『23』
『23』
大陸の最高峰、ガゼッタ山の頂からの眺望は、息を呑むほど鮮やかだった。荘厳とも言える世界を前に、寒さと疲労で萎えかけていた心と体が再び引き締まっていく。
フォーディン率いるブラウラグア調査隊は、ガゼッタ山を攻略。ひとりも欠けることなく、その頂に立った。
だが、感慨に浸る間もなく、第一班は山を下りる準備を始めた。ガゼッタ山への登頂が目的ではない。標的はあくまでブラウラグア。下山は、登ってきた道とは逆へと向かう。ガゼッタ山を越え、いよいよナハトーク樹海へと入っていくのだ。
二回目となる調査に出る前に、フォーディンは第一班を二つに分けた。一つはナハトーク樹海及びガゼッタ山で調査を行う者たちで、もう一つは食糧や物資などの補給を行う者たちとされた。
さらにフォーディンは、ナハトーク樹海に宿営場を設営する考えを示した。そこを新たな前線基地とし、ナハトーク樹海及びガゼッタ山で調査を行うとした。食糧等が尽きるたびに旧ムトタンパ聖堂に戻っていたのでは効率が悪すぎるとの判断によるものだった。
二回目の調査中に第一班がガゼッタ山を攻略できる見込みは半々といったところだったが、宿営場設営のために前回以上の荷を背負いながらも、彼らは登頂を遂げた。まだ下山が残っているが、こちらの達成見込みはかなり高かった。
今後、補給を担当する者たちは、新たにナハトーク樹海に設営される前線基地と旧ムトタンパ聖堂を行き来する。すなわち、重い荷を背にガゼッタ山の登頂と下山を繰り返すことになるのだ。調査を主導するフォーディンを除く第一班の十五人のうち、六人が補給担当に選ばれたが、いずれもガゼッタ山攻略において高い能力を示した者ばかりだった。
フォーディンの慧眼と言えたが、その一翼をタクーヌが担うこととなった。補給担当への配属を通達された際も、タクーヌの無表情は変わらなかった。
「別々になったな。あの山の行き来は辛そうだ。大丈夫か?」と問うミーシャルールにも、無言で首肯しただけだった。
正直なところ、タクーヌにとってガゼッタ山の攻略は、さほど苦ではなかった。ミーシャルールに伴い世界を見聞する中で、登山の経験はあったが、ガゼッタ山ほどの高峰への登頂は初めてだった。
通常、標高が上がれば空気が薄くなり、体内に取り込む空気量が減る。そのため、息苦しさを覚えたり頭痛を発症したりする。しかし、タクーヌは空気量が少ない状況下でも平時と変わらぬ行動ができた。無呼吸状態を継続できる時間も、常人のそれより遥かに長い。非常に稀な特異体質であり、疲れるといったことが、ほとんど無かった。
そんなタクーヌを気味悪がる者もいたが、ミーシャルールは違った。
「身体を使った稽古を、他の誰よりもたくさん、いつまでだって出来るじゃないか。良かったなぁ」
初めて会った日に、そう言われた。何気ない言葉だったのかもしれないが、とても嬉しくて、それを発したミーシャルールという人物にタクーヌは惹かれた。
ランスオブ島、ユジ島と共にポリターノ諸島を構成するマークレイ島出身のタクーヌは、早くに両親を亡くし、以降は孤児院で育った。疲れ知らずの少年--その報はポリターノ諸島全域に、知る人ぞ知る程度には広まっていた。その話を聞きつけ、ミーシャルールは会いに来たのだ。以降、ミーシャルールは足繁く孤児院に通い、タクーヌに会いに来てくれた。
惹かれている人物の訪問が嬉しくない筈はなかったが、感情表現が豊かではないタクーヌは、上手く喜べなかった。こんな態度ではミーシャルールが会いに来てくれなくなる--そんな不安を抱き、無理やり笑おうともしたが、ぎこちない笑みに頬は引き攣った。そしてある時、ミーシャルールに言われた。「随分と無理な笑顔だな」と。
嫌われたと思うと、焦燥感が募り、胸が締め付けられた。だが、そうではなかった。
「無理やり笑顔などつくる必要なんてないよ。ちゃんと嬉しがってれば、それでいい。どうしてもお前さんの笑顔が必要だって時は、俺が代わりに笑ってやるから」そう言って、ミーシャルールは破顔した。今思えば、この時に決断していたのだと思う。
数度、邂逅を重ねた後、「俺の許へ来てくれないか」というミーシャルールの申し出に対し、タクーヌは即座に首肯した。
他者に請われた。他者から必要とされた。そう感じる気持ちは新鮮で、胸がじんわりと熱くなった。
孤児院での暮らしに不満はなかった。体質を気味悪がり近寄らない者もいたが、普通に接して会話を交わす者もいた。だが、心底で繋がり合えているような存在は大人にも子供にもいなかった。ミーシャルールと出会い、人と人が繋がり合うことの意味を知り、その大切さを知った。
「この人を守る。俺にはそれだけで良い」
それを果たすためなら、楽しむことも喜ぶことも要らない。悲しむことも怒ることも許されなくていい。そう思うようになり、感情を持たぬように努めた。
俺の分は、ミーシャルールさんが喜んでくれる、楽しんでくれる、悲しんでくれる、怒ってくれる。やがて、無表情が常となった。
だが、感情を消すことはできなかった。感情はある。表に出てこないだけだ。それで良いと思っている。それを知ってくれている人がいるのだから。
ガゼッタ山の下山も順調に進んだ。ひとりの隊員も欠くことはなかった。第一班は、いよいよナハトーク樹海へと足を踏み入れた。
ブラウラグア調査隊の新第二班は、ブッパー森林山において旧第二班の隊員二人が重体となった事故の現場にいた。旧第二班の班長カリーと副班長のテレが、シザサーやキーオン、デルソフィアといった初見の者たちに、当時の状況を説明していた。
といっても、カリーやテレも事故そのものを目撃したわけではない。彼らが駆け付けた時には、立っていた上部の岩が崩れ落ち、下部の岩に叩きつけられた二人が気を失い、微動だにしなくなっていたという。さらなる崩落の恐れがあるため、事故翌日の検証以来、誰も上っていない上部の岩へキーオンが上ることになった。
百聞は一見に如かず--。まずは、その目で現場そのものを見たいのだろう。
同様に考えたデルソフィアが同行を申し出ようとした矢先、「あたしも上りたい」とルネルが一歩前へ歩み出た。
ルネルと上部の岩を交互に見たキーオンは、「まずは私が上ってみて、大丈夫そうなら呼ぼう」と言い、岩の側面に取り付くと上り始めた。
申し出を却下された格好のルネル「そんなに重いわけないじゃん」と、舌を出した。
キーオンは岩の窪みを巧みに利用して、瞬く間に上部の岩に到達。そこに立ってみせた。周囲を見回したり、屈んで岩に触れたりしている。二度三度頷くと、下方を覗くように見下ろし、手招きした。約束通りにルネルを呼んでいるようだ。
キーオンに倣い、ルネルも岩を上っていく。力強かったキーオンとは異なり、しなやかな動きだ。こうした姿は、やはり女らしく見える。
だが、これを口にしたら激怒されるな、と昨夜のルネルとの会話を思い出しながらデルソフィアは微苦笑した。
昨夜もデルソフィアとルネルは、旧ムトタンパ聖堂の庭で、日課になっていた剣の稽古に汗を流した。稽古が終わった後、いつもであれば即座に聖堂内へ戻り、汗を洗い流すルネルが珍しく、庭に居残った。デルソフィア同様、大の字で寝そべったのだ。何があったのかは分からなかったが、何かあったのは確かなようだった。
それでもデルソフィアは敢えて何も口にせず、星空を見上げた。ルネルも何も話さず、降り注ぎそうな満天の星の下、静寂が続いた。どれくらいの時が経っただろう。
「ぷっ」とルネルが吹き出した。
「何だ?どうした?」デルソフィアは上半身を起こしてルネルの方を見やった。
ルネルは寝そべったまま、「何も言わない、何も聞かないんだな」と言った。
「何か言った方が良かったのか?」
「いや、あんたはそれでいい」
「ん?どういう意味だ?」
「何だろ…そう、隣にいるのが女だからとか、女相手にはこうしなくちゃとか、そんな当たり前が当たり前じゃない奴。デルには、そうであってほしいな」
「うーん……褒められているのか、それは?」
「もちろん」
「なら、良いが」デルソフィアは微苦笑を浮かべ、寝そべった。再び静寂に包まれたが、今度の静寂はすぐに破られた。
「今日ね、母親の誕生日だったんだ…」
そう切り出したルネルは、出会ってから初めて自身のことをデルソフィアへと語り始めた。
ミーシャルールに付き従う者のほとんどがポリターノ諸島を構成する三島のいずれかの出身だったが、ルネルはそれに当てはまらなかった。バルマドリー皇国及び大陸を中心に見た場合、遥か南方に位置するウォルバレスタ王国が、ルネルの出身地だった。
ウォルバレスタ王国街でも名家に数えられるアーバイン家の第四子として誕生。兄二人、姉一人がいるアーバイン家の末子として育った。アーバイン家は代々、衣服の精製を生業としていたが、数代前の頃から王君一族や王宮幹部らが着る衣服を手掛けるようになり、王国街における富と名声を手にしていった。
裕福な家庭に生まれ、不自由なく育ったルネルだったが、歳を重ねるうちに、両親の期待や思惑通りに成長する兄姉たちとは一線を画すようになる。まず、女の子らしい遊びや稽古事が悉く嫌いになった。退屈、と置き換えてもいい。
室内に留まるより、天馬のように外を駆け回ることを好んだ。
可愛らしさに磨きをかけるより、より速く走れる肉体を欲した。
優雅な音楽に癒しを求めるより、鳥の囀りや虫の鳴き声に耳を澄ませた。
「女だから」「女の子らしい」といった言葉を強く厭悪するようになった。ルネルのそうした性質は、すぐに親兄姉も知るところとなったが、娘の面妖な側面を諦観できる器量が、ルネルの両親には無かった。奇特な娘を矯正させるべく、他の三子よりも厳しく躾けた。だが、そこで従順に恭順するような子ではなかった。
反発した。ただ、その反発が両親の思惑からは逸脱していようとも、本質的には正鵠を射ていることも多く、やがて両親は、「あの子には何を言っても無駄」「何かを望むのは無為」といった態度に終始するようになる。
意見や考えが隔たっていても、それらをぶつけ合いながらわかり合っていきたい--そう思うようになっていた少女は、家族の中にあっても孤立を深めた。寂しさは当然あったが、ルネルは常に凛とした佇まいで己の信念を曲げず、当時最も楽しみを見出していた剣の稽古へと没頭した。
そしてそれは、ルネルがまもなく十七歳になる時だった。
王国街のはずれの高台で剣の稽古をしていたルネルの前に、二人の男が現れた。ミーシャルールとタクーヌだった。
「なかなか良い剣筋だね」と話しかけてきたのがミーシャルール。
突然だったために警戒感が露わになったが、人の良さそうな笑顔にそれは瞬く間に緩み、気付けば剣について語り合っていた。この時もタクーヌは一切口を開かなかったが、背負っていた長刀の桁外れの長さと彼が醸し出す雰囲気から、只者ではないことは当時のルネルにも理解できた。
ランスオブ大聖堂の十官である身分を明かし、世界を見聞しているというミーシャルールの仕事にルネルは惹かれていった。
王国街にいる間、何かにつけて行動を共にするようになって目の当たりにした、ミーシャルールに付き従う者たちが男女の別なく皆、活き活きとしている姿は少なからず衝撃的だった。特に、女が男と同等の仕事を当たり前にこなしている姿には感銘を受けた。
ここで働きたい。この人たちと共に過ごしたい。その思いが募るのに、時間はかからなかった。
ミーシャルールたちはウォルバレスタ王国の者ではない。この旅人たちは、まもなく次なる目的地へ向けて旅立ってしまう。また会えるかもしれないが、もう会えないかもしれない。
「一緒に連れていって」
何度も切り出しそうになりながら、それでも口に出来なかった。親の許諾を得ていない中では、きっと断られる。親の許諾なんか得られる筈がない。断られたら、そこで終わってしまう。せっかく出会えた繋がりなのに…。幾つもの思いが身内を巡り、日に日にルネルの焦燥感は増した。
そして、いよいよ明日出港するという話を聞いた日の深夜、ルネルは行動に出た。人目のない港の端から海に入ると、木板に荷を乗せ、それを押すように泳いだ。音を立てぬよう細心の注意を払った。ウォルバレスタの暖かい海水も奏功し、ゆっくりと時間をかけて泳いでも身体への影響はほとんど無かった。
やがて目的の船が見えてきた。ミーシャルールたちの船だ。
船の間近まで来ると、自らも木板に乗り、剣と荷を背負うと船に取り付いた。二本の短剣を交互に刺しながら、船側を上っていった。腕がすぐに悲鳴をあげたが、共に行きたいという思いが勝った。
甲板へ辿り着くと、這いつくばった。主だった者は街の宿に泊まっているが、見張り番が数人残っている筈だ。その者たちに見つからないためだ。もし見つかれば、恐らくミーシャルールたちと同行する機会は失われる。
船上でもルネルは慎重に行動した。這いつくばった姿勢のまま船尾へと向かうと、そこから船内へと続く扉をそっと開いた。中から人の気配は無かった。
当然と言えば当然だった。そこは船室としてではなく倉庫として使われていた。船に忍び込むことを決めた時から、ここに隠れることを決めていた。何度か船上や船内を案内していてもらったことが役に立った。
それからは息を潜めて、ひたすら待った。船倉は暗く、また外部からの音もほとんど聞こえないため、大まかな時間も分からなかった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。待望の時が来た。船が動き出したのだ。
ルネルの胸は高鳴った。その喜びに満たされ、生まれ育った土地を離れるという寂寞は皆無に近かった。
もう引き返せないだろうという機をみて、ルネルは船倉から外へ出た。陽射しが眩しかった。辺りを見回すと、ウォルバレスタ王国の港が遥か遠くに見えたが、やはり寂しさは感じなかった。
一方、突然船倉から現れた闖入者に対し、船上にいた者たちは呆気に取られた態で動きを停止した。
「付いてきちゃった」
ぺろりと舌を出したルネルの姿を合図にしたように、何人かが慌てて船内へと駆け込んでいった。ミーシャルールに伝えに行ったのだろう。
さて、どう出るか。ここからはミーシャルール次第だと、ルネルも考えていた。
「おいおいおい」
言葉とは裏腹に、船内から出てきたミーシャルールの顔には笑みがあった。まるで、こうなることも想定済みといった恬然とした態度にも見えた。
一方のルネルは表情から戯けを消し、真顔になった。深々と首を垂れる。
「ここで、あなたの下で、皆さん達と一緒に働きたい……働かせてくださいっ」
思いの丈をぶつけた。それは今までほとんど経験したことのない行動だった。不思議と体が少し軽くなった。
「その様子じゃ、両親や兄弟には何も話さずに来たな」
「はいっ。もう戻るつもりはありません」
「それは駄目だ」
思いの外強い語気に、ルネルは頭を上げた。真顔のミーシャルールが真摯な眼差しで射抜いてくる。
「君の願いを聞き、しばらく預かる旨を記した手紙を、ご両親には届けよう。それから一つ約束をしてもらう。いずれまたウォルバレスタ王国を訪れた際には、必ずご両親に会いに行き、自分の言葉で説明すること。いいね?」
ルネルは無言で頷いていた。それを認めるとミーシャルールは再び笑顔に戻り、ルネルの加入を歓迎してくれた。
新たなルネルの日常が始まった。中に入ってからも、外から見ていた印象は変わらなかった。
女だから、男だから、そういった煩わしさが、ここには無い。女でも、男と変わらない役割が求められる。心地良かった。すぐに溶け込んだ。
女らしさを求められることも無かった。いつの間にか、言葉遣いや挙措動作も見合ったものへと変わっていった。
そして瞬く間に五年近くが経過した。
ウォルバレスタには一度も戻っていない。当初から家族のことを思い出すことは余り無かった。日々の仕事や剣の稽古に没頭することで、それどころではなかったのが本音だ。
それでも何故か、母親の誕生日だけは思い出し、その面影を瞼の裏に探した。そのたびに、自ら絶った繋がりを完全には断ち切れていない弱さを自覚した。同時に、それが家族の、親子の絆の強さであると認めている自身もいると理解している。
その狭間で揺れる。母の誕生日、その日だけは。
「それで良いのではないか」
ルネルの話を聞き終え、デルソフィアはそう告げた。家族や兄姉と離れ離れというルネルの現状は、自身にも似たものがある。
バルマドリー皇国にいる兄姉。ランスオブ島にて帰りを待つ母。
すぐに会えるわけではなく、言葉を交わすこともできない。だが、いつかまた必ず会えると信じている。絆は千切れたりしないと信じている。
ただ、母は別にして、兄や姉とは仮に再会できたとしても何を話せば良いのか、どんな顔をすれば良いのか、現時点で解は持ち合わせていない。罪人とされた自身の無実を、兄や姉は信じてくれているのだろうか。
思いがそこへ向かえば、デルソフィアの心内も波立つ。それを拭い去ることはできないし、拭い去ってはいけないとも思う。
怯懦する枷ではなく、勇奮する礎へ--。そう思っている。
だから、ルネルにもそうであってほしいし、揺れ動いたって構わないと伝えたかった。
「ありがとう」
たったその一言が、思いの到達を教えてくれた。




