ふた昔前の失恋歌
「ようこそ、サザウ国王立学校へ。コヴ・トウコ。まずは貴方の、コヴ就任を祝わせて欲しい。」
騒動の際、一目、その姿を見たかと言った程度の相手に、深い礼を払われ、幢子は萎縮する。
「頭をお上げください。学長様。ええと、お初にお目にかかります、でいいのでしょうか。」
幢子がそれを受けると同時に言葉をかけると、学長は頭を上げ、手を差し出す。
「河内幢子です。ちゃんとご挨拶をしておくべきでした。」
「先刻の議事の場にはおりましたが、次の対面がこの様な形となるとは、お互い、あの騒動の頃には思いもしませんでしたな。」
学長は、記憶の片隅にしか無いその出会いをどうにか引き出しつつ、手を握り返す。
「あの時は、それこそ、村で過ごしてたままに来ましたから。」
「どちらの姿が、似合っているとは言いますまい。姿ではなく、実績にて示していらっしゃる。先見の明がなかった、我が目をこそ戒める必要がありますな。」
エルカが先導する道を、幢子は学長と並び歩く。
まだ陽も登りきっていないというのに、周囲はまるで虫の声も息を潜めるように、静まり返っている。
「学院に来たのは初めてですが、静かなものですね。」
ゆっくりとエルカの背を正面に眺めながら、幢子はその静かな石畳を歩く。
「そうかも知れませんな。いま学院に残っている者は、勉学や研究に深く打ち込む者の方が多く、そうでない者は、ここを離れて、雑事に追われている、と言った所でしょう。この一年で、ここは大きく変わってしまった。」
正直、幢子としてはこの学院の雰囲気が耐えられないでいる。それは、自分の学生時代の学舎の印象からであった。しかし、嫌悪感ではなく、もどかしさのようなものに心は満たされている。
ふと思い立って、幢子は視線を振り、その中庭を見る。
中庭の向こうの廊下を、幢子の方を見てたと思わしき若者の顔が、慌てて逸らされた事に気づく。
「物珍しさがあるのでしょう。黒髪黒目という容姿は目立つのかと。或いは、耳聡い者は既に噂でご存知なのやも。」
そう言われ、気恥ずかしさの様な感覚が湧き上がると共に、幢子の脳裏には自身の学生時代が過る。
もうきっと、振り返ることもないだろう、そう思っていた学生時代。
その記憶の中には、変わり者を自覚する自身には僅かではあったものの、友人たちとの懐かしい交流があった。
幾つかのエピソードを、少しだけ思い返し、幢子は僅かに郷愁にかられる。
丁度、電子の世界に興味を惹かれ始めた頃で、学校の一室で、半田ゴテを握っていた。
プログラム言語の沼に入る少し前、理解を得難い人との交流を、まだ煩わしく感じながらも細々と続けていた頃。
少しくらい静まり返った空間の方が、好ましいと思うくらいには。
「トウコ殿の識見は、どの様に学ばれたのか。私はそれが気になっておりますな。そしてそれは、遠からず学生にとっても話題となるでしょう。」
苦笑いを浮かべながら、幢子は前を征くエルカの背中を追う。
ここ数日の喧騒から比べれば、静かでただゆっくりとした時間が過ぎていく。
「こちらです、トウコ様。」
エルカが扉の前に立ち、それを静かに押し開ける。
幢子がそこを覗き込むと、学校の図書室を思わせる空間に、この世界で初めて見る数え切れないほどの本と、それを食べる本の虫の姿が見える。
並ぶ本に後ろ髪を引かれるものの、その時間がないだろう事を幢子は悔やむ。
この世界の、歴史、技術、匂い、それらが詰まったまだ見ぬ何かに、幢子は世界が俄に彩られて行くのが感じられる。
「書を残す。その根底は、遥か東方に或る東泉導教という者達が、三百年以上前から実に熱心にそれを広めましてな。スラールも、その入植を始めて当時はそれを手本としていたと言います。今は本を書き記す行為は貴族の手記や、王立学校を出た者が自らの記録にそれをするのみです。」
「しかし、その古い知識や記録には、今も感化される事は多い。用いることの無くなった風習、失われた技術、過去を生き、支えてきた人々の知識や識見。厳しい土地に、生きる事にただ追われている我々にとっては、それらは掛け替えのない資産であり、そしてまた、世界が変わる時代にそれが生きるのであれば、ここの本たちも、それを勧めた東泉導教も本望でありましょう。」
学長の言葉に、いずれまたここに来て、本を手に取る機会を必ず得たいと決心を固める幢子に、前を歩くエルカが足を止め、本棚に向かう。
そして一冊の本を取り上げると、それを幢子に向かって差し出す。
「嘆きの導師、が、この本のタイトルかな?」
幢子は渡された本を受け取り、表紙の題字を指でなぞって読み上げる。筆者と思わしき名前もそこに添えられている。
「件の東泉導教、その居に、導都アンジュ都市連合という国があると聞きます。もっとも、どの様な国であるかは、遠く離れたこの国でそれを見て知るものはおらんでしょう。類する書籍は写本としてこの部屋に幾つかあります。しかし、そうか。嘆きの導師、か。」
学長の言葉に、幢子とエルカは静かに目と耳を傾ける。
それを察してか、院長は目を閉じ、言葉を組み立てていく。
「東泉導教と嘆きの導師の名は、書にのみ残るのではありません。それは、歴史として、詩魔法の起源にも深く刻まれています。嘆きの導師の起こした様々な奇跡に、詩によって起こされたものが幾つもあったと。」
幢子は徐ろに、本の表紙を開き、パラパラと紙を捲る。
「あ。」
そこに記された物に、目が留まる。
『黄昏の空 描く筆 ふと止めて』
『窓の外 キャンパスと見比べて ふと気づく』
「トウコ様?」
突然、それを口ずさみだした幢子の顔を、期待と笑顔と共に、エルカが覗き込む。
「待ってね、エルカ。多分読めるよ。写本した時に、誤字になってるのもあるけど。」
目の前に記されたものを、ゆっくりと指でたどりながら、幢子はその文字に心を傾ける。
『君の姿 風の音 草木の香り キャンパスに描ききれない思い出』
『ただひとつ 嘘の絵の具で 描き足すなら』
『君の顔を笑顔にしておこう ばれないように』
「はははは。おかしいねこれ。こんなのおかしいよ。」
幢子は笑い出す。指を辿りながら、頬に自然に溢れた涙が伝う。
「エルカ、私が読んでる言葉の意味、わかるよね?」
「はい。単語ではわからないものがありますけれど。」
エルカは何故それを幢子が問うのか解らず、感じたままに答える。
『月明かりの空 描く筆 ふと止めて』
『窓の外 欠けた月眺め ふと気づく』
『君の姿 照らす明かり 落とす影 思い出しても描けない面影』
『ただひとつ 嘘の絵の具で 描き足すなら』
『私の顔を笑顔にしておこう 幸せなように』
幢子はただ、目の前に記された文字を読み上げる。一部の文字を補完しながら。
「なんでだろう。変なの。こんなの変だよね、エルカ。気づいてなかったのって、おかしいよね。」
幢子は笑う。ただただ、笑う。笑いながら止まらない涙をそのままに。
意味もわからず、エルカはただ、戸惑う。傍に佇む学長もまた、ただ戸惑う。
「私が読んでるの。日本語なんだよ。なのに、読み上げてるだけで、エルカに意味が伝わってるって。エルカは、この文字読めないんだよね?そうでしょ?なんで翻訳されてるの?なにこれ。口に出すと、翻訳されちゃうの?しかもこれ、知ってる歌だし。なんでこんなのこれに書いてあるの?結構マイナーな曲のはずなんだけど。話してる言葉が日本語で、文字だけ日本語が失われたってこと?まさか。そんなはず無いよね。だってこれ、この国でも使ってる文字も書かれてるし。訳わからない。なにこれ。バグっちゃったかな?私おかしくなったかも知れない。」
壊れたように言葉を繋げる、幢子の突然の有り様に、恐怖を感じてエルカは目を閉じる。
それから、しっかりと目を開いて、幢子の正面に立つ。
「トウコ様!しっかりしてください!」
そうしてエルカは、幢子の頬をその平手で叩く。
「!」
幢子は持っていたその本を取り落とす。そして、驚きを持って目に涙を溜めるエルカの顔を見る。
「何が解ったのか、何を感じたのか、ひとつ、ひとつ、ちゃんと教えて下さい。それが解らなければ、大事な順から、思いついた所から、ゆっくりでいいですから。」
エルカは必死に思い出す。コ・ジエが幢子の暴走に触れた時、どうしてそれを制していたかを。どう言ってそれを整理させていたかを。その記憶を必死に手繰り寄せる。
「エルカ。そんなのわからないよ。私にもわからないんだよ。」
幢子は、真剣な眼差しのまま見つめるエルカを前に、静止した感情のまま、流れ続ける涙をそのままに、それを答えた。
『キャンバスの中は 優しさであふれる』
『思い出も現実も いつかは色褪せていく』
『せめて絵の中だけは どこまでも優しい世界を』
『ただひとつ 嘘の絵の具で 描き足すなら』
『貴方の顔を笑顔にしておこう ばれないように』
「懐かしい歌だ。」
「あら、そうなのですか。この間、読んだ本に書いてあったのです。」
雨の降る窓の向こうを眺めながら、コ・ニアは口ずさむそれを止め、声を発する。
「Bパートが好きなんだ。それが夜の街に溢れる明かりの光景に合っていると、教えてくれた奴が居る。それに。」
「それに?」
「大事な方が、私達のために祈って唄ってくれた、特別な詩の魔法だ。」
「そうなのですか。その方にも、いつか、会ってみたいですね。」
遠く東の彼方を眺めコ・ニアは、雨に曇る窓ガラスをその白い指でなぞった。




