一つの国家の衰退
彼が家族四人、妻と息子、娘を乗せて、海へと逃げ出したのは、決死の決断であった。
昨年、サザウ国への征伐に追加徴兵されていった彼の兄は、冬季が明けても戻らなかった。
漁村は海岸沿いの交易道に近かった。
征伐の動向は、兵士たちに向かって送り出されていく食料の荷車を見れば予想できると、聡い仲間が言っていた。実際に豆をのせた荷車は、兵士たちを追って幾度も送り出されていった。
しかし、冬季を半ばも過ぎたある日、その荷車は空荷でやってくる。
村の教会にその荷車は止まり、村の蓄えから豆の袋を徴収して、サザウ国の方へと向かっていった。
そんな事が二度続く。
三度目にやってきた時、そうして他でも集めただろう豆の袋も積んだ荷車が、サザウ国側ではなく、逆方向の王都方面へと引き返していった。
四度目にやってきた時、荷車に同伴した兵士は、一の豆、二の豆の備蓄がもうないことを知ると、僅かな畑から収穫した最後の三の豆の蓄えに手を出した。
それに抵抗した村の顔役は、随伴した武官に馬の上から槍で突き殺された。
五度目にやってきたそれは、政官であった。
政官は、既に武官が徴収して行った事を伝えても、それを聞き入れず、三の豆を積んでいった。
政官が情けとばかりに僅かに村に遺した豆では、生きていくには十分な量ではなかった。
漁業を生業にした村人たちは、それでも生き残るために、冬季の最中も海へ舟を出した。
彼もまた、舟に乗って、凍える海へと網と釣り糸を持って幾度も繰り出した。
数人の仲間が、手を誤って海へ落ちて、凍え、そして浮かび上がる事なく沈んでいった。
僅かな魚と、朽ちた舟を割って作った薪で、残った者は飢えを凌いだ。
そうして六度目の空の荷車が武官とともにやってくる。
村人たちは、海岸の岩場の隙間にある洞穴に身を潜め、それをやり過ごす。
足元まで冷たい海の水が満ちてきて、彼らは全身が冷え切るまでそれを隠れ通した。
潮が引いて凍える手で焚いた火の前で、年老いた熟練の漁師が、冷たくなったまま、息を引き取った。
長かった冬季に終りが見えて、家族は涙を流してそれを喜んだ。
その頃には、村人は彼らを含めて三家族程度、十人を超えて少しと言った数にまで減っていた。
浜へ出た家族を待っていたかの様に、大きく地面が揺れたのはその少し後だった。
遠く北の山々に煙が上がり、冬季を隠れて過ごした岩場の洞窟は崩れていた。
村を振り返れば、家屋が幾つも崩れ、とても住めるような状態ではなかった。
そして、雨が振り始める。雨風を凌いで過ごせる場所を失った彼らは、使えそうな家財を集めて舟にのせ、村を捨てる覚悟をして、雨の中、海へと繰り出した。
沿岸を流れて、王都と逆方面、サザウ国側へと船を漕ぐ。
途中で一隻が沈み、その舟に乗った家族が犠牲になった。
漁村や港町を見つけては、目を盗んで乗り上げる。その尽くが無人で、蓄えも何もなかった。
地震で崩れた家屋の廃材を拾っては、数日はそこで焚き火と漁をして過ごす。
そうして、ある日、もう一つの家族と騒動が起こった。
彼の家族の娘を、相手側の主人と息子が手を引いて連れ去ろうとしていた。
逆情し、気がついた時には、泣いて許しを懇願する相手方の妻と、ぐったりとして動かなくなった男とその息子、泣いている自分の娘がいた。
自分の息子が血まみれの縄切りナイフを持っていた。自分の手には焚き火の薪が血濡れて握られていた。
それで何が起こったのかを理解した彼は、翌朝、浜辺に座り込んだままの一人遺された男の妻を置いて、静かに家族で船を漕ぎだした。
一隻の舟は、家族を乗せて沿岸を征く。
雨季の雨が終わり、乾季の日差しがやってくる。
漁村や港を見つけては、廃材を拝借しては焚き火を起こす。そこに潜んで、数日を過ごす。
サザウ国、王領の海岸に、一隻の舟が打ち上げられたのは、三の豆の収穫が終わった頃の夕刻であった。
沿岸の交易道を行くハヤテの荷車の一団と護衛の衛士が、足を止めて、舟の側に打ち上げられていた一同を介抱すると、彼らは叫び声を上げて興奮し、暴れながらも、やがて落ち着いていき、泣き出した。
荷車から、彼らの道中の豆と干し肉が分け与えられ、その夜の焚き火が起されると、押し黙っていた彼らは、その身の上を静かに語りだした。
そして、その海岸がサザウ国であることを知ると、征伐という言葉を口にし、ディル領へ進軍していったバルドー国の兵士の所在を尋ねた。
「全てを信じる訳にも行かないけど、言葉の通りなら酷い有り様だね。」
ハヤテと護衛の衛士に伴われやってきた、四人の話を取りまとめるなり、幢子は深いため息を吐いた。
「相手国の話を知ってもさ、辛いだけなんだよ。彼らが、こっちの事情を理解して、受け入れてくれるとも限らない。」
そう口に出しても、ポッコ村に家族が入る事を受け入れたのは、それに合流し、一緒に戻ってきたエルカがそれを望んだからというのが大きかった。
そう言われ、その内心を理解しながら、それでも、エルカは幢子の目を静かに見つめる。
それは、彼らの目が、王都で見てきた、失望に沈んで日々を過ごしていた人々と重なる部分を感じていたからであった。
「わかったよ、エルカ。考えてみる。」
そういって、幢子は漸く帰ってきたエルカをその腕でしっかり抱きしめる。
その腕の大きさに、エルカは自身の安堵と、久々の安心感を感じていた。
「おかえり、エルカ。一人で頑張って、帰ってきてくれて、ありがとう。」
幢子はそうして、エルカを抱きしめながら、その髪を撫でた。




