答えへの手引
「卒業後、学舎に訪れる者は少なくないが、君のような例は珍しい。」
学長はときおり顔を出すようになったその顔に、ふと声をかける。
「トウコ様が領地から出られない以上、私が調べられる事はしておきたいのです。」
件の写本の頁を丁寧に読み解くエルカの姿を、学長は何度か見かけていた。
雨が降ったその日の、僅かな時間だけエルカは王立学校の書庫に訪れると、本を捲る。
乾季に入った以降は雨も滅多に降らなくなったが、エルカの役割を代わりに引き受けてくれる、衛士隊付の詩魔法師に場所を任せて、そうして僅かな時間を積み重ねていた。
「嘆きの導師、か。黒髪黒目の者達と縁の者だったとはな。」
エルカの向かいの椅子に座った学長は、その物静かに本に向かう姿勢を目出度く思いながらも、少し口を出す事を決心する。
「学舎の講義でそれを説く機会は少ないが、少し、私の話を聞きなさい。嘆きの導師に関するものであれば、その本に限ったものではない。書庫を回って新たに本を探すよりは良いだろう。」
エルカはその言葉に、捲りかけたページの端を引く指を止める。
「嘆きの導師、とはどの様な人だったのでしょう。」
エルカは、率直で素朴な疑問として、その名前に当初から抱いていた疑問を尋ねてみる。
「多くの書籍では、自らの功績を誇らなかった、むしろそれに依って自身や周りが変わっていく事を、嘆いたと言われている。自身の名前を、自身で残す事を嫌ったと。誰かが導師を誇れば、それを否定し、ただ嘆いたと。ほんの十数年の間に、土地の有り様すら変えてしまった程にも関わらずだ。」
その話の一部を聴いて、エルカは脳裏に、親しく、大切なその顔を思い浮かべる。
「そうだな。コヴ・トウコにも一部通ずるものがあるやもしれん。彼女もまた、このスラールの有り様を大きく変えつつある。或いはそれは、ホソカワ・ユカ、キョウゴク・エイジと言った黒髪黒目に共通する項目であるかもしれん。しかし、嘆きの導師の容姿について記したものは、導師自身がそれを特に禁じたと言われているから、遺されていないのだ。」
「では、嘆きの導師の残した功績、というのはどういうものなのでしょう。」
同じ様に、幢子の生み出した品々や、成してきた物事を思い浮かべながら、エルカはそれを尋ねる。
「その一つは、中央教会、我々の土地にも名残を残す、そうした集まり、宗教なるものを、根幹から破壊したと言われている。それは、嘆きの導師について記された書籍ではなく、ここより遥か東方、バルドー国の東の海峡を超えた、大陸の更に東の果て、導都アンジュ都市連合国と呼ばれる国、或いは東泉導教について記された書籍がむしろ詳しい。」
学長は腰掛けていた椅子を離れると、まるで見知っていたかのように一冊の本を手に取って戻って来る。
「問われる事があるだろうと思ってな。あれから私も少し本を囓ったのだ。当時存在した中央教会と言うのは、東の大陸全土に根を張っていた。海峡を超えた此方側にも、『教会という建物』を遺している程、影響力があったという。後年、スラールが建てた物もあるが、当時から手を加え、今も残り続けるものが殆どだ。此度の地震にも、大きく被害を負ったものも無いと聞く。それが組織としての力でもあったのだろう。」
「当時、一つの都市に過ぎなかった導都アンジュ、そこに滞在した嘆きの導師と対立した中央教会は、数多くの失態と共に、その権勢を急速に失っていったという。幾つかの妙が繋がって、アンジュが一つの国として成り立った時、東泉導教が誕生し、嘆きの導師に代わって、東泉導教が中央教会と対立するようになった。」
「その際に大きく広まったのが、二の豆と、詩魔法の豊穣の祈りだ。この二つが、奇跡の存在を明確に示し、或いは東泉導教の働きによって、大陸に存在していた中央教会なるものは、それを信じる者が消えていったと記されている。」
そこまで述べると、学長は開いていた本を閉じ、机の上に静かに置く。
「だが、ここにある書籍はそれ以後に記されたものや、その写本に当たるため、それより古い記録は掘り下げられなかった。実際に、中央教会がどういったものであったのか、或いは、その没落の原因となった当時の事件など、その知見を深めるには不十分であった。」
その本を、学長はエルカの前に差し出す。
「今述べたような内容が、この本に記されている。君が持っていなさい。もう写本を作成しておいた。持ち出しを許可しよう。君が読むのでも、コヴ・トウコに預けるのでもいい。より原本に近いものの方が良いだろう。」
「写本のための、お時間を取っていただいたのですか?」
エルカは静かに微笑む学長の目を見て、僅かに恐縮し、目を踊らせる。
「王都の民の安寧のため、本を読む時間すら取れず、詩を捧げる懸命な詩魔法師に、王都の民の一人として何か出来る事はないか、と考えたまでだ。そしてそれは、もう一つの問題の答えへの手引でもある。」
そうして、学長は未だエルカの手元にある本を指差す。
「ただ読むのではなく、手に書いて文字に馴染む事で、より深く知識に触れる事ができるだろう。そうすれば、その本をまた別の何処かへ運んでいく事もできる。それも、かの東泉導教が広めた事の一つだ。」
次にエルカが書庫に訪れた時、その手には紙と鉛筆がしっかりと握られていた。




