『26』
『26』
鬱蒼とした木々、幾重にも重なる木の葉等に遮られて、日中ならば太陽、夜間ならば月や星々を見ることはほとんど適わず、それらを頼りに自身の位置を把握することもできない。方位磁石も役に立たず、狂った様を示すようにくるくると廻るばかりだった。
故に、ナハトーク樹海を移動する際には、一定の間隔で木の枝や幹などに目印を施さなくてならない。それが命綱となるのだ。
ナハトーク樹海を何度も経験しているフォーディンも例外とはならず、毎回、丁寧に目印を残した。特に今は複数人ではなくフォーディン単独で動いており、なおさらと言えた。
ここ数日、フォーディンは日中に行われる通常の調査とは別に、夜明け前から朝食までの時間を用いて単独行動していた。単独行動といっても、ブラウラグアを追っていることに変わりはないのだが、ナハトーク樹海における単独行動という危険を冒す背景には、未だブラウラグアどころか眷属すら見つけられない事実への焦燥があった。
陽が昇れば多少の明るさは齎されるものの、夜明け前のナハトーク樹海は真っ暗闇に包まれる。それでも灯火を手にすれば、多くの獣は恐れて近寄って来ないどころか姿すら見せないだろう。畢竟、真っ暗闇の中を動くしかない。
フォーディンが夜明け前の行動を始めて数日となるが、幾らかの切創などはあっても怪我などは負っていない。暗闇での行動を可能としているところに、フォーディンを伝説の狩人たらしめる因があるとも言えよう。
この日のフォーディンも暗闇の中にいるとは思えない動きを見せた。地形の変化に気を配ると同時に、獣の気配にも注意を払う。それでいて、辺りに同化するように溶け込み、存在感を消失させる。獣の毛皮を被ることで、臭いの面でも違和感をなくしていた。
ブラウラグアが、いま目の前に現れても何らおかしくはない。そう思うフォーディンだったが、研ぎ澄まされた彼の感覚に引っ掛かるものは無かった。
簡単ではない。相手は神獣の域に達したものなのだ。それはよく分かっている。ならば何故、これ程の焦燥感が募るのか。
それも、解は明白と言える。独りで追う狩りではなく、調査隊として皆で行動しているからだ。
しかも、ブラウラグアの専門家という立場で参加している以上、隊長は王太子だが、実質、皆を先導する役割を担っている。成果が挙がらない責を負うのも、当然自分なのだという思いがある。故に募る焦燥。ただ、募らせた滲み出た焦燥感が人間としての気配となっていることには、さしものフォーディンも気付いていなかった。
この日も成果が挙がらないまま夜が明けた。真っ暗闇から薄闇へと変わっていき、辺りの様子が肉眼でも窺えた。
しんと静まり返った風景に、自身以外の生物はいない。遺憾が広がり、夜明けによって齎された安堵と入り混じった。
心内の不安定が、身体の不均衡を運んだ。結果、本来なら何でもない岩場で足を滑らせ、フォーディンは岩場の下方に落下した。
岩場の高度はさほど無く、身体を打ち付けても意識を失うことはなかったが、右足に激痛が走り、立ち上がることはできなかった。右足を摩ってみたが、痛みが治まる気配はない。しばらくはこのままで、幾らかでも痛みが引くのを待つしかない。
まもなく朝食の時間になる。自身の不在も明らかになるだろう。つい先日こちらに合流したキーオンやデル、さらにはミーシャルールやタクーヌあたりは平然としていそうだが、不在が何の騒ぎにもならないわけがない。
なんたる醜態であろうか--単独行動した挙句に怪我を負って動けなくなるとは。フォーディンの舌打ちが谺した。
痛みと今後にばかり気を取られていたフォーディンが辺りの変化に気付いたのは、それがだいぶ進行してからだった。
白の乱舞--。そう呼ばれる、ナハトーク樹海特有の濃霧が発生していた。
濃霧ではあるが、さらにそれが幾重にも重なっているように見え、それぞれが踊るように蠢いている様が、最中にいる者にも分かる。故に、白の乱舞。そう呼ばれており、巻き込まれた者は前後左右、上下すら認識できなくなる。
混乱を来たし、闇雲に動けば、転倒、滑落など事態はさらに悪化する。恐怖を抑え込み、その場を動かないことが最善なのである。もちろんフォーディンはそれらを知悉していたが、もとより今は動くことができなかった。
濃霧の最中にあり、激痛を伴って動かせない足。さしものフォーディンにも絶望感が広がっていった。歯を食いしばり、拳を握りしめて必死に抗い、ブラウラグアへ想いを馳せた。
絶滅などしていない。
この地にある。
待っている。
必ず会える。
何度も繰り返した。
「ブラウラグアよ、我を導け」心内の叫びは発声となり、やがて怒鳴り声へと変わっていった。
ブラウラグアの眷属の狩人。王国より公に認められた狩人。誇りを持っていた。没頭した。家族すら顧みなかった。家庭は崩壊した。
王国は何もしてくれなかった。当たり前だ。自業自得なのだから。
自身の仕事に誇りを持って打ち込む者は、それこそ、ごまんといる。自分だけが特別だったわけではない。伝説の狩人などと持て囃されるうちに、律していたとの自覚があっても、無意識下では自身を特別視していたのかもしれない。
特別な仕事をしているのだから、優先されて然るべき。何をしても許される。そんな思い上がり、思い違いが家族の歯車を徐々に狂わせ、顧みることも怠った結果、家族は家族ではなくなった。
そこまでして没頭した仕事も、やがて奪われた。こちらの誇りになど無関心の如く、頂の一声が全てを奪っていった。
そう思っていた。だが、違うのだ。
与える側、与えられる側。
奪う側、奪われる側。
与えられ、奪われた側は痛み、苦しみ、絶望した。その一方で、与え、奪った側も時の流れに翻弄され、苦渋の決断に身を震わせた筈だ。
シザサー・チオニール。若年の王太子が、自身の思い違いを正してくれた。
心が少し軽くなった。足の痛みも僅かだが治まってきた。それに同調するように、白の乱舞が収束していった。
開けた視界の中で、フォーディンは人影を二つ捉えた。自身を探しに来た調査隊の誰かであろうと思い、目を凝らして素性を明らかにするよう試みた。
違った。
明らかになった二人は、シザサーとミハエだった。




