『4』
『4』
大陸に上陸せずとも、船上からでも、エイブベティス大陸の雄大な自然を目の当たりにすることが出来た。聞きしに勝る凄味が、やや距離があっても、ひしひしと伝わってくる。
大自然の中にあれば、人なぞ砂粒の如きもの。
船上に立ち、これまでの自分が知る自然の威容を遥かに凌駕するものを前に、デルソフィア・デフィーキルは、古より語られ続けている言葉がまさに真理であることを痛感していた。
新たに世界を先導する者となるべく、デルソフィアは世界を知る旅に出た。世界の各地を見聞することに加えて、四つの王国および王宮を訪れ、それぞれにおいて、新たな道程を共に歩める可能性があるか否かを探ることを第一義の目的に据えた。ミーシャルール・ユウリとその部下数名が、共に旅をする仲間となったが、その一団に、デルソフィアの実母であるカノンシュ・デフィーキル改めアリアーノ・フィオは加わらなかった。
「私はこれまで、充分に世界を見聞してきたわ。だから次は、息子が、息子達が、帰ってくる場所になりたいのよ」そう言って微笑むアリアーノに、息子であるデルソフィアをはじめ、誰もが納得した。
デルソフィア自身、生まれ育った皇国及び皇宮を、謂れのない罪で追われた。不本意ながらも次の居場所とされた島牢獄にすら辿り着けず、広大な世界の只中に独りで放り出された。
だが、新たな繋がりもあった。古今東西、空前絶後、最も結び付きの強いと思う母子の絆というものを、再び感じてもいる。そんな母が帰る場所となっていてくれるなら、後顧の憂いは皆無。明鏡止水の心持ちで旅立つことが出来た。
最初に訪れる大陸をエイブベティス大陸に決めたのはデルソフィアだった。
四大陸ともに、デルソフィアは書物と、そして今は亡き親友のオッゾントールから聞いた話によって、幾ばくかの知識を得ていた。各大陸の知識量に偏りはないものの、百聞は一見にしかずの字義通り、それはまだ充分とは言い難い量だった。
オッゾントールが語る知識や体験談は、いずれもデルソフィアの興味を刺激するに足る内容だったが、その中でもエイブベティス大陸に伝わる神話、神獣ブラウラグアとその眷属エルユウグの話は強く印象に残っている一つだ。その話を語るオッゾントールの目の輝きが忘れられない。天才といわれる男も、無邪気な少年のような様相を呈すのだと知り、嬉しくなったことを覚えている。
オッゾントールの実兄であるミーシャルールから希望する行き先を訊ねられた時、何故だかオッゾントールの面影と神獣及び眷属の話が頭に浮かび、「エイブベティス」と告げていた。
理由を問うミーシャルールには、ありのままを話した。話を聞き終えたミーシャルールは嬉しそうに微笑み、力強く首肯すると、行き先をエイブベティス大陸に決めた。
最初の訪問地としたエイブベティス王国への海からの入口であるチェンバと思しき港町が、デルソフィアの視界に入った。いよいよ四大陸の一、エイブベティス大陸へ足を踏み入れることになる。胸が昂揚していくのを自覚し、さらに一歩前へ踏み出した時だった。
「こら、デル。もうすぐ到着なんだから、いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、下船する準備を始めな」背後から、女にしては少し低めの声が響いた。
ミーシャルールがこの旅に随行させた部下は全部で十三人おり、男女の内訳は、男が九人で女が四人だった。これにミーシャルールとデルソフィアが加わり、一団は十五人という構成だった。この船中には女が四人いるわけだが、振り返って確認せずとも、声の主が誰だか分かった。
ランスオブ島の港を出港してから今日までの期間、十四人いる旅の仲間で最も多く口を利いた相手の声だった。
ルネル・アーバイン。ミーシャルールが随行させた部下の中では最年少で、十七歳となったデルソフィアにも近い二十一歳。口は悪く愛想も無いが、何かと声をかけ、世話を焼いてくれる姿からは、面倒見の良さが滲んでいた。
「ああ、すまぬ」振り返って、素直に詫びた。
口の悪さを全く反映していない面立ちは綺麗だった。やや吊り上がった両眼が印象的で、意志の強さを窺わせていた。
「一番下っ端が一番最後なんて可笑しな話でしょ。ほら、急げ急げ」追い立てるように傍まで来て、両手を叩く。
思わずデルソフィアも苦笑して、その場を離れた。
ミーシャルールによれば、神皇帝皇子というデルソフィアの素性は、現時点では旅の仲間には明かさないとのことだった。素性が明らかになれば、必要以上に傅かれることは必定であり、また仲間内の結束がいかに堅かろうとも、真実を知る者が多ければ多い程、その分、漏洩する可能性も高くなる。ミーシャルールの判断は英断と言えた。
ただ、記憶喪失をはじめランスオブ島やユジ島での日々を経たデルソフィアが纏う雰囲気は、さらに神々しさを増すようになっており、「知人の息子のデルだ」とだけ紹介したミーシャルールの説明をそのまま鵜呑みにしている者は少なく、一団の中でも一目置かれる存在となりつつあった。
しかし、このルネルは当初から一貫して接し方が変わらない。世話の焼ける弟といった態で接してくるルネルだが、それをデルソフィアは好もしく思っていた。
船室へ入ろうとする入口のところで、中から出てくる男と鉢合わせになった。危うくぶつかりそうになったが、男の方が素早い身のこなしで、するりとデルソフィアの右側をすり抜けた。
デルソフィアが振り返ると、男は無言のまま一つ小さく頷いた。気にせずに行け--そう言っているのだと、デルソフィアは理解した。
男の名はタクーヌ・ライ。デルソフィアよりちょうど十歳上の二十七歳。ルネルとは逆で、航海中に話をした回数が最も少なかったように思う。
いや、正確には話をする機会がそれなりあったのだが、極端に無口なタクーヌとはいつも一言二言の会話に終始し、結果、話をしたという印象が薄いのだろう。
デルソフィアは知らなかったが、ミーシャルールが随行させた部下の中で、デルソフィアの素性を唯一知らされていた者が、このタクーヌだった。ちなみに、デルソフィアの素性が明かされると同時に、タクーヌにはアリアーノが神皇帝皇妃のカノンシュ・デフィーキルであることも告げられていた。神皇帝皇子及び皇妃という途轍もない高みにある者だとの認識による気後れが、元々口数の少ない男をさらに寡黙にしていた。
ルネルとタクーヌ。接し方は正反対だが、航海中、デルソフィアの印象に強く残った二人と言えた。
また、一団の他の者達の話によれば、この二人の武の力量は極めて高く、一団、さらにはミーシャルールの部下の中でも最上位に位置しているとのことだった。記憶喪失等により中断している格好の剣の稽古を再開したいと思っており、木剣を手に入れた際には、稽古の相手を務めてくれるよう願い出てみるつもりでいた。
まるでデルソフィアが下船の支度を整えたのを見計らったように、船内に連打する鐘の音が鳴り響いた。どうやら船は、チェンバの港に接岸したようだ。デルソフィアは荷を背負うと、船室を後にした。
港町チェンバの規模はランスオブ島の港より二回り以上大きく、バルマドリー皇国第二港のシンクロウ港とほぼ同程度であった。豊かな自然と共に国を発展させてきたエイブベティス王国だが、港町のチェンバには漁業を生業にしている者も多く、剽悍な面構えの男達が行き来する港は活気に溢れていた。
国の玄関口の役目を果たすチェンバには、他大陸から寄港する船も数多く、見慣れぬ一団であるデルソフィア達の姿に気を留める者も少なかった。
船の見張り番として四人を残し、一団は十一人で下船した。このうちさらに三人はチェンバにて仕入れなどを担当する。結果、エイブベティスの王国街へは八人で向かうこととなった。デルソフィアとミーシャルールをはじめ、ルネルとタクーヌも八人に含まれた。
チェンバから真北に北上した位置にある王国街へは、それ程距離があるわけではなかったが、一団はチェンバで荷馬車を二台借りた。二手に分かれて乗り込む。
「デル、どう?初めての異国は」同じ馬車の荷台で向かい合ったルネルは、右手の人差し指であちこちを次々に差した。
その右手甲には星紋が一つ浮かび上がっている。今は御者の役割を担っているタクーヌの右手甲には、星紋が二つあることも既に確認していた。ちなみに、デルソフィアは記憶を取り戻して以降、再び左手に肌と同色の手袋を嵌めていた。
「活気があって良いな。懸命に自身の仕事に従事する姿には好感が持てる。当然、世界には色々な国があり、自分のいる世界、見ている世界だけではないのだが、改めてそれを実感している」
「随分と上からの目線だねぇ。偉そうに」
「あ…」
言葉に詰まったデルソフィアの横で、ミーシャルールが堪え切れずといった態で吹き出した。
「何ですか?」ルネルの矛先はミーシャルールに向かった。
「いや、すまんすまん。何でもない」ミーシャルールは顔前で手刀を切った。
デルソフィアは薄々感づいていたが、ミーシャルールは、デルソフィアとルネルのやり取りを楽しんでいる節がある。ただ、デルソフィアがそれを不快に感じているかといえばそうでもなく、むしろ心地良い感情がじわりと滲むことが多かった。
「その通りだな。気を付けよう」
「気を付けます、でしょ」
「気を付け、ます」
横目にも、ミーシャルールが笑いを隠した真顔であることが分かった。
「王国街南門です」御者役のタクーヌが、淡々と告げた。
前方に目を向けたデルソフィアの視界に、長大な城壁が入った。皇国街と違い、エイブベティスの王国街は城壁に囲まれていた。王宮も、城壁の中にあるようだ。
城壁に設けられた王国街入口の南門に着くと、ミーシャルールが荷台から降り、タクーヌを伴って入口を守衛する衛兵のもとへ歩み寄った。二言三言交わした後、ミーシャルールが笑顔で衛兵の肩を数回叩いた。
王国街を訪問するのに、ミーシャルールがどのような理由を用意していたのかは分からないが、あっさりと話はまとまったらしい。王宮へ入宮するにあたってはもう少し厳格な調べが実施されるのであろうが、それも容易に突破するだろう。
微笑を称え、荷馬車へと戻ってくるミーシャルールに、デルソフィアは今は亡き親友の面影を重ねた。
荷台に乗り込んだミーシャルールは、「さあ、行こうか」と城壁の向こう側へと指を差し、「まずは宿屋だ」とタクーヌへ命じた。荷馬車が動き出し、衛兵が開いた南門をゆっくりと通り過ぎ、さらにもう一台の荷馬車も続く。
デルソフィア達は、エイブベティスの王国街へと入っていった。