潜入 越境
「この村から先には道がないみたいっすね。」
周囲を見回してきた由佳が、井戸の水を引き上げ掻き出していたリオルにそれを報告する。
由佳は方位板に乗せた磁石を回しながら、それを確かめる。
「井戸水の方は大丈夫っすか?」
リオルは手を止めて額の汗を拭い、由佳に振り返る。
「溜まっていた分は粗方掻き出した。暫く待って溜まっていく分は、マシだろう。一体いつから廃墟になっていたのやら。」
二人が恐らく最北になるだろう森林部の開拓村にたどり着いたのは、領主の館を出て丸二日が経過し、三日目になる昼前の事であった。
途中で経由した村が一つあったが、そこには住人が弔われることすらなく亡骸を野ざらしにされており、建物の風化がかなり進んでいた。風化していただろう建物が全壊している姿すらあった。
この村も、井戸があったものの、汲み上げた水は濁り、ひどい臭いを放っていた。
前の村同様、教会の中に数人の白骨が寄り添うように並んでいたのを見た由佳は、深く長いため息を吐き出した。
「二年とか、三年って話じゃないかも知れないっすね。そもそも、まともな領地運営をしていたのかも、怪しいっす。」
教会内の亡骸の脇に転がっていた、草布の袋。恐らく死の直前まで握られていただろうそれは、乾豆を備蓄するものとしてはあまりにも小さかった。そうした備蓄食料のあっただろう形跡は一切残されていなかった。
「この国は雑草すら、よっぽど条件が良くないと生えないっす。地面も硬いし、保水も悪い、木が栄養を持って行っちゃってる。だから、雨や雪に晒されて、最後の姿のまま、こうやって残される。嫌っすね。何度見ても。」
シギザ領に入ってから、由佳が無人となった漁村や農村で、度々見てきた光景だった。
「廃坑の入口が、雑草に埋もれていく、とか、地震で埋まる、とか。そういう名残が静かに消えていく感じすらないのは、いたたまれない気持ちになる。」
先の地震で崩れただろう家屋が幾つもあったが、この村ではその倒壊が奪った命は一つもない。その数字だけ見ていると気付けない、そういう悲惨さは由佳の気持ちを息苦しく締め付けていた。
「俺が生まれた頃は、この国もまだ、幾分かマシだったんだ。俺は地方領の役人の子供で、同じく地方領主の給仕の母との間に生まれた。だから、親父の赴任した農村や漁村に一緒に滞在して幼少期を過ごしたんだ。」
井戸の縁石に背を預け、足を休ませながら、リオルは話し出す。
「そりゃ、生まれて根っからの漁師や農民で、その村を出ることもなく一生を終える、そんなガキたちと同じ価値観には慣れなかっただろうさ。それでも、同じ豆を食って、教会の前で一緒に遊び、冬季は教会の焚き火の前で手をすり合わせて、同じ掛布に包まったんだ。どういう生活をしてるのか、元気でやってるのか、そういうのは毎年冬季が来る度に頭を過る。」
「無事なんすか?その昔の遊び仲間たちは。」
由佳は同じ様に隣に腰を掛けると、降ろした背負カバンの中から干し肉の入った袋を取り出し、二枚つまみ上げる。そして一枚をリオルに渡し、一枚を白い空を見上げながら口に食む。
「セッタ領の農村や漁村でな。後から親父の手紙で知ったんだが、最初の疫病騒動の冬季に、危なかったらしい。で、どういった幸運か解らないが、どちらの村にも、乾豆の袋を沢山積んだ荷車の商人が、井戸水と引き換えにそれを村に丸々置いていったそうだ。革袋に穴が空いて飲み水が無くなったので、積み荷の豆の全てと引き換えに水が欲しいってさ。」
リオルが干し肉を噛みながらする話を耳に、その内容に似た話をどこかで聞いた記憶が由佳の脳裏に浮かび上がる。その顔を思い浮かべながら、由佳は思い切り笑う。
「きっと、白いヒゲを蓄えた、歯並びの悪い独立商人に違いないっすね。」
「ああ、お前さんが言うなら、きっとそうなんだろうな。」
笑う由佳を見ながら、リオルも笑う。
煮沸と灰の撹拌で、飲み水を十分に確保した二人は、それが冷めるのを待って翌朝、村を立つ。
荷車が何とか走行できそうな悪路をたどりつつ、半日も立たないうちに、細く不自然な林道に出る。
「俺も実際に、スラール旧街道というやつに乗り入れるのは初めてだが、これの事か?」
リオルは草履を履いた右足で、地面の感触を確かめながら周囲を見渡す。
「そうだと信じるしかないっすね。後はこの道をどれくらい歩けばいいか、っすけど。」
方位板とレンゲ型磁石を眺めながら、由佳はその道が概ね、東に向かって直進していることを確かめる。そして沿岸沿いの港町を思い浮かべながら、今まで辿ってきた道と、それぞれの場所で確かめた方位を思い出す。
「バルドー国側から、サザウの王都まで歩いた記憶が間違ってなければ、半日も歩けば、国境を超えられる、と思う。捻った足の調子は大丈夫っすか?」
由佳の問いに、リオルは今朝、冷えた水で濡らされ縛るように巻きつけられたあて布と、その右足を見る。
「ブーツがそろそろ恋しいぐらいだ。だが、悪化している感じはしない。」
時折吹き付ける冬季の冷たい風が、気化熱と共に足から熱を奪い、痛みを含む感覚が鈍化しているのをリオルは感じていた。しかし、今朝その足に触れた時は、自らの手の温かさを確かに感じていたので、その事に恐怖心はなかった。
そうして二人は、僅かな木漏れ陽の中、静かに国境を超えていった。




