『6』
『6』
ウルディングと少年がユジ島に戻って、数日が経過していた。特段、以前と変わった様子はなく、監視する目はあるようだが、あからさまにその数が増えたということもないようだった。神官大長が下した断は、今のところ履行されていると言えた。
ただ一点、ランスオブ大聖堂から戻って以来、少年はウルディングに同行していた朝の散歩の道程を変えた。ウルディングの散歩は海岸線を歩くことを基本としていたが、少年は方向的には真逆の山の方を選択した。また、平坦な海岸線ではなく起伏の多い山道を選び、かつ、歩きではなく駆けることを主にして、散歩というよりは鍛錬の一環とした。
ウルディングと同時刻に家を出て、戻ってくる時刻もほぼ同じだった。歩いているウルディングに対し、少年は駆けていることから、距離も倍以上に及んでいる。今朝も家の前で二人は分かれ、それぞれの道程へ向かった。
そこまでは、常と変わらなかった。異変があったのは、その後だ。
少年がいつもの道程を駆け終え、家まで戻ってくると、まだウルディングの姿は無かった。ほぼ同時刻に戻ってくるというだけで、ウルディングが先着している場合も、先着が少年の場合もあった。だが、この日は、いくら待ってもウルディングは姿を現さなかった。
家の前の浜辺に大の字になって寝転び、雲が厚くなってきている空を眺めながら疲れを癒していた少年も、何かしらの変事を悟った。幸い、ウルディングの散歩の道程は知っている。先刻までの疲れも忘れ、少年は駆け出した。
厚みを増す雲に加え、風速も上がってきた。天候の崩れを予感させ、その予感は少年に焦りを募らせた。
海岸線は平坦ではあるが、幾重にも入り組んでいる造りのため、遠方までを一気に見通すことは適わない。少年は砂つぶを跳ね上げながら全速力で駆けた。歩いている時には気づかなかったが、砂浜は土の上などに比べて遥かに足を取られるため、駆けるのに多くの力を要した。
山道を登り降りするよりも、きつい鍛錬になるなどと思いながら、いくつ目かの突端を曲がった時、新たに開けた視界の中に、うつ伏せに倒れる人の姿を認めた。確かめるまでもなく、それがウルディングだと悟った少年は、この日一番の速力で駆け寄った。
名を呼んだが、反応は無い。少年は跪き、うつ伏せの状態から仰向けへウルディングの身体を返し、心臓の辺りへ自身の耳を押し当てた。鼓動を感じ取れた。呼吸も確認できた。生きている。
「ウルディングさん、家まで運びます。もう少し頑張ってください」必死が滲む声色で呼びかけると、少年はウルディングを背負い、今来た道を戻るために再び駆け出した。
それと同時に、雨粒が落ちてきた。雨粒は瞬く間に数も勢いも増し、豪雨となった。それに導かれるように風が強く吹き始め、雷鳴も轟き出した。変事に動揺する人の性に同調するかのように、大荒れの天候となった。
家に戻った時には、二人ともずぶ濡れだった。少年は一旦、ウルディングを長椅子に座らせた。たっぷりと雨水を吸った衣服を脱がし、大急ぎで全身を拭くと、再びウルディングを背負い、長床に横たえた。布団を掛け、長床の傍にある椅子に腰を下ろした。奇しくも、ウルディングが海岸に倒れていた少年を助けた際と、ほぼ同じ過程を少年も踏んだ。
しばらく、長床の傍に寄り添っていると、次第にウルディングの呼吸が荒くなった。額に触れると、発熱もしていた。冷水を絞った布を当てたが、程なくして大きな効果は期待できないと悟った。少年は下唇を噛み、窓外とウルディングを交互に見た後、決断した。
「人を呼んできます。少し家を空けますが、待っていてください」
そう伝えると、逡巡する素振りもなく家の外に出て、未だに続く荒天の中へその身を晒した。少年が目指すべき家は一つしかなかった。自身とウルディングをランスオブ島まで運んでくれたウルディングの知人だ。
「無茶を言うなっ」怒声が谺した。
ウルディングの容態は、快復に向かう気配を一向に見せなかった。少年が連れて来たウルディングの知人も為す術が無いようで、医師に罹るのが最善との断を下した。
だが、ユジ島に医師はいなかった。医師のいるランスオブ島に行くか、その医師にここまで来てもらうか、その二つしか選択肢は無い。
ウルディングを動かすわけにはいかなかった。畢竟、少年は、自身がランスオブ島まで行き、医師を連れて来る旨を知人に示した。その結果が、室内に谺するほどの怒声である。
知人が怒声を挙げるのも無理はない。外は雨、風、雷が重奏し、歩くのも困難なほどの荒天が続いていた。近隣にある知人宅までを往復した少年はもとより、片道だけの知人もびしょ濡れとなった。
しかし、知人の怒声にも、少年は怯んだ様子を見せなかった。覚悟している者であることを示す真一文字に結んだ口。そして、ウルディングの心に熱量を蘇生させたあの眼差し。威嚇するような素振りは皆無であるのに、知人は少年に飲み込まれつつあった。
「荒天だからと、恩人を救うために動きもせず、ここで指を咥えているくらいなら、死んだ方がましです。ここで一度、死んだと思えば、俺の眼前に無茶や無謀など存在しない。俺一人で構いません。手漕ぎの小舟を貸してください」
声を荒げるでもない。縋るような響きもない。淡々と重ねられた言葉に、知人は何故か凄味を感じた。
「……わかった。だが、行くなら俺も共に行く。ウルディング爺さんに恩を感じてるのは、何もお前さんだけじゃない」知人はそう口にしていた。
知人は、確かにウルディングに恩があった。それに加えて眼前の少年からは、共にありたいーーと思わせる何かを感じ取ってもいた。
「まったく、俺もどうかしちまったようだぜ」知人は独りごちた。
二人はお互いに顔を見合わせると、どちらからともなく微笑を浮かべた。
海もまた大暴れしていた。小舟を海面に浮かべると、それは波に激しく揺らされ、なかなか乗り移る機を得られなかったが、僅かに波の勢いが弱まった間隙を突き、知人、少年の順で乗り込んだ。
二人は進行方向に背を向ける形で小舟を漕ぎ始めた。すぐに、知人は自身の決断を後悔した。
舟を漕ぐ力量の有無など無関係の如く、逆巻く波、激しいうねりに巻き込まれた。舟は進行しているものの、そこに自身達の意志が介在する余地は無く、転覆させぬように努めるのが精一杯だった。
激しい雨の幕に遮られて視界はほとんど効かず、舟が現在どの地点にいるのかも見失ってしまっている。このまま転覆させぬ状態を維持し続けることは奇跡で、まさに神業と言えた。畢竟、天候の回復に期待を寄せるが、鎮まることを忘れてしまったかのように荒れ狂う空模様を前に、希望の灯は文字通り、風前の灯だった。
どれくらいの時が経っただろうか。長時間、激しい風雨に晒され、少年も知人も身体は冷え切り、衰弱していた。
艪を漕ぐどころか、お互いを気にかける言葉さえ交わせなくなり、朦朧とした意識はいつ失われても不思議でなかった。二人が意識を失えば、舟の転覆は避けられないものとなり、この海原に投げ出されれば、命を落とす可能性は限りなく高い。そしてそれは、ウルディングの命の危機に繋がることとも同義だ。
失いかけた意識を繋ぎとめるため、少年は下唇を強く噛んだ。血が滲むほどの強さで、少年は一瞬、目を大きく見開いた。薄目でいること以外は非常に困難な状況の中で、それは久方ぶりの行為と言えた。
相変わらず雨の幕に多くを奪われている視界だったが、薄目でいるよりは確実に広さを増した。その視界が、少年と知人の乗る舟の間近にまで接近していた大きな影を捉えた。
それが何であるかは分からなかった。正体不明のそれが、生物なのか人工物なのか、或いは岩山なのか。
突如、その影の中から何かが舟を目掛けて飛んできた。それは線を引くように少年の前方に届いた。次の瞬間、もっと大きな黒い塊が飛んできた。
眼前に現れた黒い塊は動いている。風雨や舟の揺れによるものではなく、意志を持った動きだった。少年は、その正体を悟った。
「人…だ…」
呟くように口にした後、少年の意識は途切れた。