迷いを振り切って
「我らが新たな船は、海の嫌われていない様で良かった。」
船出を見送り、案内の灯籠に誘われて一行がたどり着いた先は、港町の独立交易商組合の支部の一室であった。
「ささやかではありますが、お食事をご用意してあります。」
支部長が招き入れた部屋には燭台が灯され、着座の順にスープの入った陶器が並べられていく。
その場に集ったのは、船主であるセッタ領主、コヴ・ドゥロをはじめ、幢子、コ・ジエ、ブエラ老、組合長、ハヤテの副商会長など、サザウ国の国政を左右する面々であった。
「既に、二隻目の建造を始めさせている。復元性であったか。輸送や漁業を視野に全幅を広げる設計を行っている。三十ヤートルと言わず更に大きな建造をと考えていたが、まずは、コヴ・トウコの言っていた課題の多さを理解した。」
「そもそも、あの船は二十五ヤートルという話だったのでは。」
ドゥロの弾む声に反して、幢子はやや呆れ気味に目を向ける。
「気の早い連中だよ。」
横から差し出された陶器の器に目を落としながら、ブエラはため息を吐き出す。
「網や帆布については、やはりエスタ領か、リゼウ国を頼らねばならん。今回、急な発注に応えたコヴ・ニアの協力無しには、お前たちの算段は未だ動いてすらおらんかったろうよ。」
港には今も海難事故に備え、沖合の船の救助のための小舟が幾隻も待機している。それを備えだとして譲らずに手配したのはブエラであった。
幢子は、マストの最上部に飾られたハヤテの商会旗が、ブエラの手配によるものだと知っているだけに、この場の面々は総じて過保護のきらいがある事を若干、冷めた目で見ていた。
沖合の洋上で碇の降ろされた船が網を下ろしたのは、真夜中の事であった。
明け方に一度、再び網を下ろして昼までに一度、昼を過ぎて三度目の引き上げを行い、船は帰港する予定となっていた。
一人の船員が、夜を通して、甲板で深く暗い海を眺めていた。
この海の何処かに、かつての村の仲間たちが沈んでいる。
下ろした大網に、そうした名残がかかるかもしれない。
一人、村を、国を逃げ出した彼が、この船の上で船員として加わっている。それは、村にいる彼女に懇願し、自らが望んだ事だった。
船の出港を見送っていた人々の中に、妻も居たはずである。
息子と娘はこの地で、仕事を見つけ、そこの中に自分の価値を見出している。
それでも彼はやはり、網を持って小舟で海に出た日々を忘れられなかった。妻はそれを理解してくれている。だからこうしてあの頃と変わらず、それを見送るために伴をしてくれた。
そうして彼は海に帰ってきた。帰ってきてしまった。
結局は足にまとわりついた海に沈んだ仲間たちに、引き戻されてしまった。そういう心境も彼の心の何処かで僅かにこびりついていた。
網を引き上げるのが怖かった。今まで持ったこともない、大網。
東の空が白み始めて、甲板に網を引き上げるための船員たちが集まり始める。
「網を上げるぞー!」
武官の鍛えられた声が轟き、いよいよと網が引き上げられ始める。
彼はその先頭で、網を握る。
最初に感じたのは、まるで海に引き込まれそうな強い抵抗。
びくとも動かない、そんな網を引けば、後ろの男たちがそれに続き、みるみると引き上がっていく。
網の中を見るのが怖かった。しかしそれは一瞬の事だった。
運が良かったのか、見たこともない量の魚がかかっていた。
彼が聞いたのはその歓声が先で、目を向けた先には数多の魚が網の中で暴れ、踊っていた。
彼は漁師だった。彼自身もが、それを忘れていた。
網に魚がかかっていれば、全てを忘れて喜んでしまった。
それまで思い悩んでいた事など何処かに消えて、大声を張り上げて網を引き上げていた。
網とともに引き上がった魚が甲板で踊っている。
二度目の網には、鮫が掛かっていた。
甲板で散々に暴れまわって、武官と数人が銛で突き、絞めた。
三度目の網には、再び魚群が入っていた。
網引きに加わった文官が、赤くなった手のひらを涙目で見つめ、それを皆で笑って励ましていた。
船倉の樽には、そこそこの漁村全体の一日の漁獲量にも勝るだろう魚が詰め込まれている。息絶えた鮫も頭から樽に詰め込まれていた。
網引きの合間に、船員たちで必死に血抜きをして、その声は誰もが嬉々としていた。
兵士として徴兵される前は漁師だった者も多かった。口々にそれが大漁なのだと理解が広まった。
そんな中で、彼は一人、泣きながら笑っていた。
新しい村で働き口を見つけた、娘や息子への負い目も感じていたのだと、そこで始めて認める事ができた。
白い空を陽が傾いて、碇が引き上げられ、陸が近づいていく。
港の小舟の漁師たちをはじめ、大勢がそれを出迎えるために集っていた。
彼は船の甲板から大声を張り上げて手を振った。
「やっと、やっと陸地に戻れるっす。」
当初よりは慣れたものの、疲れ果てた顔の由佳が、彼のその背中を見てため息を吐き出す。
船の上で誰よりも安堵の顔を浮かべていたのは、誰一人欠けることなく、その重責をやり遂げた船長とその部下たちであり、舵を手に、ついぞ涙さえ流していた。




