機械仕掛けの心臓は少年の愛に揺れ動く
かつて赤子であった男が成長していく様子を、彼女はずっと見守ってきた。
やんちゃで元気な幼少期、友達とよく喧嘩をしては周りを困らせた少年期、そして一世一代の大恋愛をして無事に綺麗なお嫁さんをもらって、子供にも恵まれた青年期──それを、彼女はずっとそばで眺めてきたのだ。
彼だけではない。彼の父のことも、祖父のことも、彼女はおんなじように見守ってきた。たとえ百年経とうとも、彼女はまったく変わらないから。
けれど、彼女以外の人間はすぐに変化する。人間だけではなく、この世界そのものが移ろいやすい。彼女から見れば、すべてが儚く脆いものだ。
「行くんだルツ。あの子を連れて、どこか遠くで幸せに生きろ」
床についていた男が、扉の向こうからこちらの様子を窺っている自分の一人息子をルツに託してきた。村を壊滅させた流行病の最後の罹患者が彼であり、他はみんな死に絶えた。もうこの村には誰もいない。十日足らずの出来事だった。
山間部にある小さな村。若者の多くは他の村や大きな町に移り住み、高齢者が多かったこの村で流行病が起きてしまったのが、すべての始まりであり、終わりでもあった。
一人、また一人と倒れていき、決して感染しないルツが看病して回っていたけれど、体力のない者から次々と命を落としていった。そして、自分は若いから大丈夫だと村人たちを看病して回っていた男も最後に倒れ、その命もじきに尽きる。
「頼む。お前にしかあの子を託せない。この場を生き残れるとしたらお前しかいないんだ」
確かにルツは流行病などでは死なない。たとえ最後までここに留まっていようと、ルツだけは死なないだろう。
けれど病が蔓延したこの村から出ない限り、感染を免れた彼の息子は確実に死ぬ。この幼子がまだ生きているのは、村人たちが早期にこの子だけは隔離して守るようルツに頼んだからだった。この子を助けるためには、ルツがこの子を抱えて村を出るしか道はない。
「村から出たあとの道は分かるな? アルスを連れてここを出たら、川でもどこでもいいからすぐに全身を洗え。他に感染者を出さないよう気をつけろ」
男はそう言いながら、いつの間に用意したのか大きな背嚢をルツに背負わせた。見た目に反して随分と重いが、この程度では小揺るぎもしないルツである。男もそれを知っているため、妻と二人であれもこれもと荷物を詰めすぎてしまった。
「俺とベガからの餞別だ。お前とアルス、二人分の荷物と路銀が入っている。近くの町まで辿り着いたら、荷物は全部新調しろ。ここから持ち出したものは全部燃やせ」
ルツは頷いた。どうやらこの村を出て生きていけるのかと心配されているようだが、もともとルツは根無し草で、旅から旅の生活には慣れている。まあ、ここ百年ほどはこの村で過ごしてきたわけだから、以前の感覚を取り戻すのにちょっと時間がかかるかもしれないが。
そんなことを考えていたら、目の前で男が大きく咳き込んだ。わずかに血が混じる。ルツはすっかり痩せてしまったその背中をさすった。祖父の時代から変わることのない彼女の優しい手に、彼は自分の骨ばった手を添える。
「ルツ……ルツィオーネ。アルスのことを頼んだ。どうか二人で生き延びてくれ」
これが本当に最後の別れとなるだろう。ルツはもう一度頷いてみせると、隣室からそっとこちらの様子を窺っていた彼の息子を抱き上げた。今さらではあるが、こんな状況になっても泣きもしない、物静かで大人しい子供である。相変わらずちょっと変わった子だ。
寝室を出る間際、最後にルツは振り返って男を見つめた。床についたまま二人の背中を見送っていた彼が不思議そうな顔をする。
「ルツ?」
「……あなたは立派によく生きたわ。最後までこの村に留まり、みんなを助け、息子を病から守り、この災禍をこの村で終わらせようとしている。私は今までたくさんの人と出会ってきたけれど、あなたのことは特別誇りに思っているわ」
男は豆鉄砲でも食らったかのような顔をした。かと思えば、泣きそうな顔で笑った。
「そうか。……そうか」
お前にそう言われるのが一番嬉しいと、男は少年時代を思い出させるような顔で笑った。そしてそれが、二人の永遠の別れとなった。
静かに扉を閉めて足早に出ていくルツの靴音を聞きながら、男はなんとか寝返りを打った。扉ではなく、窓の外へと視線を向ける。抜けるような蒼天がそこに広がっていた。
「…………」
瞑目する。これで良かったのだと、心底思う。
ふと、先に病に倒れた妻のことを思い出した。日に日にやせ細り、起き上がることもできなくなった妻だが、その瞳に宿した強い光が消えることは最後の最後までなかった。
そんな彼女が最後まで心配していたのは、一人息子のアルスのことと、唯一無二の親友であったルツのこと。でも妻とは違い、男はそこまで二人のことを心配してはいなかった。手のかからない息子と、人生経験豊富なルツ。二人はきっと大丈夫だ。思い残すことも未練もない。
「……ああ、でも、ひとつだけ」
アルスを抱えて村から出ていった少女を思う。自分が生まれた時からどころか、祖父の時代から一切変わることのない彼女のことを。
ルツィオーネ。通称ルツ。かつて人間離れした才能を持つ錬金術師が死ぬ間際に生み出した、最高傑作の『生きた人形』である少女。
その血も骨も肉体も、すべて人間と同じように作られている彼女だが、唯一心臓だけは機械仕掛けになっているため、決して人間にはなりきれない哀れなルツ。
あくまで人形だからこそ、彼女は簡単には死なないし、年も取らない。機械仕掛けの心臓部分を破壊されれば『死ぬ』らしいが、急所だからこそ生みの親である錬金術師によって、現存するどんな武器の攻撃も効かないよう設計されているらしい。
ゆえに文字通り不老不死な彼女だが、心臓部には防御だけではなく、彼女を本当に人間にする術式も一緒に刻み込まれているという。その術式の発動方法は不明だが、それはかの錬金術師が肝心なその部分を誰にも伝えることもなく墓場まで持って行ってしまったからだった。
「祖父の代から、ずっとこの村を見守り続けてくれたルツ。できればお前を真実人間にしてやりたかったよ」
それが彼の、最後の心残り。
でも、と彼は思う。……もしかしたら息子がなにかのきっかけになるかもしれない。
生まれた時から大人しく、大して泣きも笑いもせず、誰に似たんだと首を傾げていたら、なぜかルツには妙に懐いていた息子のアルス。
両親に抱かれても真顔。他の人間に抱かれたら眉間に皺を寄せて不機嫌になり、ルツが抱くと珍しく笑い声をあげるくらい超ご機嫌になる。なんでだ! とルツに詰め寄ったら、なぜか赤子のアルスにめちゃくちゃ睨まれた。今でも解せない思い出だ。
そして三歳になった現在、アルスは大好きなルツに抱えられて二人で仲良く旅立っていった。こう考えるとものすごく生意気な気がしてきた。親より綺麗な女の子のほうがいいか。そうか。気持ちは分かるが腹が立つ。
でも、叶うならば、そんな生意気な息子を妻と一緒にこれからも育てていきたかった。もしかしたら弟や妹もできたかもしれないし、親の手に負えない子供たちをルツが追いかけ回して捕獲するなんて未来もあったかもしれない。
すべては単なる夢物語に終わるけれど。自分も妻も、この先の未来には行けないけれど。
「……どうか、幸せに」
小さく微笑んだ彼は、もう一度窓越しに蒼天を見上げて、それから目を閉じた。その目が再び開くことは、もうなくて。
それでも、彼が最期まで思い描いていた夢の一部は、これから先の未来へと、密やかに生き続けていくことになる。
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あれから十年。
ルツは永遠に変わらない。どれだけの時を経ようとも、彼女の永遠は終わらない。
「ルツ」
名前を呼ばれて振り返った。そこには成長するにつれて、ますますあの男そっくりになってきたアルスがいる。……もう少し母親の面影があってもいいのでないかと思うくらいそっくりだ。ルツはベガと仲が良かったので、なかなか複雑な心境である。
十三歳になったアルスがぎゅっと抱きついてきた。まだ心身ともに成長期が来ていないのか、同年代の中でも身長は低めで、親代わりのルツによく甘えてくる。
「どうしたの?」
「好き」
成長期が遅めと言っても、三歳から十三歳へと順調に成長しているアルス。彼も着実に成長して、変わっていく。
でも、こうしてルツへと向けられる好意と、まっすぐな言葉は、この十年で変わらない唯一のものでもあった。
「ルツが好き。大好き」
「そう。私もあなたのことが大好きよ」
まるで挨拶をするかのごとく定期的に聞いているその言葉に、ルツもいつものように同じ言葉を返す。おはようにおはようを返すのと同じ感覚で。
けれど、そのたびにアルスはどこか不貞腐れた顔をする。伝えたいことがまったく伝わっていないと言わんばかりの、もどかしそうな顔をする。
「僕の好きとあなたの好きは全然違う」
「そうかしら」
ルツはそうとは思わない。アルスを守るためならばすべてを犠牲にする覚悟だし、なんならこの心臓が壊れたって構わない。自分よりも大事なアルス。これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶ。
アルスはもう一度ルツにぎゅっと抱きついた。身長は未だにルツのほうが少し高い。
「僕はあなたに恋をしている。でもあなたは違うでしょ」
恋。……恋? ルツは首を傾げた。少しだけ考えて、それから首を横に振る。
「いいえ、アルス。あなたは私に恋なんてしていないわ」
「なんでそう言いきれるの」
「だって私は人形だもの。人形に恋してどうするの。あなたと私は家族だけれど、結婚することはできないし、子供だって作れないわ」
ルツだってアルスのことが愛おしい。家族ぐるみどころか一族ぐるみで交流があったため、彼のことは生まれた頃から知っている。それに人一倍懐いてくれているせいか、彼の父や祖父なんかよりもよほど思い入れがあって可愛がっている自覚もある。
けれどアルスはやっぱり不満げ。まるで八つ当たりだと言わんばかりに、ルツの体をぎゅうぎゅうに締めつけてくる。
「だからなに? 結婚できない相手には恋なんてしないはずって言いたいの?」
「いいえ、アルス。これは願いよ。あなたには辛い恋をして欲しくないもの」
人形に恋する哀れな少年。……ルツの長い人生の中で、そういう人間が一人もいないわけではなかった。けれど彼女がその想いを受け入れたことは、これまでに一度もなくて。
「私があなたに願うのは、いつか誰かと幸せな恋をして、いつしかそれが愛になって、家族が増えて……平凡でも穏やかでも、そうやって幸せに生きていくこと。そしてそれを、百年先まで見守っていくことが私の望み」
たとえアルスがいなくなっても、アルスの子供たちがいてくれるなら、ルツはきっと寂しくない。直接関わることはなくても、ただ彼の子孫がこの世界のどこかで元気に暮らしていると思うだけでも幸せな気分になれる。ルツにはそれで十分なのだ。
アルスが悲痛な顔をした。この先ルツを置いていくのはアルスのほうなのに、まるで彼のほうが置いていかれるみたいな顔だった。
「……ねえルツ。それはとても寂しいことだって、どうして気づかないの?」
「寂しい?」
そんな感情、生みの親が死んだ遥か昔に置き去りにしてきてしまったので、ルツの空っぽの心臓には残っていない。だから寂しくない。きっと、そう。
「私は大丈夫よ。だからあなたは幸せになってね。たとえ離れ離れになっても、あなたのことはずっと覚えているわ」
ルツは人形だけれど、生きているし心もある。でも、いつまで経っても人の心には疎いまま。機械仕掛けの心臓は、今日もカチカチと機械的に動き続けている。
「愛しているわ、アルス」
けれど彼に向けるその愛自体は、本物で。だからアルスは完全には納得していなかったけれど、今はただ「うん」と頷いておくことにした。
今はまだ、ルツには分からなくてもいい。そう思って。
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そうしてさらに五年が過ぎ、十八歳になったアルスだが、ルツとのことはなかなかの長期戦を覚悟すべきだと薄々感じ始めてはいた。
彼女は決して変わらない。それは外見だけの話ではなくて、アルスへ向ける思いすらもまったく変わっていなかった。
「好きだよ、ルツ」
「ええ、アルス。私もあなたが大好きよ」
変わらないルツ。変わらないやり取り。
変わっていくのはアルスのほう。成長し、今ではルツの身長を追い抜いた。彼女への想いは変わらないかと思いきや、想いはどんどん強くなっていく一方で。
「ねえ、あなたは恋をしないの? あなたの長い人生の中で、一度も恋をしたことはないの?」
アルスの問いに、ルツは「ええ」と綺麗な笑顔を浮かべた。
「私が人形である限り、私は誰にも恋をしないわ」
誰かを愛することはあっても、恋をすることはないのだと。それを聞いて、アルスはなぜだか安堵した。
ルツは、彼女は、自分だけではなくて誰にも恋をしないのだと。そう分かって、ホッとした。誰にも恋をしないなら、誰かに彼女を取られることもないだろうから。
「……じゃあ、あなたの愛は僕にちょうだい。僕だけにちょうだい」
「難しいお願いね。私はいろんなものを愛しているのよ。あなたを、まだ見ぬあなたの子孫を、そしてあなたに出会えたこの世界を」
ルツはアルスを愛している。
……だから、突き放すことにした。
「私はきっと、あなたが望むような愛も恋もあげられないわ。だからもう私のことは忘れなさい」
「……ルツ?」
「大好きよ、アルス。愛してる。たとえあなたが私のことを永遠に忘れたとしても、私があなたを覚えている」
アルスの額にそっと触れたルツの掌から、光があふれた。アルスはぎょっとする。
──錬成反応。術式発動。
「錬金術は私の生みの親が死んだ日を境に衰退したわ。でも私が残っている限り、あの人の技術はなくならない。……アルス、あなたの記憶を錬成して書き換えるわ」
「ちょっ……!」
「安心して、あくまで書き換えるのは私に関する記憶だけ。他の記憶はちゃんとあなたの中に残り続けるから」
なんとか光から逃れようとするアルスだが、それも叶わず意識が遠のく。
いやだ、と声にならない声をあげた。こんなの納得できない。納得できるわけがない。どうしてこんなことをするの。
「……ごめんね。でも、私にはこの方法しか思いつかなかったの。あなたを──から、守るためには」
え、と訊き返そうとしたが、もう声は出なかったし、瞼が開かなくてルツの姿を見ることすらできなかった。守るって、どういうこと。
「さようなら、アルス。誰よりも幸せになってね。あなたと過ごせたこの十八年は、私にとっても幸せな時間だったわ」
大好きなルツの声を聞きながら、アルスは強い光の中に呑み込まれていった。意識が途絶える。そこから先は、なにも分からない。
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それから、わずか二週間後。
国中で病が大流行した。ルツはぎゅっと眉根を寄せる。……思っていたよりも、だいぶ早い。
それはかつてアルスの村を全滅させた流行病と同じものだった。十日足らずで村ひとつが滅びた死の病。あの時と似たような兆候を感じ取っていたルツは早めに手を打とうと思っていたのだが、ルツが動くよりも病が流行し始めるほうが早かった。
仕方ない。いくらルツでも万能ではないのだ。せめて事前にアルスを自分から遠ざけておけたことを喜ぼう。間に合って本当に良かった。
外出に厳密な規制がかけられている街を足早に歩きながら、ルツはアルスには内緒で通い続けていた場所へと足を運ぶ。錬金術協会。今は全盛期に比べるとかなり衰退してしまっているが、錬金術師という職業は未だに根強く残っているのだ。
協会の建物に到着すると、ルツは自分に割り当てられている研究室ではなく、その隣にある協会長の研究室の扉をノックした。
国からの要請を受けて、少しでもこの流行病を食い止められそうな職種の人間は、許可証を得た上で今まで通り仕事を続けていいことになっている。錬金術もそのひとつで、白いお髭の協会長は今日も普通に出勤してきていた。
「おや、ルツさん? 君がここに来るなんて珍しいね」
「こんにちは、協会長。今日はお願いがあって来ました」
「お願い?」
首を傾げた協会長に、ルツは単刀直入に言った。
「もう時間がありません。高位浄化錬成を使ってこの病を抑えましょう」
「……ちょっと待ってくれるかな、高位浄化錬成だって?」
あまりの提案に、協会長は笑顔を浮かべたまま固まった。心なしかお髭が逆立っている。しかしルツは協会長の動揺を綺麗に無視して話を続けた。
「ただ、あまりにも大規模な錬成になります。反動で私の体は木っ端微塵に砕け散ることになると思うので、その際に私の周りで被害が出ないように、錬金術で防護壁を展開していただきたいのですが」
「防護壁って……え?」
協会長は間抜けな声を出す。言っていることはわかるのに、頭が全然ついていかない。
しかし冗談を言ったことのないルツが真顔で佇んでいるのを見て、どうやら彼女は本気らしいと協会長はようやく理解する。それで「とりあえず座りなさい」とルツに促して、自分も彼女の向かいに腰かけた。
「……そんなことが本当にできるのかね? そもそも高位浄化錬成は、過去の書物でしかお目にかかれない伝説じみた技術のひとつだ。それなのに君はその技術を扱うことができて、なおかつ一人でこの未曾有の病を抑えることができると言っていることになるが」
協会長の言い分はもっともだ。ルツは同意するように頷いた。
確かに現代の錬金術師たちは、誰も高位浄化錬成を扱うことができない。そもそも過去に存在した『万能型』と称される錬金術師たちの高度な技術は、そのほとんどが継承されずに廃れてしまっていた。でも。
「私がかつて錬金術師によって作り出された人形だということはご説明しましたよね」
「ん? ああ、そういえばそうだったね。そんなこと忘れてしまうくらい君は人間となんら変わりない存在だけど」
「作り物の私ではありますが、錬金術は生みの親の指導のもと修得しました。もうかれこれ二百年になります」
二百年。その年数に協会長は絶句した。
だが同時に納得もする。普段はあまり意識していないので今の今まで思い至らなかったが、考えてみれば錬金術の全盛期とも言える時代に生み出された最高傑作こそがルツなのだ。
当時の技術はすでに失われてしまっているが、まさにその時代を経験している彼女ならば、高位浄化錬成を扱えてもおかしくはない。協会長は神妙な顔をルツに向ける。
「……できるのかね? そんなことが、本当に」
先ほどと同じ問い。けれどそれは、先ほどとは違う意味を含んで問いかけられる。
ルツはもう一度頷いた。そう、いつだって彼女は変わらない。言ったことを翻したりもしない。
「できます。それに絶対に成し遂げなければならないことです」
「でも君は言ったね。反動で体が木っ端微塵に砕け散るって。いくらこの病を抑えるためとはいえ、君の命と引き換えにというのは、さすがのわたしも見過ごせないことだよ」
確かにこの国を守るためにはなんらかの犠牲が必要だ。けれどそれが目の前にいる彼女の命というのは、当然ながら賛成できることではない。
ルツの脳裏に過去の残像がよぎった。機械仕掛けの心臓が軋む。
……十五年前、ろくに状況も把握できぬまま、為す術もなく滅びていった小さな村があった。ルツが百年ほどを過ごした思い出の場所。今はもうない、アルスの故郷。
「……私はかつてこれと同じ流行病でひとつの村が全滅したことを知っています。人口三百人ほどの村が、十日足らずで滅びました。急がねばなりません。このままでは国が滅んでもおかしくないのです」
ルツが語る厳しい現状に、協会長の反応が遅れた。国が滅ぶほどの流行病。
「だから急がねばなりません。術者が私しかいない以上、高位浄化錬成を使える機会は一度きりです。間に合わなくなる前に動かないと」
静かで、それでいて強い意志を含んだ言葉だった。彼女はできないことをできると言う女性ではない。だからきっと、彼女ならばこの死の病を抑えることができるのだろう。けれど、協会長には気にかかることがまだあった。
「君がいなくなったらアルスくんは……」
「大丈夫です。あの子の中の私の記憶は消しました。今は前と同じ家で一人暮らしをしていますよ。今までずっとそうしてきたと思っているはずです。記憶は書き換えてありますし、心配はいりません」
さらりとした答えに、協会長は思わず「えっ」と声を上げた。
協会長は知っている。アルスがどれだけルツのことを大事に思っているのか。どれだけルツのことが大好きなのか。
「……それは、とても残酷なことをしたね」
呻くような協会長の言葉に、けれどルツはいまいちピンと来なかったのだろう。特になにも反応を返すことなく話を続ける。
「それで協会長、ご協力いただけるのでしょうか」
まっすぐに見つめてくるルツに、協会長は目を逸らしたくなった。正確には、現実から目を逸らしたくてたまらなかった。
ここで頷くというのは、ルツが死ぬことに同意するということである。そんなことできるわけがない。けれど頷かなければ、ルツは協会の協力を得ないまま一人で計画を実行するつもりだろう。実行しないとしたら、事態は長引き、病は蔓延し、国の存亡に大きく関わる問題にもなる。
それでも、協会長は頷けなかった。ルツに死刑宣告する気になんて、なれるわけもなかったから。
「……急を要することはわかっている。でも、待ってくれ。せめてあと一日だけでも」
先延ばしにしたところで、事態はなにも好転しない。それはわかっている。それでも協会長はそう答えるしかできなかった。
わずかに震える協会長の言葉に、ルツはただ「協会長はお優しいですね」とだけ言って笑った。そして俯く協会長を残してその場をあとにする。
けれど翌日になっても、ルツが戻ってくることはなかった。
協会長の返事を聞かぬまま、彼女はこの流行病を終息させるべく、一人で遠くへ出ていったのだ。
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本当は病が広がりつつある場所で錬成できれば一番良かったのだが、一人でやるとなると周りの安全を考慮して、できるだけ人気のない場所でやる必要がある。そのためルツが選んだのは、百年の時を過ごしたアルスの故郷だった。
あれから十五年。立ち並ぶ墓標は、ルツとアルスが二人で時間をかけて作ったものだ。そこに佇み、ルツは深呼吸をする。
誰もいない村。ここならば、たとえ自分の体が四散したところで誰にも被害が及ばない。ついでにアルスの父や祖父たちと同じ地で永遠の眠りにつくことができる。ここはルツにとってこれ以上ないほど好条件な場所だった。
「…………」
手を広げる。ルツの体から光があふれる。
これより、失われた錬金術が発動する。命と引き換えの高位浄化錬成。対象はあくまで件の流行病に絞り、範囲はできうる限り広大に設定した。
──錬成反応。術式発動。
しかし、錬成を開始する直前。
ルツの体に大きな衝撃が走った。馬車と激突して跳ね飛ばされたかと思うほどの強い衝撃。あまりのことにルツの体から光が消え、錬成は一時中断を余儀なくされる。
「なん──」
「ルツ!」
えっ、とルツが目を見開いた。ありえない声が、聞こえた。
「バカ! ルツのバカ! なに勝手に死のうとしてるのさ!」
ルツはギギギとぎこちなく後ろを振り返る。凄まじい勢いで背後からルツに突撃してきたのは、どう見てもアルスだった。
完全に予想外の事態に、ルツは激しく動揺する。機械仕掛けの心臓が、バクバクと不自然に鼓動する。動揺だけではない、別のなにかが原因で。
「……どうして」
呆然とそう問えば、アルスは「協会長だよ!」と怒り心頭のまま答える。いつも物静かな彼がここまで怒っているところをルツは初めて見た。
「協会長から全部聞いた! 僕の記憶も想いも奪っておいて、こんなの絶対に許さないし認めない……!」
ルツの気が遠くなった。ああ、だから、あの時アルスを置いていったのに。
彼はきっと自分を止める。でも止められたら彼を守りきれる自信がない。ならばと強引な手段に出たというのに。
「アルス、じゃあどうすればいいの?」
「…………」
「私はあなたを守りたい。これから生まれてくるあなたの子孫を守りたい。あなたと出会えたこの世界を守りたい。そして私にはそうするだけの力がある。それなのに、なにもするなと言いたいの?」
どうしてアルスが記憶を取り戻しているのかは分からない。でも今はそんなことなどどうでもいい。そんな話はあとでいくらでもできるし、そもそもこれから死ぬルツには訊く必要すらないかもしれない。
アルスの体が震えた。怒りでか、悲しみでかは、本人にしか分からない。
「君はひどく残酷だ。僕の気持ちを全部無視して、それが僕のためになるって本気で信じている」
残酷。それは協会長にも言われたことだ。ルツは首を傾げる。……協会長に言われたときは特にどうとも思わなかったが、アルスにまで言われるとなると、本当に自分が間違っていたのだろうか思ってしまう。
でも、間違っていたところでもう引き返せない。やるべきことは変わらないのだ。ルツは歩みを止める気など微塵もなかった。
「アルス。私から離れなさい。このままだと余波であなたまで吹き飛んでしまうわ」
「そうなっても僕は別に構わないよ。でも、たぶん大丈夫じゃないかな」
「え?」
まったく予想外の答えに、ルツは背中にへばりついているアルスを引き剥がした。思いのほかあっさり離れた彼を真正面から見据えれば、いつも通りの静かな眼差しを返される。その視線に、ルツの機械仕掛けの心臓がおかしな音を立てた。
「大丈夫って、なんで」
「確かにルツ一人でこんなに大規模な錬成をしたら肉体が耐えられなくなるだろうね。でも二人でならどうかな」
二人で。ルツは大きく目を見開く。……そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。
「……あなたと二人でこの錬成をするというの? 錬金術師でもないあなたと? 無理よそんなの、無理に決まっているわ」
そう否定すれば、アルスは静かな瞳の向こうに呆れの色を滲ませた。
「僕が錬金術師じゃないって、誰が言ったの?」
「だって、私はあなたに錬金術を教えたことなんて一度も──」
そこまで言って、ルツはハッと気がついた。
ここへ来たとき、アルスはなんと言っていた?
『協会長から全部聞いた! 僕の記憶も想いも奪っておいて、こんなの絶対に許さないし認めない……!』
協会長と、はっきり言っていた。でもルツは自分が錬金術協会に通っていることをアルスに言ったことは一度もない。それなのに。
「ルツには言わないでって、僕がお願いしていたんだ。君は僕に錬金術を教えなかったけど、僕はどうしても学びたかったから」
アルスの告白を聞いたルツは天を仰いだ。彼が錬金術に手を出していたなんて、全然気づいていなかった。まさか二百年も生きている自分が、十八年しか生きていない少年に遅れをとるとは。
同時に、アルスが記憶を取り戻している理由もなんとなく察しがついた。彼が錬金術師であるのなら、ルツが施した錬成にある程度抵抗できてもおかしくはない。もちろん能力的にはルツのほうが上であるため一時的には上手くいったのだろうが、二週間経った今、アルスがそれを打ち破ったのだろう。
悲壮な顔をするルツの手をアルスが取った。ぎゅっと握りしめられて、ルツの心臓はまたもや不自然に軋む。
「ねえルツ。僕を巻き込んでよ。僕は君となら死んでもいいし、君とならこの先もずっと一緒に生きていたい。結婚できなくてもいい。子供ができなくたって構わない。君の愛を僕だけに向けて欲しいなんてもう言わないから、だから」
だからどうか、一人で全部を背負ってしまわないで。一人で消えてしまおうとしないで。これからは僕が一緒にいるから。
そう訴えるアルスの真摯な声と眼差しは、目を逸らしたくなるほどに一途で。耐えきれなくなったルツは、ぎゅうと強く目を閉じてその視線から逃れようとした。
「ルツ、お願いだからこっちを向いて。僕を見て」
それでも、アルスにそう言われてしまえば目を開けるしかなかった。そっと瞼を開けば、そこには抜けるような蒼天を思わせる瞳がこちらを見つめている。
「好きだよ、ルツ」
「…………」
「本当に、君のことが大好きだ。だからどんな結果になろうと、最後まで君のそばにいさせて欲しい」
挨拶と同じくらい聞き慣れた好意の言葉に、今回ばかりは以前と同じ反応を返すことができなかった。ここにきて、ようやくアルスの本気を理解してしまったから。
それに本当にもう、時間がないのだ。こうして押し問答を続けている間にも、国中で人々がバタバタと倒れていっているのだ。ルツもアルスも引く気がない以上、答えはひとつしかなかった。
向かい合って立っていた二人は、手を繋いだまま並んで立つ。それがアルスに対するルツの答えだった。
──錬成反応。術式発動。
二人の体から光があふれる。ルツが展開させる高位浄化錬成に、アルスが合わせる。
「くっ……!」
「…………っ」
全身にのしかかる強い負荷に、ルツが小さく呻いた。アルスも唇を噛みしめる。二人がかりであるにも関わらず、今にも体がバラバラになりそうな感覚に吐き気がした。
それでも、ここで吹き飛ばされるわけにはいかない。ルツは必死に踏み留まる。いま吹き飛ばされればアルスも巻き添えになるのだ。
繋いでいた手を強く握る。そうすれば、アルスも強く握り返してくれた。
二人を包む光がますます強くなっていく。ルツとアルスを中心に、世界がなにかに包まれていくような感覚。そして。
「ルツ!」
焦ったようなアルスの声を最後に、ルツは力尽きてその場に崩れ落ちたのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
意識が揺蕩う。どこかでルツを呼ぶ声が聞こえた。懐かしい声。ルツを生み出した錬金術師の声だ。
『ルツィオーネ。いつか本当にお前を愛する人が現れて、お前もその人を愛するようになったとき、お前は真実人間になれるだろう』
『……愛? そんな不確かなものより、術式を教えてください』
『ふ、わたしの娘にしてはつまらんことを言うな』
ルツはぎょっとした。たぶんこれは自分の過去の記憶だが、まったく覚えていない会話だった。
『お前を人間にするための術式はあるが教えん。これが最後の課題だ、ルツィオーネ。その機械仕掛けの心臓に刻まれた術式を解き、真実人間になってみせろ』
最後の課題。……ああ、そうだ。この会話のすぐあとに、ルツの生みの親は死んだのだ。
機械仕掛けの心臓がまた軋む。ついに壊れる時がきたのだろうか。現存するどんな武器の攻撃も効かない心臓だけれど、さすがに自爆まがいのことをすれば壊れるだろう。
そういえば、アルスは無事だろうか。ああ、せめて気を失う間際に、繋いでいた手だけでも放しておけば良かった。あんなに強く握っていたから、きっと逃げられなかっただろう。ごめん、ごめんね。
『──ツ! ルツ!』
またどこかから声がして、ルツはあふれそうになった涙を拭って上を見上げた。意識の向こうから声が聞こえる。さっきとは違う声。アルスの声だ。良かった、無事だったらしい。
「…………?」
不意に、唇になにかが触れる感覚がして、目を見開く。体温を感じるなにかが、優しく触れている。
光があふれた。錬成反応によく似たそれに、ルツはハッと目を覚ます。
……気がつくと、目の前には目を閉じたアルスがいた。唇に触れているのは彼の唇で、眩しい光はちょうど触れ合っている唇の隙間から零れ落ちているようだった。
至近距離にいるアルスがそっと目を開ける。そしてルツが目覚めたのに気づいて嬉しそうに微笑んだ。
「ルツ」
「アルス……?」
「錬成は成功したよ。僕も君も無事で、世界も無事だ」
すぐにはアルスの言葉を理解できなかった。けれど数秒かけてじわじわとそれが頭の芯に届き、理解できた瞬間には落涙していた。
「……本当に?」
「本当だよ。ありがとう、ルツ。きっと父さんも母さんも、この村のみんなも、ルツの頑張りを誇りに思ってくれていると思う」
立ち並ぶ墓標。その下で眠っている、かつては救うことができなかった村人たち。
涙で濡れたルツの頬をアルスの両手が優しく包んだ。向けられる蒼天の眼差しに、ルツの鼓動が高鳴る。ドクドクと、まるで本物の心臓であるかのように高らかに脈打つ。そう、まるで、本物の──。
「…………!」
思わず胸を押さえた。あまりのことにルツは絶句する。
心臓が、ある。機械仕掛けなんかじゃない、本物の心臓が。
耳の奥で、ルツィオーネ、と呼ぶ声が反響した。
『いつか本当にお前を愛する人が現れて、お前もその人を愛するようになったとき、お前は真実人間になれるだろう』
記憶の彼方から響いてくる、生みの親の声。愛。まさか。
「良かった、その感じだと僕は上手くやれたみたいだね」
「アルス、あなたは……」
間違いない。他でもないアルスがルツを人間に変えたのだ。ルツ本人ですら分からなかった方法で、その心臓を人のものに変えて。
「ねえルツ、好きだよ。愛してる」
心臓が飛び跳ねる。以前には感じなかった感情が、血管を通って全身へと駆け抜ける。
「君に伝わるまで何度だって言う。僕は君が好きだ。僕たちはきっと、出会うために生まれてきたんだよ」
「……随分と情熱的なことを言うわね。すべての出会いは偶然よ。運命なんてこの世にないわ」
赤くなりそうな顔を隠すために、ルツはアルスから視線を逸らす。それにルツが運命論を信じていないのは本当のことだ。
彼女のつれない反応に、けれどアルスは「そうかもね」と微笑んだ。
「なら僕は、君と出会えたこの偶然を喜ぶよ。出会うはずのなかった僕たちが今こうして一緒にいられるのは、全然当たり前のことじゃない。奇跡だ。君と過ごせる一日一日を、僕は大事に生きていく」
ああ言えばこう言う。ルツはアルスへの説得を諦めた。
どれだけ反論しても、彼にかかればすべてのことがルツへの愛に変わってしまう。それがあまりにおかしくて、ルツはつい笑ってしまった。
「そうね。もしかしたら、本当に奇跡なのかもしれないわね」
二百年前に生まれたルツ。もしも普通の人間として生まれていたら、この時代に生まれたアルスとは間違いなく出会えていなかっただろう。
それなのに、今こうして一緒にいる。そしてたぶん、これからも。
「愛してるよ、ルツ。これから先もずっと、僕と一緒に生きて欲しい」
変わらない言葉。移ろいやすいこの世界で、決して変わることのなかった、アルスの愛。
ルツは笑った。心臓が跳ねるように脈打つ。それは紛れもない命の鼓動。本物の心臓。真実人間になったルツィオーネ。
「ええ、アルス。私もあなたを愛しているわ」
もうルツは不老不死ではない。人形でもない。これからは普通の人間として生きていく。ルツにとってはまさに未知の世界だ。
でもルツにはアルスがいる。アルスがルツを導いていく。知らなかった世界を教えてくれる。
手を繋いだ。この手が放されることは、もう二度とないだろう。