本日業務に異常無し
流行りの婚約破棄・ざまぁものに挑戦してみましたが…。
乙女的なかわいらしさなんて微塵もなくなってしまったような気がします。
季節は寒い時期へと突入した。
これからは業務も何かとつらいものが多くなるだろう。だが、泣き言は言えない。
「交代の時間だ。引継ぎ要員は申し送りを始めてくれ」
その声と同時に、今日一緒に仕事する面々が立ち上がる。もちろん俺もその一員だ。
「夜が長くなったな。まだ夜明け前じゃねぇか」
「だな。これからもっと日差しが薄くなるかと思うと、うんざりするぜ」
「ここは底冷えするからなぁ」
三々五々勝手なことを言いながら、目的の部屋を目指す。
ここは終日誰かがが詰めていなければならない施設なので、1日に2回交代が行われる。その度に引き継ぎと報告が行われるのだが、就業前後の職員は思いっ切りだらけているのが常だ。
仕事が始まれば緊張しっぱなしなので、オンオフを上手くできなければ精神的に持たない。新人は、まずそこから洗礼を受ける。
だから、この仕事は就いてすぐ辞めるか、長期的に勤め上げるかの落差が激しい。
俺はもう5年続けているが、辞めないと言うより辞め時を見誤ったと言うべきだ。が、他の仕事を探そうとは思わない。
なにしろ実入りがいいからな。
「作業結果は報告書の通り。尚、使用された部屋は専門業者がこの後清掃予定ですので、緊急の案件が入った場合、状況を確認の上、適宜使用場所を検討願います」
「必要書類と什器の点検は完了。空いた物件については、書類を確認するように」
「申し送りは以上、本日業務に異常無し」
毎日ほぼ変わらない引継ぎ作業と報告会。
やれやれ、今日も相変わらずの1日が始まるのか。
と、そこで、外につながる大扉が、ギィと重い音を立てて、ゆっくりと開いた。
この扉はその性格上、簡単には開かないようわざと重くしてあるのだ。
「おい、突然ですまんが、新規入店だ」
ざわりと空気が騒いだ。
この時間に、と言うことは、まず間違いなく面倒な奴だ。
「指定ありだ。とりあえずは上に入れるが、下の準備もしておけとのことだ」
「…上から、下へ移送の可能性があると」
「ああ。だがくれぐれも秘密裏にとのことだからな。移送するにしても、それなりの処置が必要になるだろう」
処置…つまりは準備が必要ということか。
それでなくても寒いのに、更に冷凍保存してあるブツを取りに行かなきゃならんとは、ツイていない。
だがまぁこれも仕事だ。
「了解しました。で、新規はいつ頃到着ですか?」
「もう着いている。処置のおかげで静かだが、ここに入れるとなればそれも1度は外さにゃならん。…覚悟しておけよ、相当キテるぞ、アレは」
「ひょっとして、新規ってのは」
「ああ、ありゃどう見ても特級クラスだな。今日の勤務の者は気の毒だが、気合を入れてやってくれ」
うへぇ。
引継ぎまで、俺の神経が持つだろうか。
実際に担当するのは専門家だろうが、そいつの前まで持っていって、業務を滞りなく遂行させるためにあれこれ力を尽くさにゃならん。
特級ともなれば…疲れそうだな。
「上の準備はできてるか?最近使ったばかりだろう」
「それは大丈夫です。前に使ってた奴は実に大人しかったですし、何よりすぐに出ていきましたからね。掃除担当が、こんな楽な仕事は初めてだったと感動してましたよ」
「よし、なら早速取り掛かるぞ。道具の準備はできてるか?」
「いつでもばっちりです」
そればっかりは、即使用可能にしとかねぇとやべぇからな。
やがて、大きな荷車が運び込まれた。乗っている大きな箱には覆いがかかっている。
黒一色の覆いは荒い目の布で、中のものを隠しているが空気は問題なく通す。
覆いに手がかかる。
その場の全員が息を呑む中、黒い布はばさりと落ちた。
真っ先に目に入ってきたのは、ピンク色。
ピンクのドレスにところどころにあしらわれているリボンは赤と白。ふわふわの金髪には、大きなリボン。色はドレスよりやや濃い目のピンク。
この色をここまで身につけれるとは、ある意味あっぱれなセンスかもしれん。
確かに顔立ちは可愛らしい。大きな瞳はくっきりと二重で、まつ毛はバサバサと音がしそうなほどだ。ぽってりとした唇も色香を感じさせる。
おそらく身支度をしたばかりの時には、ツヤツヤのピンクな口紅が塗られていたんだろう。
しかし。
いまや愛らしさや可憐さは微塵もない。
半日ほど前まで男たちを魅了してやまなかっただろう美少女は、くたびれ果て、乱れ切った有様で、檻の中に閉じ込められている。
だが、それは見た目だけのことだった、
この時点では。
「ちょっと、ここからさっさと出しなさいよ、お風呂と着替えを用意してないならただじゃ置かないわよ!薔薇水と洗顔料はあるんでしょうね、ないならすぐに買ってきなさい、侍女はどこなの、なんでヘンな恰好した男ばっかりなのよ冗談じゃないわ、あんたたちなんかあたしに近寄ることだって許せないんだからね!」
無音の処置を外したと同時に金切り声が轟いた。
騒ぎ立てる体力は充分に残っているらしい。
まるで爆弾だ。ちくしょう、ついてねぇにもほどがあるぜ。
「風呂と着替えはともかく、薔薇水なんてものはここには無い。侍女もいない。週に1度世話係の女が来るが、あんた専門じゃない。ここに収監されている女たち全般の面倒を見る」
この特級を連れてきた奴が、淡々と告げた。
「今のあんたはただの囚人だ。これからこの収容所で調査と尋問が行われる。どれだけわめいても、あんたの命令を聞く奴はここにはいない」
「なんですって、あたしを誰だと思ってるの!この国の王妃になる女なのよ。そのあたしに尋問ですって?収容所ですって?冗談じゃないわ、そっちこそ死刑にしてやる!」
とんでもないことを言い出した。
これは確かに特級だ。1番手のかかるタイプだ。
俺は無事に引継ぎが出来るのか?こんな暴れ馬みたいな女を押さえつけて連行しなきゃならないんだぞ…。
ひっかき傷くらいは覚悟しておかなきゃならんだろうなぁ、鉄格子を握り締める女の爪は恐ろしく長い。消毒薬の追加を申請しておいた方がいいだろう。
同じことを思ったに違いない同僚たちと目で会話しながら、あの女に誰が手枷をはめるのかを探り合った。
案の定暴れまくる女を寄ってたかって押さえつけ、上階にある貴族用牢屋に収監したが、その間も牢に入ってからも叫びっぱなしだった。
あの体力は称賛に値するな。
その後、尋問担当官が到着するまでしばらくかかった。通常ならその日の内には来るのに、翌日まで誰も来なかったのだ。
その時点で、これは普通の事件じゃないと確信が持てた。
あの女がわめいていた、王妃だの王太子妃だのはただの出鱈目や妄想じゃないかもしれん。
もちろんあの女がその地位に就くなんてことは絶対にありえないが、収容所にぶち込まれた理由に、王族が関係しているという可能性は高い。
そこで思い出されたのは、少し前に釈放された高位貴族の令嬢。
まだ残暑が厳しい頃ではあったが、彼女がここを出てから季節が一気に進んで、あっという間に寒くなった。
ピンク女の前に貴族用牢屋に収監されていたのが彼女だ。全く荒れることなく、とても罪人とは思えない態度と立ち居振る舞いだった。
わめくことも泣くこともせず、淡々と尋問に答えて、無駄な会話もほとんどしなかった。
アレとコレではまるっきり違うが、どっちも王家絡みだと俺の勘が告げてるんだよなぁ。
あのご令嬢がここにいたのは数日だったが、その間ひっきりなしに面会者が訪れていた。
その中に、このピンク女もいた。
当然そん時にはこんなぴらぴらした格好じゃなく、頭からすっぽりマントを被って顔を隠してたが、俺たちの目は誤魔化せねぇ。アレは確かにこの女だった。
ここに送られた連中は、基本面会者と会うのに規制はない。
しかし。
「触るなって言ってるでしょう!ちょっと、髪、髪をつかまないでよ、セットが乱れるじゃないの、痛いったら!」
とっくにぐしゃぐしゃになっていた髪を振り乱して、押さえつけている看守を振りほどこうと暴れる女。
なにをやらかしたんだ?
「婚約破棄だよ、要するに」
事情を聞かされたのは、ピンク女が収監されて3日目の終業後。引継ぎが終わって、休憩室で一息ついている時だ。
その頃には尋問も大分進んで―いなかった。
とにかくあの女は扱いにくく、まともな話し合いをしようとするだけ疲れる。専門家―審問官もほとほと呆れていた。
ま、そうだろうな。
伊達に今まで何人もの収監者を見てきたわけじゃねぇ、アレは面倒な例だ。
「こんやく、はき?ってなんだ」
こんやく―ってのが結婚の約束なんだということは、まぁわかる。庶民の間でもあるからな。
だが、破棄ってのがよくわからん。
「ああ、庶民の間ではあまりないか。つまりは結婚を約束したが、その約束を破って棄てますってことだ」
なんだそりゃ。
「結婚の約束をなしにするってことか、とんでもねぇな。そりゃ相手が死んじまうとか、一緒に暮らすカネをなくしちまうとかの、やむを得ない理由がありゃ別だが、そうでなけりゃ訴えられても文句言えねぇぞ」
「お貴族様にそんな常識が通用するわけないだろうが。名誉だの格式だのと、俺達には訳がわからない理屈でとんでもないことをしやがるのさ。まぁ実際のところは汚い欲まみれだがな。結婚なんて、その最たるもんだ。そもそもあいつらには互いに好き合って結ばれるって原則がないんだぞ」
おいおい、そりゃつまり貴族にまともな家庭は期待できないってことじゃねぇのか。
「あの女は、おう…あー、随分いいところの若様を誑し込んで結婚しようとしたんだが、その若様には、文句の付けようがねぇ婚約者ってのがいてな、そいつが邪魔だってんで追い落とそうとしたんだ」
そりゃまたとんでもねぇな。
「かなりひでぇことをしたらしいが、自分がやったとバレないようにうまく立ち回って、相手を大分追い詰めた。で、首尾良く婚約を破棄させるところまでは行った。ところが最後の最後でひっくり返されて、やらかしたことが全部バレて取っ捕まった。と言うわけだ」
「なにがあったんだ、おい」
「詳しくは知らん。が、そのせいで、おう…その、誑し込もうとした若様と…友達どもの家とが、今大騒ぎだそうだ」
おう…って王子だよな、多分。で、友達って、側近てことか。
王子と側近、そいつらの家って…王家と高位貴族。それがあのトンデモ小娘に引っ掻き回されてエライことに、だと。
おい、この国大丈夫か?
いやちょっと待て。婚約者を追い落とそうとした、とか言わなかったか?エグイ手を使って。
王子の婚約者って言やぁ、確か…。
まさか、だよな。
「ジンクスがあるんだよ」
どうしてそんなことを教えてやったのか。他の収監者相手に無駄話なんぞしたことがないのに。
なのに、口は止まらなかった。
「ここは有罪の奴が入れられる監獄じゃねぇ、捕まりはしたが、まだ罪が確定していない未決囚を取り調べるための施設だ。だから面会も割と楽だと言われてる」
この女に会いたいとやって来た連中は、5人以上はいた。
身分照会だの面会記録だのはもちろんあるが、かなりなぁなぁだ。
とは言え、必ず仕切りか格子越しで直接触れ合えるわけじゃない。この場合、それで助かった。
でなけりゃ、暴力沙汰が必ずあっただろう。
「1人の未決囚に大勢の面会者があるとな、会いに来る奴らの中にすぐに死ぬ奴が混じってるんだ」
それを聞いた女は、初めて視線を俺に向けた。
「どんないきさつがあったか知らねぇが、あの中にあんたを嵌めた奴がいるんなら、せめてそいつに降りかかることを祈ってな」
「なぜ、でしょうか?」
それは初めて女が俺に向けた言葉だった。
「なぜ、わざわざここに足を運んでまで、わたくしを見ようとするのでしょう。嫌っているはずなのに」
訂正。俺ではなく、毎日のように来ていた連中に向けた疑問だったようだ。
だがそれに答えることができるのは、俺だけだ。多分。
「罪が確定して本格的な監獄行きとなりゃあ、簡単に会えなくなる。手続きだのの問題じゃねぇ、場所が悪いんだ」
国の中にいくつかある刑務所施設は、王都からは遥か遠く、過酷な自然状況の中にある。
「どんな理由があるのか知らんが、“コイツは確かに牢の中にいる”ってことを確かめるために面会を希望する奴ってのがいるんだ」
そういう輩は、遠く過ごしにくい土地の監獄までは行こうとしない。
「だからここにいるうちに繰り返し会いに来る。格子越しの姿を見るためにな」
うらびれていく様を見て溜飲を下げたいという、昏い目的もあるだろう。
もっともソレは全く果たされなかったが。
「なんか知らんが、あいつらは随分あんたをへこませたいみたいだな」
面会中、監視は必ず付く。俺は何度も立ち会って、連中のこの女に対する感情を大体察していた。
「あんたは多分もうすぐここから出るだろう。その後どこへ行くかは知らんが、もし無罪放免ってことになれば、あいつらとまた関わらなきゃならんのじゃねぇか」
「…」
女を見に来た奴らは、どいつもこいつも彼女を口汚く罵っていた。
それがどんな思いの裏返しなのか、指摘したら激怒するだろうな。
部外者の俺がまともに聞くわけにもいかないので、右から左に聞き流していたが、馬鹿丸出しとはあの事だ。
その頃俺は、この女が冤罪をかけられたんだってことをほぼ確信していた。いっそ有罪になれば、あの連中との縁もすっぱり切れるだろうに。
「ジンクスって奴は偶然による迷信と理由ありの2通りだ。この場合は後者だな」
「それは…あの中の誰かが命を落とすと言うことですか」
「ああ、まず間違いないだろうよ。いいか、奴らはあんたに対して後ろめたさが消えねぇんだ。どんな言い訳をしてもな」
あいつらはこの女に対して理不尽な行為をしたんだろう。だが、それを悪事と認めるわけにはいかない。だもんだから、牢屋の中で公に罪人扱いされているこいつを見て、自分は悪くないこの女は悪人なのだ、とほっとしている。必要以上に罵るのも、罪悪感からだ。
絶対に認めないだろうがな。
もっとも、その中の1人だったピンク女だけは別だが。
あれは心底からこの令嬢を見下していた。邪魔だ目障りだ、生きて自分の前に現れたこと自体が罪なのだと、嘲笑いながら何度も言い続けていた。
だったら面会になど来るなと何度言いそうになったか知れやしねぇ。
まぁまさか次は自分が同じ牢の中に入ることになるとは思わなかっただろうが。
「どうせロクでもないことをしておきながら、正義のためだのなんだのと都合のいいことを言い訳してるんだ。そういう奴らは大体詰めが甘い。どっかで足を掬われてあっさり死ぬ」
「…」
「ま、全員じゃないだろう。ただし、生き残った奴らにまともな人生が残っているかはわからんがな」
女が―ご令嬢が出て行ったのは、その翌日だった。
勤務時間内だったので、外ならぬこの俺が彼女を門まで送った。
早朝だったが、もう日が昇っている季節だった。今日も暑くなるだろうと、日差しを受けながら感じた覚えがある。
大きく分厚い門を開くと、随分と豪華な馬車が留まっていた。これ見よがしな家紋などは無いが、漆黒の車体はツヤツヤに磨かれていて、御者席に座っている男の背はピンと伸びている。
そして、扉の前に立つ1人の男。
「あ…」
後ろでご令嬢が息を吞む。
初めて見る顔。面会者の中にはいなかった。
「迎えに来ましたよ。大変な目にあいましたね」
男は柔らかく声を掛けて、こちらへ近づいてきた。
「もう大丈夫、全て解決しましたよ。お父上からも貴女を迎える許可をもぎと…いただいています」
柔らかな微笑みを浮かべちゃいるが、こいつはかなり危険だぞ。
何人もの罪人や犯罪がらみの連中を見てきたから分かる。この男はただの優男じゃねぇ。
「王子や側近たちのことも心配ありません。もう貴女を煩わせることは無いでしょう」
言っちまったよ、おい。―いや、俺はなんにも聞いちゃいない、聞いちゃいないんだからな。
視線を明後日の方へ向けて小さく頷けば、男は俺の意を汲んでくれたようだ。一瞬、いい笑顔を俺に向けてくれた。
「あの…彼女は」
「ああ、それももう手を打ってあります」
さぁ、と馬車の扉を開けて手を伸ばす。その仕草は実に様になっていた。
ご令嬢はしばらく逡巡していたが、やがておずおずとその手を取り、男と共に馬車へと乗り込んだ。
俺はそれを見届け、後ろ足で一歩下がって門の中へと戻った。
馬車の扉を、施設の門を、互いに閉める一瞬前、俺と男の視線が交わり…途絶えた。
ああ、一仕事が終わったな。
その時はそう思ったんだ。
だからまさか、その流れで特級がやって来るなんて思いもしなかった。
いや、少しは予感があったかもしれん。
「どうしてこんなのしか出てこないのよ。このわたしに残飯を食べろって言うの?冗談じゃないわよ作り直して、ちゃんとした食器とカトラリーをセットしてよ!」
本当にこの女は大したもんだ。
まだ怒鳴り散らす元気があるんだからな。
「王太子殿下にまだ連絡つかないの?お父様は来たんでしょう、どうして会わせてくんないのよ」
この女の父親―の代理だと言う奴は来た。
ただし、必要事項を俺たちに伝えた後はそそくさと帰って行き、女との面会は拒否していた。
そいつも含め、この女に面会者は誰もいない。
「ワインもついてないなんて信じらんない。これ以上わたしをバカにするんなら、ただじゃ置かないんだからね」
ああ、まったく。
床にぶちまけられた食事を見て、俺たちはげんなりした。
この女がこの部屋からいつ出ていくのか知らないが、後片付けは大変なことになりそうだな。たとえゴミを始末しても、床の隙間なんかに汚れは溜まるんだ。
ここは常に清潔にしておかなきゃならんって言うのに。
なにしろ一応貴族用だからな、絨毯も家具もそれなりの物を入れて、どこぞのお屋敷の一室と言えるくらいにはしつらえられている。
が、この手のわかってない輩が閉じ込められると、大体当たり散らされて滅茶苦茶にされるんだ。
ああ、ただ黙って座ってたあのご令嬢は楽だった。
出された食事にも、世話係にも、なんの文句も言わなかったしな。
「おい」
上司がやって来て、俺たちに声を掛ける。
「指示が出たぞ。下へ下ろせとさ」
俺たちは顔を見合わせた。
「…とうとうか」
「準備は?」
腕を振り回して準備運動を始めながら、女に視線を向ける。
「ああ、もう放り込むだけになっている。誰か冷凍庫の中にあるクスリを受け取りに行ってくれ」
素直に言うことをきいてくれなさそうな囚人に使う特殊な麻酔薬は、冷凍保存されている。
「この寒いのに、冷凍庫とはね。だがまぁしょうがねぇ、行ってくるぜ」
さて、貴族用から一般用の牢に移されたとなりゃ、扱いはとんでもなく苛酷になるだろう。
更に叫んで暴れるだろうが、もう容赦なく押さえつけられるし、手枷も口枷もこっちの判断で使用できる。
食事も大鍋のごった煮で済ませられるから、大分楽だ。
「什器の使用も許可された。明日からはもうちょっと尋問も進むだろう」
什器ね。
拷問道具は洗浄が大変だから、出来ればあんまり使ってほしくねぇが、アレじゃあなぁ。
「あの女がここにいるのもあとわずかだろう。みんな、気合を入れて頼む」
「了解しました」
数日後。
「王太子が病死したらしいぞ」
「宰相の息子が領地で事故死だとさ」
「将軍が辞職して、息子共々魔物討伐隊に志願したそうだ」
「侍従長の孫息子たちが外国に長期留学って、帰還時期は不明らしい」
「侯爵家の跡取りが、辺境のババ…年配令嬢へ婿入りするそうだ」
「伯爵家と子爵家の娘たちが修道院に行くって話だ」
うんぬんかんぬん。
王族も貴族も、なにやらひっくり返る騒ぎが起こってた。
そんな中で。
「新しい王太子は、まだ新婚だってよ」
と言う明るい話題も聞こえてきた。
「ジンクスってのは怖いな…」
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない」
あのピンク女はもういない。
下に降りてから程なくして、この施設から出て行った。
ここへ来た時と同様、黒い布に覆われ、静かに門を潜っていった。だから、どんな有様だったかなんて知る由もない。
「じゃあ引継ぎを始めるぞ」
「了解」
ぞろぞろと整列する職員たち。
「―申し送りは以上」
誰が死のうと生きようと。
「本日業務に異常無し」
―END―
お読みくださり、ありがとうございました。