『18』
『18』
何故--。
父からブラウラグア調査隊の隊長に任命されて以降、何度この言葉を口にしそうになったことか。それは今も消えることなく、心内に燻り続けている。
投げ出せるものなら全てを放り投げ、リュクゼルの森で動植物たちと出会い、語らって過ごしたい。それが今は叶わぬと分かっているからこそ、先日も訪れたばかりだというのに、リュクゼルの森で過ごした日々がやけに懐かしい。
自身をこんな境遇に追い込んだ張本人とも言える神獣ブラウラグア。だが、ブラウラグアそのものに対する瞋恚は不思議な程に湧いてこない。むしろ、「逢いたい」「今なお棲息していることを証明したい」といった思いが連綿と湧き、その度合いを強くしている。
まだ生きているのに、その存在が否定され、過去のものとされるのは可哀想--調査隊の隊員たちを前に口を衝いた気持ちに嘘は無かった。神獣と称されるブラウラグアであっても、路傍の名も無き草花であっても、命あるものに違いはない。命あるもの、須く尊し--と思い、人だけが特別なのではないと、常に肝に銘じてきた。
人の手による乱獲で、その存在が消されたとされるブラウラグアに対し、人の力でそれをきちんと証明することが贖罪とも言える。それは、そう思う。
一方で、まだ絶滅していない、僅かながらも存在を繋いでいるのならば、発見して保護し、その後に自然へ回帰させ、以降は見守っていく--。そんな共生が実現でき、個体数が再び増えていけば、自然のここそこにブラウラグアがふと現れるような、かつての状況だって取り戻せるかもしれない。
そんな光景への夢想が、何故、何故、何故ばかりを繰り返していた心中に差し込むようになると、重たかった身体をも少しずつ軽くしてくれていた。
自身の提案が全て通ったことに、フォーディンは驚いていた。
王宮の幹部、それも王太子が関わっている事柄であれば、何もかもが決定済で、王太子や幹部の意向に忖度した的外れな命令が、頭ごなしに繰り返されるといった状況を少なからず想定していた。それでも、実際に調査が始まり自然の中へ入ってしまえば、そんな意向など無かったもののように振る舞える、と思っていた。
だが、どうやらこの調査隊隊長を務める王太子シザサーと幹部のキーオンは少し違うらしい。
何かを決める時、自身より知識や経験が豊富な者がいれば、その話に耳を傾けて参考にし、進むべき方向を見定める。そんな当たり前のことができている。
とはいっても、どうやらシザサーはかなり優柔不断で、周りの意見に左右されやすいようだ。周りの最たるがキーオンになるわけだが、この男が王宮幹部でありながら、人として当たり前のことを備え、シザサーを導いているのだろう。
煩わしさが一つ消えたことは重畳であり、キーオンを上手く扱えば、数がいること以外、あまり期待していない調査隊のほとんどの面々が、それなりの役割を果たし、本当に烏合の衆ではなくなるかもしれない。他者への期待は小さかったため、班分けには関与しなかったが、発表された班分けを聞き、想定してたとはいえ、自身の属する第一班にキーオンもいたことには安堵する気持ちがあった。
そしてあのランスオブ大聖堂から来たという四人も第一班に名を連ねた。特に気になるのは、デルという少年だ。
ブラウラグアの棲息を誰よりも信じている、と指摘された。どきりとした。二十歳にも満たない者に心を見抜かれたという思いが、小さくない焦燥を運んできた。
自惚れではなく、行動を共にすることで、彼から注視されることは恐らく避けられない。いいだろう。存分に見るがいい。だが、覚えておけ。俺もお前を見ている。どれ程の者なのか、見定めてやる。
ブラウラグアだけに全てが占められていたフォーディンの心の一隅に、デルソフィアの存在が確かに刻まれていた。
調査地域や班分けも決まり、いよいよ実際の調査が始まる前夜、前線基地となった旧ムトタンパ聖堂の庭にデルソフィアは大の字で寝そべっていた。つい先刻までルネルと剣の稽古に汗を流していたが、稽古を終えるとルネルは聖堂内に戻っていき、今、月明かりの下にあるのはデルソフィア一人だった。
改めて誰もいないことを確認すると、デルソフィアは左手に嵌めた肌色の手袋を外した。甲には二つの星紋が浮かび上がっている。
皇国を出て以降、右手甲に星紋を浮かび上がらせている者に何人か会った。直近では、キーオンやフォーディンがそうだ。ミーシャルールやタクーヌ、ルネルにも星紋がある。
だが、その発生機序を語る者はいなかった。あの天才オッゾントールでさえ知らなかったのだから、当然といえば当然だとも言える。
それでも、星紋の数はその者の功績や能力に因るもの、という最も通俗的な説を思えば、果たして自身が二つの星紋に値する者なのかという疑念を禁じ得ない。現に、剣の稽古にて自身を凌駕するルネルの星紋は一つである。
左手甲にあるが故に要らぬ詮索を受けぬよう、デルソフィアは星紋を隠して過ごしている。そのために、星紋に見合っていないなどと揶揄されることはない。だが、星紋を出現させている者の多くはそれを隠すことなく、出現者として向けられる視線を堂々と受け止めている。それを鑑みれば、自身は他の出現者よりもさらに凛乎とした振る舞いに努めなくてはならない。
デルソフィアはそう言い聞かせ、視界に蟠踞する月へ、届かぬと分かっていながらも左腕を伸ばした。
すると、伸ばした左手に触れる微かな感触が走った。錯覚であったかもしれない。そう思う程度の感触。それでも信じた。
それが何であるか、信ずるものがある。初代神皇帝ヌクレシア・デフィーキルの魂。
突如現れ、壮大な役目を告げ遺し、再び消えていった。その役目を果たそうという覚悟はもう備えていると自負している。だがそれはあまりにも巨きく、常に受け止め続けていると、自身の歩みもふらふらと覚束なくなる。だから、普段は心の別の奥底に仕舞い、必要な時に逢いに行くのだ。
先刻の微かな感触。二つの星紋出現に絡んで怯懦を抱いた自身に、秘めた想いに逢いに行けと促すように、ヌクレシアの魂がそっと左手の先に現れたのだろう。
空間を揺蕩いながら、今もまた見守ってくれていることを示すように。




