潜入 シギザの領館
「薄気味悪い所っすねぇ。」
石造りの建物が、森林部の前に佇んでいる。由佳たちがそんな場所へたどり着いたのは夕刻前の事であった。
「さっさと森に潜りたいところだけど、時間も危ういっすね。」
望遠鏡を向けて、館の様子を窺う由佳に、リオルは声をかけようか悩んでいた。
偵察に送られている衛士たちは、沿岸の交易道を中心に捜索活動をしている。
しかしそこからかなり外れている、このシギザの領館は調査が及んでいない場所であった。
国境を超えた、こちら側の拠点として、バルドー国が使っている可能性は勿論の事、サザウを騒動へと突き落としたコヴ・ダナウやコ・デナンといった館の主が、そこに滞在している可能性もある。
「やっぱりよ、さっさと抜けちまったほうがいいんじゃないか?」
もう一度、リオルはそれを提案してみるが、由佳は首を振った。
「誰かがいれば、明るいうちに近くを迂闊に通るのは怖いっす。多少、足元が悪くなるのを覚悟で夜を待った方がいいっすよ。」
そういって、由佳は注意深く望遠鏡を覗き込む。
その由佳がそうしている間、疎かになっている周囲や背後の警戒を、リオルは続けている。
ゆっくりと陽が落ちていく。
その領館にたどり着くまで走ってきた体の汗が、冬季の冷たい風に晒される。
「荷車に、綿毛を仕込んだ綿布の防寒着も入ってるっす。寒くなってきたなら使って欲しいっす。」
由佳は振り返らずに、リオルにそう伝える。
リオルは荷車の袋を幾つか明けて確認すると、その一つに件の防寒着を見つけて、それを手に取る。
「リゼウ国で今年から配給する新しい防寒着らしいっす。っと。」
望遠鏡を覗き込む由佳の目に、館の窓の一つから、内から外に向かっての光が付いたのが確認できた。
「やっぱり誰か居るっすね。ただ、雰囲気的にはごく少数かも。」
背後にたったリオルに、由佳はそういって振り返り、望遠鏡を渡す。
リオルはそれを受け取ると、先をシギザの領館に向けて、覗き込んでみる。
「確かに明かりが点いたな。コヴ・ダナウか、コ・デナンでも滞在してるのか。」
「それだったら、自分の家なんだから、不思議な事はないっす。ただ、見てる範囲では人が出たり入ったりはしていないっすね。脇を抜けたら、潜った森林部は安全かも。」
由佳は荷車に取り付くとハンドルを手に取る。
「待て、様子がおかしい。」
望遠鏡を握ったままのリオルが由佳を呼び止める。
シギザの領館の灯りは次第に赤みを帯びていく。
「ありゃ、誰かが灯りをつけたんじゃない。内側から燃えてるんだ。」
その言葉に呼応したように、瞬間、窓から炎が上がる。リオルは、由佳に望遠鏡を渡すと、とっさに駆け出す。
「そりゃ、明るくなっていいっすけど。」
由佳は望遠鏡をポシェットにしまい、ハンドルを握って地面を蹴ってリオルを追いかける。
二人が走ってそこに向かっていく間に、館に点いた火はその勢いを増していく。
沈んでいく陽に反して、二人が進む北の方角は朱に染まる。
その進行方向から、何かが向かってくるのを二人は視認する。
急速に迫ってるそれは、人の速度ではなく、近づくにつれて、馬だと由佳は認識する。
慌てて、ハンドルを切って進行方向を逸らす。条件反射的な回避行動だった。
先を走るリオルもまた、馬に気づいてとっさに足首を返して、前屈みに地面へと飛び込む。
その瞬間までリオルが居た場所を、速度を落とすことなく突っ込んできた馬が走り抜けていく。
「リオルさんっ!」
急な舵切りで体制を崩し、片方の車輪が浮き、サスペンションがその衝撃を吸収しながら前方のハンドルへ重心が傾く。その一瞬の間に、由佳の目の前でリオルが進行方向に飛び込んでくるのを視認し、声を上げる。
接触を回避しようと、更に身体を傾け、それをいなしながら由佳はバランスを必死に取るが、荷台の豆の草布袋一つと、リオルの預けていた槍がこぼれ落ちる。
由佳が何とか踏みとどまった時には、豆袋と槍は大分遠くになっていた。
「すまないっ!大丈夫か!」
慌てて身を起こしたリオルは右足に、違和感を感じる。とっさに目をやって、暗いながらも外傷がないことを確認すると、それは身体の向きを変えた時、足を軸にして捻ったのだろう事に思い当たる。
リオルの斜め前方左手に、由佳が荷車のハンドルを手に立ち止まっている。
浮いた車輪が反動を得て、地についた時、嫌な振動音がした事が由佳の耳には届いていた。
「やっちゃったっす。」
ハンドルを握って前に倒しても、荷車に違和感がある。その違和感が後輪にあると直ぐに察し、恐らくそれは、車軸を折ったのだと由佳は考察する。
「サザウ国の衛士と、荷運びか。」
二人にとって預かり知らない声が後背から響く。リオルは振り返ると、そこに薄暗い中、一人の男が馬に跨ってい立ち止まっていた。
二人の姿を暫く見ていたその影は、馬の尻を叩くと、再び駆け抜けて、領館とは逆方向に去っていく。
「まずいよ。早くここから離れた方がいいよね。」
由佳は口ずさむ。しかし荷車のハンドルを引いても、それはまともに動かない。
「リオルさん、どうしよう!」
由佳が立ち尽くしているリオルに声をかける。
「コ・デナンだ。」
「何言ってるんすかっ!」
「今の男は、シギザのコ、デナンだ!預けた槍をくれ!」
思わず足を踏み込んで、その馬を追おうと駆け出そうとしたリオルを、足の痛みと、由佳の手が引き止める。
「馬を追うなんてどうにもならないっすよ!荷車もまともに動かないっす。でもここから離れないと!」




