取り返しのつかない失策
俄に、その場の様相が変わり始める。
雨の水にぬかるんだ地面は、得体の知れぬ植物に覆われ、緑色が彼らの足首まで伸びていく。
急速に地面が硬さを帯びていく。まるで水を吸い上げるようにして。
そしてそれを待っていたかのように、バルドーの兵士たちの目には、自分たちに向かって一斉に走ってきているサザウの衛士たちが確かに見えていた。
「矢を放て!三本を打った後、槍を以て突き進め!」
武官の号令が飛び、矢が放たれる。だがそれはまだ遠く、敵に届くことはなかった。
そして間もなくの二射目、三射目も同様であった。
しかしその威嚇が功を奏してか、サザウ国の衛士たちはその場に足を止めたかに見えた。
槍を持った兵士たちが、草の中へと踏み込む。踏み込んだ足は、草の下で確かな踏み応える地面を掻き、次の一歩を軽くする。
踏み込んだ違和感の無さが、突き進む速度を徐々に押し上げる。
雨が止み始める。雨季に散見される急な天候の変化は、その前身の背中を更に押した。
バルドーの兵士の前進を見てか、それを恐れてか。
サザウの衛士たちは、槍を打ち合わせることなく、後退りをしながら徐々に下がっていく。
先を開いたサザウの衛士たちの前進距離は、突き進むバルドーの兵士たちに詰められて行く。
一定の距離を保つように、その距離は詰まることがない。
確かにそう見えた。
少なくとも、馬に乗って、その兵士たちの背を見ているだけの武官には、自分たちが前進できていることだけは理解できていた。
弓を持つ者も、距離を離されぬようにその手につがえた矢を筒に戻し、槍に持ち替えて前進を始める。
八百人。それが、その戦に臨んだバルドーの兵の数である。
対して、サザウの衛士の数は明らかに少ない。優勢であり、勢いもあった。
ふと、幾人かの兵士が足を止める。足を襲った激痛に声を上げ、かがみ込む。
その背中に行く先を阻まれ、また別の兵士が勢いを殺す。或いはまた別の場所で、声を上げかがみ込むものが居る。
激痛に足を止めた者は、自らの足の裏を突き破り、甲を抜けて尚、突き出る何かを直視する。
だが全員ではなかった。一人、二人と足を止めても、その後の者が前に出る。
特に、中央を進む部隊は「誰一人として」、直進を止める者は出なかった。
多くの者はその背を追った。その勇猛さを追った。
次に襲ってきたのは、矢の雨であった。
直進を続けている中央だけが、飛んでくる矢の標的となった。
身体に四本の矢を受け、その一本が頭を貫いた者が居る。
その者がその場で固まれば、それを押しのけて後ろの者が前に出る。
そこへまた、狙ったように矢が複数本、突き刺さる。
勢いが止まる。餌食となった者達が、後続の前進を阻む。
しかし後方からも次々と味方が突き進んでくる。
前と後に押しつぶされるようにして、左右へその膨らみが増していくと、再び、足を突き刺すトゲが彼らを襲った。
屈み込めば、そこを矢が狙ってくる。倒れ込めば味方に踏み潰される。
気がつけば、死体の山が出来上がっていた。
まだ誰も、サザウの衛士と槍を交えていない。にも関わらず、死体ばかりが増えていた。
そこへ襲ってきたのが、後方の自軍から放たれた、詩魔法師の付与を受けた矢であった。
「撃て!撃て!」
取り乱した武官が、激を送る。詩魔法師たちは弓手たちに遠打ちの祈りを唄い、弓手は恐怖と武官の指示のままに、味方のその先のサザウの衛士たちへ向けて矢を次々と放つ。
後少し。後少しが届かない。
測ったように、それが届きそうになると、相手が後退する。味方の死体を踏み、踏み越えて進んでは、足にトゲが突き刺さる。
それを恐れて、及び腰となった矢は、遠打ちの祈りを受けて尚、後少しが届かない。
背中の矢筒に手を伸ばす。そうして、矢筒に矢が無くなった事に初めて気づく。
「槍を構え、進め!進め!」
馬に乗ったまま、武官が叫び散らしている。
進めば、草の中に隠れたトゲが足を貫くか、相手の矢が飛んでくる。
一緒にここへとやってきた仲間は、足をやられて戦意を喪失しているか、味方と敵の矢に射抜かれて既に息を引き取ったか。
八百人。それが、五体満足な者は、どう見積もっても、百かそこらしか、残っていなかった。
だが、後方の沿岸の交易路上には、後を続く物資の輸送部隊が二百は残っていたはずである。
「ひ、引け!引け!」
激と共に馬が背を向けて走っていく。流されるままに、敵に背を向けて走り出すものが居ると、そのままに、それが弓手と詩魔法師たちの撤退の開始となった。
戦場にはまだ、生きているものが居る、足の痛みに叫ぶものが居る。
しかし彼らに、癒やしの祈りも詩も届くことはなかった。
逃げた先で、漸く、沿岸交易路へと乗り上げた武官とその馬は、振り返り警戒しながら後続を待つ。
一目散、駆けてくる兵士や詩魔法師に、連携はもう無かった。
取り返しのつかない失策。不名誉な敗軍の指揮官。失われた兵士と、彼らが国へ残したその家族。
それらが頭の中を駆け巡り、純粋な恐怖が彼の脳裏を支配する。
「!!」
恐怖が支配するその目に、立ち上る煙が見える。進行方向の遠くに、確かにそれが見えた。
馬の尻を打つ。それを合図に、馬は走り出す。
駆けども、駆けども、恐怖とさらなる不安が心の中を追いかけてくる。
やがて、それが遠目に飛び込んでくる。
後方に残り僅かな豆と矢、換えの装備を、その荷車に乗せて待機させていた輸送隊。
そして、それを護衛させていた百を超える兵たち。
それが、恐らく死体となって転がっている姿。火矢に焼かれているであろう荷。
近づく事が恐怖となって、馬の口輪を引く。
サザウ国の衛士たちではない、それをしたであろう敵の姿も、彼にはまた見えていた。
それを、運の悪い事に、知っていた。
「リゼウ国の、兵士、だと。」
その内の一人が、赤く血のこびり付いた剣を手に、彼に気づいてか、向きを変え歩き出すのが見えた。
はだけて乱れたままの金色の頭髪をそのままに、手に持った剣を持ち直し、そして歩くのではなく、走り出す。
「に、逃げろ!逃げろーー!」
いま来たばかりの道へ向かって、武官の馬は、再び走り出した。




