『30』
『30』
再びの戦いが近いことを、調査隊の誰もが理解していた。
ただ、自身の力を減退させてしまうほどの極度な緊張感ではなく、心身ともに奮わせる適度な緊張感を、多くの隊員たちが纏っていた。そうした状態に隊員たちを導いた一つが、王太子シザサーの存在であると、フォーディンは感じていた。
シザサーが負傷したフォーディンを背負ってナハトーク樹海を歩き、前線基地にまで到達したことは、隊員たちにも既知の事実となり、隊員たちはこぞってシザサーを称賛した。皮相な称賛ではなく、心底からのそれであることは、隊員たちの顔を見れば明らかだった。
事実を明かしたのはフォーディンだったが、自身の醜態を明かすということ以上に、シザサーの壮挙を皆にも伝えたいという気持ちの発露ゆえの行動だった。
お前たちの主は間違いなく尤物だ--。自身よりも遥かに深くシザサーのことを知悉し、信頼している者たちであると分かっていても、それをさらに強固なものにしてほしいという、シザサーに対する親心のような気持ちがあった。
一方、口を噤んだ話もある。ナハトーク樹海でブラウラグアの眷属、エルユウグと邂逅したという事実だ。
シザサーに背負われ前線基地まで連れられてきた事実に続いて、エルユウグとの間に起きた
、もう一つの事実を口にしようとした時、何かに導かれるようにフォーディンの視線は、シザサーのそれと絡んだ。その目が語っていた。今は話す時ではない--と。
襲撃の事実を知り、そして、再びの戦いが迫っていることが明らかにされる中、隊員たちの心身に配慮してほしいというシザサーの思いだと、フォーディンもすぐに理解した。故に、あの事実を知るのは、現時点では三人だけだ。
シザサーに背負われたままの状態でエルユウグの姿を発見したフォーディンは、シザサーの耳許で囁くように言った。
「エルユウグがいます。ゆっくりと止まり、この場に俺を下ろしてください。それから、何とか小声でミハエを呼び止めてください」
フォーディンの指示にシザサーは問い返すことなく従った。ミハエを呼び止めることにも成功し、彼女にもエルユウグの存在が伝わった。
地に座るフォーディンを、シザサーとミハエが屈み込んで左右からそれぞれ支えた。三者の視界の中に、確かにエルユウグがいた。微動だにせず、こちらを見つめていた。
さて、どうするか--思案したのは一瞬だつた。お互いの地位などは完全に消え失せ、自身の背に括り付けてあった弓と矢の束を取るよう、再びシザサーに指示していた。
座した体勢からの射的も、もちろん経験している。彼我の距離を勘案しても、外さない自信があった。
慎重に素早く、それでいて意識をエルユウグに向けすぎないように射的の準備に入った。意識の端で捉え続けているエルユウグに動く気配は無い。放たれた矢がエルユウグに届く--そんな光景が脳裏に描かれた。
確信のもとに矢を放とうとしたその時だった。不意に、弓に番えた鏃を覆う手が現れた。仰け反りそうになるのを必死で堪えた。すぐに、手の主がシザサーであると分かった。
何故--問いかける眼差しを向けると、シザサーは微笑を浮かべて頭を左右に振った。そのまま立ち上がると、徐に歩き出した。その背をフォーディンは呆然と見つめた。
シザサーの動線は、こちらとエルユウグを繋ぐ線上だった。見つめる背が、撃つなと語っている。
フォーディンはミハエへと向き直った。
「シザサー様は何を考えているんだ。あれでは、せっかくのエルユウグに逃げられてしまう」必死に抑えた小声で言った。
危惧する思いは伝わった筈だが、ミハエは微動だにせず、こちらへ視線を向けようともしなかった。真っ直ぐな眼差しで前を見据えている。そんな姿は、「黙って見ていろ」と語っているようだった。
ミハエに倣うように、フォーディンの目も再びシザサーを追った。エルユウグまでの距離は、もう半分以下になっている。近付いてくる者の存在を、エルユウグも認めている。
「あぁ、逃げられる…」
フォーディンが思わず零した時だった。信じられないことが起きた。エルユウグもまたシザサーの方へ向かって歩き出したのだ。
樹海に慣れていない者の拙い歩みと、ここが自身の縄張りとばかりに優雅に進む獣。人と獣を隔てていた距離がゆっくりと、しかし確実に埋まっていった。そして、その距離が零になり、人と獣は重なった。
シザサーの右手がエルユウグの前頭部に触れる。エルユウグは逃げ出さない。
手は前頭部から頬、顎へと移り、顎下を撫でている。エルユウグは逃げ出さない。むしろ、気持ち良さそうに目を閉じている。
フォーディンの空いた口は塞がらなかった。といって、その口から言葉は出てこない。実際に目の当たりにしていても信じられない光景を前に、絶句した。
神獣ブラウラグアの眷属であるエルユウグは決して人に懐くことはないとされてきた。狩人としての長い経験を顧みても、そのような場面に遭遇したことは一度たりとてなかった。しかし、当たり前としてきたことが覆される光景が、目の前に出現していた。
「信じられないですか?」
空から降ってきたようなミハエの問いかけだった。答えられずにいることが、肯定の意だった。
「エルユウグは決して人には懐かない。確か、そう言われてますよね?」
今度は辛うじて頷いた。
「でも、あれがシザサー様なのです。シザサー様が纏う特別な優しさ。本人が示そうとしなくたって、純なものには伝わる。そこに人や獣の別はないわ。神獣だって眷属だって、みんな同じなのです」
そうなのか--。
ミハエの言葉がすっと心内に溶け込むと、後は無心でシザサーとエルユウグの戯れを見ていた。無心であるが故に時を忘れ、やがて、風景画のようにそれが止まった。
こちらが何か行動を起こすことはなく、ただただ見ていた。いつまでも見ていられた。
止まっていた時が動き出したように、シザサーは懐いたエルユウグを、樹海の奥へ戻るよう促がした。そして、フォーディンとミハエのもとまで来ると、「いつだってまた会えるから」と、笑った。
調査隊として、千載一遇の好機を自ら放擲したも同然の行為だったが、フォーディンの中にシザサーを咎める気持ちは一切なかった。「いつだってまた会える」という言葉を、諾うように信じられた。
フォーディンには、前線基地に二つしかない長床の一つが充てがわれていた。痛みを抑える塗り薬を塗布され、その身を横たえている。視界に入る低い天井が嫌で、フォーディンは再び目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、先刻のエルユウグの姿が現れ、続いてこれまでに見たブラウラグアとされる絵の幾つかが現れては消えた。
ブラウラグアは絶滅したとされ、エルユウグも絶滅の危機に瀕している。だが、かつては両者と人は共存共生していたのだ。人の欲が一方的に、それを奪った。今なお、奪い続けている。
エルユウグ、そしてブラウラグアも怒っているだろう。時代の流れ、時代が変わったなどと言い訳を口にする輩は一刀両断してしまいたいだろう。
そうした中、自分だけは通じ合えると思っていた。そこへの揺らぎは今でもないが、自分だけというのは驕りが過ぎたようだ。
上という表現は正しくないかもしれないが、シザサーとエルユウグの戯れを見て、上には上がいることを知った。
ブラウラグアを追い、エルユウグを狩ってきた人生。自分には、それだけしかない。それだけしかないが、だからこそ奮う気持ちがあった。
シザサーが頂に立てば、エルユウグ、ひいてはブラウラグアと人が、再び共存共生することも可能なのではないか、と。




