初めての戦い 健やかなるを祈る
エルカは、霧雨が降る中、迫りつつあるそれを、思いながら、心を落ち着けていた。
幢子に任された、衛士たち二百名の、命。
共に支えてくれる、衛士付き詩魔法師たちも居るものの、それを預かる重責。
それでも、そこに立っていたのは、過ごしてきた日々と、経験に依る、自身の成長だとエルカは感じていた。
怯えも、怖さも、不思議と無かった。そこにあるのは少しの不安だけだった。
戦って、勝つための策も、備えも、ここにこうしているまでのあらゆる支援も。
幢子がそれを考え、準備し、或いは調整している所を、エルカは側で見てきた。
幢子のしてきた全ての事に、自分たちは期待し、その結果を信じてきた。
そしてそれを手伝って来た事と何も変わらない。その事に、強く自信を持っていた。
霧雨が降っている。こうなると、オカリナは使えない。
しかし、エルカはそこに不安はなかった。不安があるとすれば、幢子の無事だけだった。
同じ様に雨が降っていたあの日。
あの日も、憧れていた詩魔法師は、一の豆の苗を前に、豊穣を祈り詩を唄っていた。
あの頃に、この首から下げたオカリナがあれば、今の自分が彼の傍に居たならなと、エルカはあれから何度も夢に見た。
同じ様に雨が降っている今。
事前に、戦場には、昨年収穫した、強い一の豆が蒔かれている。
「始めます。」
エルカがそれを言うと、衛士長は全員に合図を送る。
エルカの目、その遠くには、バルドーの兵たちが見えている。それは現実であった。
「らー。らーららー。」
オカリナを用いない事に、詩魔法師たちは、ハッとする。
事前の打ち合わせでは、雨であっても、オカリナを用いることになっていたからであった。
エルカはオカリナでそうする様に、自らの声のチューニングを取りながら、ヘッダーの音階を紡いでいく。
幢子がそうする様に、そうして自分と、詩魔法を研究したように。
自分の心を、その思い描く幢子の姿と重ねて。
『芽吹けよ、豆よ。雨季は来たれり。』
思い描く。あの時、憧れた詩魔法師は何を願って唄っていたかを。
『豆の目覚めは、人々の糧。』
詩は、きっと、歌詞以上の意味を持っていたのだと。
音を奏でるオカリナは、音階に願いや歌詞を思い描く。だから余分なものはない。
『芽吹けよ、豆よ。日々は来たれり。』
けれど人が歌詞を口ずさみ、それを詩とすれば、歌詞は、歌詞以上の意味を持つ。
誰を思って唄うか、何を思って唄うか。そういった感情も、魔素と一緒に流れ出す。
『豆の目覚めは、明日への糧。実りし豆は、我らを育む。』
あの日、倒れたあの人は、何を思って歌詞を口ずさんだのか。
それは、もしかしたら、詩魔法に憧れ、それをせがんだ自分が、健やかに育つを願って、この歌詞を唄ったのかと。
『芽吹けよ、豆よ。明日は来たれり。』
エルカは身体から魔素が多く流れ出すのを感じる。
それはオカリナでの放出に慣れてきたからこそ、より確かに自覚でき、そしてその量を自分でしっかりと手繰ることが出来た。
本来ない、三節目を口ずさんだ時、その歌詞を自身で考え、紡いだ時、エルカは強く覚悟する。
『豆の目覚めは、我らの糧。共に願うは、この詩を。』
『この地を住まう全てのものに、健やかなる明日を。』
エルカは手放しそうになる意識を支えながら、詩にフッターを紡ぐ。
魔素の流出が急速に収まっていく。
顔が上気し、額に汗が吹き出るのを感じ、そして背筋に寒気が襲ってくる。
「エルカ殿!」
近くに居る詩魔法師たちが慌て、魔素を分け与えるために、オカリナに口を当てる。
しかしそれを、エルカは手で制す。
「大丈夫、です。それより。」
倒れ込まないように膝に手を当て、身体を支えながら、エルカは指差す。
戦場が出来上がり始める。
幢子が想い描いた、その舞台が、完成の時を迎えようとしていた。
エルカの祈りに答えるように、それ以上に、広く、高く、豆は苗となり、苗は水を吸って伸びていく。
そして、それに応えるように、霧雨は止み、雲の切れ間から陽の光が射す。
「すぐ、息を整えます。大丈夫、です。作戦を、始めてください。」
エルカの表情とその言葉に、詩魔法師たちは意識を切り替える。
懐で濡れないようにしていたオカリナを持ち、衛士たちに滑走の付与を願い始める。
「私は、唄いきれました。やっと、貴方に、追いつけました。でも。」
エルカは、首から下げ、服の下に隠していたオカリナを手に取る。吹き口に唇を当てる。
「私は、もっと先へ行きます。トウコ様と、一緒に。」
エルカは願う。祈る。そうして音階を奏でる。この舞台が無事終演を迎えられるように。
陽の光が、少し冷えた身体に心地よく感じていた。
エルカの身体を支えるように、それは正面から全身へと降り注いでいた。
「作戦開始だ!」
そんなエルカの姿に目を奪われていた衛士たちに、衛士長の激が飛んで、各々が飛び出していく。
「エルカ殿、まだ始まったばかりだ。今は無理をせず、息を整えてくれ。うちの詩魔法師たちも触発されて張り切っている。活躍させてくれんと、立つ瀬がない。」
衛士長は振り返らずに、背を向けたままエルカにそう伝えると、自らも槍を構えて飛び出していった。
海からの一陣の南風が戦場に吹き込み、霧を晴らすように、一面の草を扇いで駆け抜けていった。




