る目は砂糖の塊の上にアイシングをコーティングしたように甘かった。その視線を幸せそうに受け止める姉の笑みに、思い合う二人の気持ちを感じ取り安堵したことを覚えている。
二人は理想の夫婦でアンネリーゼにとって大切な家族である。二人は一年前に結婚し、それを機に姉が家督を継ぎ、両親は領地で悠々自適な生活を送っている。新婚の邪魔をしている気もするが二人はアンネリーゼを邪険にしたりしない。
「リーゼ。お疲れ様。楽しそうだったわね」
「ええ、お姉様。ジークとのダンスはいつだって楽しいわ」
マルティナが給仕から果実水を受け取りアンネリーゼに渡す。さすがに三曲続けて踊ったせいで喉が渇いていた。受け取るとすぐに口を付けた。オレンジの味がさっぱりとして美味しくゴクゴクと飲んでしまった。ジークハルトはその姿をニコニコと見ている。そのとき後ろからジークハルトに声を掛ける男性がいた。
「バルリング公爵子息。よかったら娘と一曲踊ってやって欲しい」
「これはカペル伯爵。……私でよければ」
カペル伯爵家とバルリング公爵家は仕事で繋がりがある。社交の一環だとジークハルトは後ろにいた令嬢に頷いた。アンネリーゼは胸にチクリと刺すような痛みを感じたが表情には出さず微笑んで見守る。余裕がない所を見せる訳にはいかない。
「ジークハルト様。どうか私のことはカタリーナとお呼びくださいませ」
「……。リーゼ、少しだけ外すが、マルティナとヴァルターの側にいてくれ。絶対に離れては駄目だ」
「分かったわ」
ジークハルトはカタリーナの言葉には応えずアンネリーゼの方を見て注意を促す。
彼は意外と心配症だ。以前、夜会でジークハルトがアンネリーゼの側を離れた時に男性に絡まれたことがあった。すぐに周りの人が助けてくれたので何事もなかったのだが、それ以降過保護になってしまった。アンネリーゼを一人にすることを酷く嫌がる。そういつも何かがあるはずもないが、彼に心配をかけたくなくてアンネリーゼは笑みを浮かべて頷いた。
ちなみにアンネリーゼに絡んできた男性は夜会の帰りに階段から落ちて骨折したらしい。マルティナは不埒者に天罰が下ったのよと言っていたが、大怪我ではなかったようなのでよかった。
視線を二人に戻せばジークハルトはカタリーナの手を取ってダンスホールへと移動する。その姿を切ない思いで見守った。
カタリーナはその美貌で有名だ。まだ十七歳なのに求婚者も殺到していると聞く。会場内では彼女を見つめる男性が多い。目を瞠るほどの美貌はアンネリーゼから見ても溜息をつきたくなるほど。水色の美しい髪に華奢な体であどけない表情を浮かべればその姿は可憐で守ってあげたくなる。社交界では妖精姫と言われている。
カタリーナがジークハルトを見上げはにかむ姿に焦燥を感じてしまう。彼女の瞳には熱い思いを感じる。憧憬以上のもっと強いものを。彼もきっと気付いているはずだ。ジークハルトは今どんな気持ちなのだろう。妖精姫に微笑まれて喜ばない男性がいるだろうか。思わず手に持っていた扇子をぎゅっと握りしめた。二人がターンをするとジークハルトの顔が一瞬見えた。目を細め口角を上げていた。笑い合う二人に嫉妬する。
「ジークが……笑っている……」
そんなことくらいでとは思うが自分はとても心が狭い。婚約者が他の女性と楽しそうにダンスをしていれば悲しくもなるし、微笑み合っていれば心はモヤモヤする。なによりも辛いのがカタリーナとジークハルトの踊る姿は芸術的なまでに美しくお似合いだ。二人の姿を眺めながら深いため息をつけば、自分の後でマルティナが呆れたような声でヴァルターに話しかけている。
「ヴァル。冷笑って笑っているうちに入れていいのかしら? リーゼはジークのことになると美化フィルターが凄すぎるわ」
「ジークが紳士なのはリーゼの前だけなのにリーゼはそれに気付いていないからなあ。あれだけ重い愛情を向けられてもまだ不安なのか……」
アンネリーゼは踊る二人に意識が集中していて姉夫婦の会話は耳に入っていなかった。マルティナが自分の肩をポンと叩く。
「リーゼ。心配しなくても大丈夫よ。ジークがあなた以外を好きになることなんてないから」
マルティナはアンネリーゼの不安を和らげようとしてくれている。姉にいらぬ心配をかけてしまった。それに淑女がいちいち不安を顔に出しては駄目だと反省した。
「ありがとう。お姉様」
曲が終わるとジークハルトはカタリーナをカペル伯爵に託す。未練など感じさせない態度ですぐにこちらに戻って来る彼の姿にそっと安堵した。