振り返らぬ旅路
先に発った使節団の面々を見送り、王都ラルタの城壁の外で自らの荷車に腰掛け、由佳は海を見ていた。
カラカラと車輪を回して、城門から商会員たちが自分の荷車を引いて歩いてくる。
その横には組合本部長も居た事で、由佳はこの街でするべき事が全て終わったのを自覚する。
その数日、使節団の片隅に立つ変装した由佳に対して、武官達も、かの政官も、接触を図ってくる事はなかった。その取り決めは、少なくとも果たされていた。
栄治に頼まれていた作柄情報や種も、ハヤテの商会員たちの努力で集められ、それらは既に帰路についていた。組合に残されていた資料も、証拠として押収したものは同じ様にラルタから運び出されている。
交渉の最中の政官派閥にも変わりはなかった。それは使節団に紛れ息を潜めていた由佳に対して、何ら警戒する素振りも見せなかった事からも明らかであった。
対して、武官派閥にはややぎこちないながらも、端に視線を向ければ顔を逸らすような、そういった仕草があった。
日没が迫ってきていた。由佳が指定したのは、その日没であった。
「夜逃げ、ってこんな感じなんすね。感慨深いっす。」
荷車の縁に腰掛けて、腕を組んで意味深に笑っている商会長の姿を、部下たちは理解し難いと言った表情で受け止め、互いに顔を見合わせる。
王都の波止場に立てられた灯台の明かりが、徐々にその存在を主張し始める。
「やっぱり、駄目だった、かなぁ。」
由佳が荷台の縁を降り、荷車を起こした時、その横目に静かに歩いてくる誰かの姿が見えた。
「折角、連れて行ってくださると仰っていたのに、置いていかれたかと思いました。」
一抱えはありそうなカバンを背に、かの政官が歩きながら言う。その姿を見て、由佳は微笑む。
「もう出る所。」
足回りと荷台を確かめ、由佳は荷車を引く。荷がゴトゴトと音を立てる。
「芋、ですか。配給されたものが王都で出回っているとは言え、袋ひとつ分とは、高かったでしょう。」
「一の豆の袋で買ったの。これは食料として必要なわけじゃないから。」
そうして、荷車を道に乗せ、由佳は振り返る。
そこには一人の武官が混じっていた。由香はその顔に見覚えがあった。
「思い残すことはないっすか?きっともう、帰ってこれないっすよ?」
由佳の問いに、武官は頷く。
それは由佳には、馬に乗っていたその姿からは見えなかった表情であった。
「サザウへ交渉へ出た時、旅路に我が身が疫病にかかったと失意した時、トウドの王城で水炊き豆の汁を出された時、そんな事は、もう幾度も覚悟しました。済ませております。」
そうして、由佳に笑顔を浮かべ、政官が差し出した手をしっかりと握る。
由佳がそんな彼の顔を見たその視界の先で、波止場の空を照らしていた灯台の明かりが消える。
「あ、消えたっすね。」
由佳の言葉に、その場の面々が同じ様に振り返る。彼らの目にも灯りは見つけられなかった。
「王は医師や政官を払われ、内々に、我等へ征けと仰られた。それが、今朝の事です。王を見捨てられない、最後までそう言っていた者たちは残る事になりましたが、それが政官やカルネリア王国の目を騙す仕掛けにもなりましょうと。」
武官の言葉に、政官が含んだ息を吹き出し笑う。
「では、私が数日かけてくすねてきた方々の重要書類は過剰でしたかな。必死に偽の書面まで起こしてすり替えてきましたが。」
「いや、馬屋に馬が一頭も居らず、一向に戻らぬ事にいずれ気づくだろう。既に松明を手に徴用兵を連れて、その親や妻子のいる近々の村々へと、民を助け出しに向かっておるからな。」
彼らはそれぞれの悪巧みを確認し合いながら、互いに、笑顔を向かい合わせる。
「じゃあ、後は振り返らず、進むだけっすね。」
由佳はそうした会話に、かつて鉱山の面々が大きな悪戯を仕掛けた日の事を思い出し、頬を緩む。
自分たちが行きたいのを誤魔化しながら、白々しい嘘で港町に送り出す。
港町にいけば、商人に渡した手紙に、ちょっとした仕掛けがされていた事。
それが必要最小限の文字の読み書きを覚える切っ掛けにされていた事。
鉛筆を使うようになり、もう使うことが無くなった羽ペンが、その時に送られたものであり、それは今もサザウの館で商会の証書と共に大事に仕舞われている事。
「悪巧みっていうのは、案外直ぐバレるもんっすよ。考えてる時は、楽しいけど。」
その言葉に、その場の全員が各々の事情で肝を冷やし、前を歩き道を進んでいく由佳の背を見る。
「新人たちが集まって何か打ち合わせしている事だって、ばあちゃんと本部長が船の帆を調達して何か企ててるのだって、何処かで誰かが見てるっすよ。案外、隠し事はできないもんなんすよ。」
本当に各々の事情を知っているらしい、由佳の言葉に、一同は顔を見合わせて、口々に溜め息と笑い声が漏れ出す。
「そういう時は、バレてもいいって、堂々と前を向いて真っ直ぐ進めばいいっす。その方がいっそ清々しいっす。さあ、行くっすよ。」
その由佳の声は少し震え、その頬には今日も止まぬ汗が伝っていた。
乾季の夜風に荷車の商旗をはためかせながら、月明かりの下を、細川由香は振り返らぬ旅路を、真っ直ぐと進んでいく。
その背を追って、人々が続いていく。




