『3』
『3』
エイブベティスの王宮において、王君一族に次ぐ地位にあるのが、左政武代と右政武代の二人だ。いずれも、政や軍事を掌握し、王君アツンドを補佐する職だが、その権力は絶大なものがあった。
現在、その地位に就いているのは、左政武代がガルヴィ・ガンマ、右政武代がノールン・ヒレイレ。ガルヴィは四十三歳、ノールンは三十七歳で、両者とも歴代の政武代と比すと若年の部類に入るが、備える能力に疑いの余地は無かった。
両者の能力に甲乙はつけ難く、好敵手として切磋琢磨するには申し分のない状況だった。そんな若くて優秀な側近を二人も抱えたアツンド率いる体制は、盤石に見えた。
だが、それは表向きそう見えるだけで、一つ裏を返せば、ガルヴィとノールンはまさに対極と言えた。その基点とも言うべきは、王太子シザサーとの向き合い方においてである。
端的に言ってしまえば、シザサーを支持するガルヴィと、不支持のノールンとなり、ガルヴィに付き従う者達が王太子支持派、ノールンの下に集う者達が王太子不支持派という構図になっていた。ちなみに、我が子のシザサーを支持しないノールンを右政武代の職に就け続ける背景には、家族と仕事、それぞれの在り様を混同しないアツンドの真面目一徹な性格が蟠踞していると言えよう。
シザサーを支持するガルヴィの言い分はこうだ。
強権を振るい家臣を付き従わせる面は皆無。頂にあるべき者が持つ指導力も、現時点では全く備わっていない。気弱で争い事を好まず、自らの怯懦を解しつつも、壮挙とは縁遠い安寧な籠から踏み出すこともしない。
それでも、森羅万象を差別することなく、優しさを振り分けられる資質は稀有なものであり、誰しもに備わっている類のものではない。王太子が纏う広く穏やかな優しさは、国や民を導いていく上では不可欠な要素と確信している。
地位が人を育てるという言葉もある。王太子の周囲がしっかりと盛り立てていけば、それがたとえ緩やかな曲線であろうとも、必ずやあるべき頂に到達できる。王太子は、希望を抱いて国の未来を託すに足る器である。
このように考えるガルヴィは、常にシザサーを次期王君として据えている。時に道標となり、時に灯となり、共に歩む道程に、不安よりも期待を膨らませていた。
一方のノールンはこう考えている。
王君として国の頂点に立つ者には、絶対的な力が必要であり、それは生まれ持った資質が大前提で、かつ、厳しく潤沢な英才教育によってのみ開花するものである。王太子には、頂に立つ者としての資質が欠如している。
また、王君となるための日々の錬磨も、温い枠内でのみ施されているだけであり、これでは王君に足る成長は到底見込めない。
一部の家臣には、王太子は他者を差別せず、須く平等に接することができると評価している者もいるようだが、莫迦者以外の何者でもない。頂に立つ者に、そのような資質は不要だ。
差別しないのなら、例えば家臣の働きぶりをどう評価するのか。何を為しても横一線の評価でしかないなら、家臣が働く動機は著しく低下する。それは王宮、ひいては王国そのものの質を低下させる。
やはり、王君及びその周囲には、絶対的な力を備え、相応の教育や厳しい競争等を経た者があるべきだ。力が足りず、その地位に相応しくない者は、たとえ血の繋がりがあろうとも排除するしかない。
こう考えるノールンの頭には、王君の後継として相応しい者として据えている姿が常にあった。その者と共にある未来は、堆く積まれた己の野望を、ひとつひとつ確実に昇華・実現させていく時間であると確信していた。
王太子シザサーを基点に、対極にあるガルヴィとノールン。これまで、表立って諍いを起こすようなことは無かったが、王太子の支持派、不支持派が共存する王宮の構図は誰の目にも周知の事実だった。
ただ、ガルヴィはもとより、ノールンの考えや行動も、国の在り様を思うが故という観点でみると、間違いだと断ずることはできない。それを、アツンドもよく理解していた。よって、ガルヴィを重用し、ノールンを蔑ろにすることはなく、アツンドという偉大なる王君の存在という重みで、王宮は均衡が保たれているとも言えた。
懸念されるのは、重みが喪われた時だ。現在は保たれている王宮の均衡が乱れることになれば、王国そのものの傾きも避けられないだろう。王宮には、盤石の陰に隠れた綻びが確かに存在していた。