好材料を得る
「今、その現物が必要というわけじゃない。将来予想として価格高騰さえしなければいいと思うんだよ。どうかな?」
船の帰還に湧く港の歓声を背景音に、支部長室で幢子がその思惑を口にする。
支部長は、ただ幢子の言葉に笑みを浮かべている。
この支部長が、殊更に、幢子の信望者である事は、その場に同席しているコ・ジエ含め、ディル領の役人たち、ひいては懇意の交易商たちにすら知られていた事だった。
「だから市場に好材料を与える。新しく漁業をする船がある、そこで漁業をする人がいる、豆の収穫のない冬季に向けて新しい漁法を試している。衣類だってそう。上乗せされるだろう手間賃、それよりも優先しなければいけない事情や、別の加工品の需要を喚起する。」
幢子が絵図を書き、由佳が実行する。それはヤートルの普及に代表される現況打開のいつもの構図であった。
「勿論、由佳ちゃんには由佳ちゃんの考えや、目的もあったはず。栄治さんが動けない以上、私の案に乗るしかなかっただろうから、今回の無茶もあったんだろうけど。」
由佳が当初の予想よりも数十日を早めた強行に、どういった思惑があったのかまでは、幢子は把握していなかった。ただ、そこにはちゃんと理由がある、そういった漠然とした手触りは感じていた。
「この冬は凌げそう、という仕掛けは作れた。その上で、ジエさんの発案通り、新しい焼き物も王領に流せそうだから、この街に運ばせるし、頃合いを見て信頼できる交易商を集めておいて。」
ジエがこの日のためにポッコ村から急いで運ばせたのは、新しい釉薬と粘土、より高い焼成温度で作られた磁器の試作であった。
そもそも、新しい釉薬である青の発色は、サト川から離れた地域の海岸沿いの砂に混じった、何らかの鉱物の反応であり、ポッコ村には馴染みのないものだった。
ジエは、赤味の薄い煉瓦を見て手紙を認めた後、どうしても陶器としてその粘土を使ってみたくなった。そのためにそれを送り出してきた村を特定し、実際に粘土の採取場へも足を運んだ。
その場で、村の窯場の代表を選ばせ、粘土を持たせてポッコ村へと向かわせた。その男は、最初にポッコ村へ派遣された青年たちの内の一人であった。
白く上がった素焼きを見て、窯元と、件の兄妹、青年の四人が幢子の下へ駆け込んで、更に分析と案を加えた結果が、試作品であった。
幢子がこの二日、この港町に居合わせたのは、焼き上がった物を運ばせることになったからであり、コ・ジエの差配に依るものである。
「ブエラ老は気づいた様で。既に内々、いくつかの注文と売り先を頂いています。今度こそは、見事さへの価値を勝ち取ってみせます。」
言葉と共にジエは目を伏せ、幢子に向けて頭を下げる。
「焼き物に対するジエさんの執念は、ちょっと怖いよね。」
その原因を作ったのは他でもない幢子自身である事を、役人たちとの交流の内に、噂で知るに至った支部長は、当事者たちを前にした、この堂々たる陰口を苦笑いで受け止めるしかなかった。
「食いねぇ!食いねぇ!他でもない自分たちで取った魚だろ!食え食え!」
港町の盛り場の一角を貸し切って、バルドーの兵士たちの中心で音頭を取って大声を張っていたのは由佳だった。
「もう食べとります!こんなに食べたのは久しぶりだ!」
もう何度目になるか、その由佳の音頭に、ついぞ手を止めて兵士の一人が答えると、その場の全員が口々に大笑いを始めた。
「見ろ!言っただろ!今年もこっちは豆が豊作だ!見た!獲った!食った!丸ごと全部持って帰って自慢するっすよ!」
心理的な要因で発生する摂食障害は、軽度とはいえ、バルドー全域に跨っていた。兵士も、農民も、漁師も、役人すらも。
冬季を前に、この改善は急がなければならない。
まず、越冬する事。それは数年前に幢子が直面した事と同質のものであった。バルドーはそこで未だ立ち止まっていた。
それに対する危機感を本当の意味で持っていたのは、由佳や一部の面々だけだった。
「船は増やす!漁に出て、魚を卸す!それが巡って、国の皆が食べる豆の量が増える!皆のために皆で出稼ぎ!そのために食べて頑丈になる!じゃないとこっちが鮫に食べられるっすよ!」
由佳が盛り上げる場の隅で、武官と文官、リオルがそれを眺めている。
「好材料、と言えるんですかね。」
文官が手元の焼き魚の白身を解して、口元に運び飲み込む。
「まぁ、悪くはねぇだろうな。一緒に船に乗ったからこそ、縮まった距離ではあるだろう。あいつは天性の人誑しだからな。」
件の事件で寝食を共にしたリオルが、コップの中の水を飲み干し、呆れた目で由佳を見ている。
「でも、懐かしい。まさにこの光景をあの日、私は見た、見ていたんです。また見れる日が来るとは思わなかった。」
文官は、銅鉱山でみた在りし日を思い浮かべ、同じ様に彼女がその中心であった事に、僅かに涙腺が緩ませていた。
その場に次々と運ばれてくる豆と魚介のスープは、コヴ・ドゥロが景気づけにと手配したものだった。
リオルにしてみれば、そこに随伴役人として現れた父親が、数年ぶりの対面になるとは思っても見なかった。その衝撃が未だ余韻として胸中に漂っている。
「お前さんは、いいから食えよ。」
部下の腹が満足するまでは、と手を止めてその光景をただただ満足そうに黙って見つめている武官に対して、ため息混じりにリオルは言い捨てた。




