細川由佳を助けたい人。
「リオルさんがまだ残ってるんだ!」
由佳が自分の来た方向へ振り返り手を伸ばす。その背を支えるように、サウザンドが身構えて受け止める。
「私の身代わりになって!走れって!私は走って、リオルさんが残って!」
由佳が話し出す内容を、サウザンドはただ優しく微笑んで、頷いた。
「狼が!狼が来たんだ!お願い!お願い!リオルさんを助けて!」
由佳はその瞳に貯めた涙を途絶えることなく溢し続けながら、自らの名を呼んだ、その相手に懇願を続けた。
「コージィ、この子を頼める?」
いつしかサウザンドの横に立っていたコージィは静かに頷く。
「だが、今から間に合うのか?」
コージィの問いに対して、サウザンドは首を横に振る。
「やれるだけやってみる。間に合わせてみせる。」
サウザンドは静かに剣を引き抜くと、腰元の袋からそれを取り出す。
「ちゃんと、そのために必要なイメージは貰えたから。」
折れた柄のその鋒側を掴んで、リオルは目の前に落ちた狼に喉にそれを突き刺す。
確かに目の前の狼はそれで絶命する。
しかし、直ぐに次の狼が駆けてくるその足音を、リオルの耳は捉えていた。
「慣れない獲物は、使うもんじゃないな。」
振り返ったリオルのその手首に激痛が走る。狼の牙が、手袋ごと皮を貫いて血が滲む。
そのまま、狼はそのまま絶命する。
丸ごと加えこんだリオルの右手には、由佳から借りたナイフが握られていて、それが狼の喉から先を突き破っていた。
だがそこまでだった。それが何匹目だったか、リオルは頭の中で数え直す。
「今までの悪夢の中じゃ、一番健闘したな。もう、次がないのは残念だが。」
腕の出血は、それほど深くないが、放置していれば致命傷となるだろうと感じていた。死して尚、噛みついて離れないそれを振り払い、手当をしなければならない事は解っていた。
しかしそれ以上にリオルに迫る、複数の足音が、その気配が、その猟の終わりを獲物に対して伝えていた。
「あいつは無事逃げ切れたか?だと、いいな。」
ため息を吐き、そこで漸く、大きく息を吸い込んだ。顔に血が巡り熱を持つのをリオルは感じていた。そこに恐怖や、怖気はなかった。
そうやって躙り寄る狼が一匹、月明かりに照らされて、リオルの目の前で身を屈める。
それは地面を蹴りつける合図のようなものだった。恐らくその数瞬後、その牙は自分の何処かに噛みついているだろうと、リオルは想像した。
狼が地面を蹴り上げる。その身体が自分に向かって宙を舞う。その瞬間までリオルは目を背けずに居た。
そしてその瞬間は訪れなかった。
狼はその腹を前後に分けて、リオルの視線上から逸れていく。
その牙はリオルに届く事なく地面に伏すと、その顔は数度痙攣し、そのまま動かなくなった。
辺りに濃い血の匂いが漂う。真っ二つになった狼の腹から地面に血が流れ出していた。
月明かりの中、一人、そこに立っている。
リオルの感想はそれだった。
それが、栗色の髪を靡かせて、自分に向かって唇を震わせている。
その言葉は聞き取れなかったが、それは自分に投げかけられただろう事だけはリオルは理解できた。
その姿が振り返ると、まるでしっかりと見えていた様に、狼が一匹、再び二つに斬り降ろされていた。それで、その人物が剣を携えている事を初めて認識した。
再び、血の匂いが辺りに充満する。
そして、自分に手が差し伸べられる。その姿を、なぜかどこかで見たような気がしていた。
いつもの悪夢の最期、その度にいつも自分たちが助け出される、悪夢の終了宣言。
そこに現れるのは、いつも同じ顔だった。
だから、自分に手を差し伸べてくるその顔が、一瞬、コウチ・トウコと重なった様に見えたのは無理もないと考えた。
それも一瞬の事で、リオルのその目には見違えるようなことなど無い、まるで別人が映り込んだ。
腕から、狼の牙が抜け落ちる。しかし、深く飲み込まれたナイフを引き抜くことが出来ず、リオルはそのナイフを握る強張った自身の手の方を緩めて、死体を振り払った。
そして同じく強張った反対の手で、差し出された手を取る。
それを合図にリオルの身体がしっかりと引っ張られる。
その麗人の唇は幾度か開かれるが、その言葉はリオルの耳に言葉として入ってこなかった。
そうしている内に、また数匹の狼が切り捨てられる。その全てが一刀両断だった。
手を引かれ、引かれるままにリオルは道を進む。
狼の遠吠えは、いつしか聞こえなくなっていた。それに気づいたのは、リオルが腕に耐え難い痛みを感じ始めた頃だった。
「リオルさん!」
その声に引き寄せられるように顔を向けると、リオルを見つめる瞳がそこにあった。
「噛まれたんっすか!腕がひどい怪我。手当しないと。」
腫れた目元で、自分に組み付いて、腕の心配をする由佳の顔を見て、リオルは漸く自分が現実へ引き上げられて居るのだと自覚する。
「手当をしてくれるみたいっす。早く、ここから離れよう。」
リオルは由佳の言うままに、ただ身体を引かれるままに、その場を離れていった。