学に投じ、人を得る
「先刻の議事の場は、恐らく歴史書に残るだろうな。この国が生きながらえるのであれば。」
王立学校に学長と共に訪れたコ・ジエは暫く振りの学舎に、目を向ける。
疎らながら、生徒の気配がある。時間的に言えば、生徒はもう寮へと戻っている時間であった。
「しかし、コ・ジエ殿と戻ってくれば、ヤートルの原基、増厚紙の束と鉛筆が学舎に届いている。早速と話題が事欠かぬ。困った事に、こちら側はどう対処すればいいか、その渦中にあまり深く関わってこなかった。ブエラの言う、上手い付き合いというのが解らぬでな。」
昨年の騒動の際、共に登城をこそしたものの、個人の付き合いと数合わせとばかり思っていた事が、学長には今でも悔やまれる。
その性質故に、積極的に関わりをすることは憚られるにしても、せめて交流だけでも持っていれば、事前に行えたこともあったのではないかと。
「学長殿とて忙しい身でありましょう。こちらが迷惑をかけるのです。むしろこちらが恐縮すべきことでしょう。聞けば、例の香草の件以来、学内を検め、厳しく取り締まられたとか。」
「国政を惑わす程のものであれば、それとの関わり合いを早い内から戒めるのは、学舎の勤めであろう。事実、香草を用いた者、香草を運ぶ者、或いはそれを誘う者など、親に言われるままに従っていた者も多かった。結果、その父母を、罪地へと送る事になってしまった。」
「騒動の大きさも手伝って、この一年は、驚く程に真面目な学生が増えた。この時間となってまだ学舎に残る者も、友人から交流の名の下に学ぶ事を強く咎められるような事が無くなって、羽根を伸ばしているといった手合であろう。」
学長が苦笑いを浮かべて、光の漏れる窓の一つを見る。
「我が領のコヴと話が合いそうですね。あれも、時間を与えれば与えただけ、深く没頭し、自他を顧みぬ所があります。そして顔を見せた時には、何かしらの大騒動が始まるのです。」
コ・ジエは目を伏せ、数々の事例を思い出しながら、額の汗を拭い、深い溜め息をつく。
「さて、どうやら目的地にも明りが灯っている様子。本の虫が何人、籠もっている事やら。」
学長は足を止めると、咳払いを一つ、そして憚られる事なく、ドアのノブを引く。
荷を運んできた由佳と待ち合わせをし、共に王立学校へと足を運んだエルカは、下調べとして書庫へと駆け込んだ。
しかし、その本を探すのに難航し、気がつけば、あまり関係のない本にまで食指を伸ばし、過去には読み解く事も理解も出来なかったそれらが、その埋もれた知識を露わにしている事に驚いていた。
時を忘れて、既に五冊目となる詩魔法に関するだろう書籍に手を伸ばした時、咳払いと共に、部屋に踏み入ってくる人物を認めると、その本を抱え、しゃがみこんだ。
「寮に戻る時間は愚か、夕食も終えそろそろ就寝も観えるこの時間に、文字を食べる虫が随分と潜んでいるようだ。明日の学業にまで差し支えるようであれば、学長としてそれを咎めぬ訳には行かぬのだがな。」
その声が聞こえてくるなり、ガタガタと騒ぎ、早足の音を立て始める虫たちに、エルカも取り置いた本を手に掻き集め、その流れに乗る。
「学外の者が、学外へ本を持ち出すのは、窃盗ではありませんか?エルカ。」
エルカは、丁度死界になってた場所から、自分を名指しで呼び止める声に驚き、本を取り落とす。
同じ様に、駆除を逃れようとした虫たちも、その悲鳴とも言える声と、転がり落ちる本の音に驚き、足を止める。
「ジエ様、そのっ、興味深い本があったので、つい。」
エルカは自分を睨む目が、コ・ジエの傍にも佇んでいる事もあって、動揺し、思わず目に涙を貯める。
「エルカにも知識に熱心な一面があると、今日始めて知った。或いは、トウコ殿との研究に感化されたのかな。目的の本は見つかったのかい?」
いつもは村人たちの制御役であり、或いは幢子の制御役であるエルカが、まるで、幢子そっくりの仕草で取り乱しているのを見るに、コ・ジエの深い深い溜め息が口をつく。
「詩魔法の本、ですか。」
足早に書庫を去っていく虫たちの中で、エルカが取りこぼした本の一冊を、その声の主が取り上げる。
「思わぬ虫も潜んでいた事だ。今日は驚かされる事ばかりであるな。」
学長の視線が、エルカから声の主に向けられる。声の主はその顔を明かりの下に見せぬものの、コ・ジエにとっても、エルカにとっても、心当たりのあるものであった。
「学長様にとって、私がここに居る事が、それ程意外でしょうか。」
「数年間見かける事のなかった大虫が、書庫から出てくれば驚きもするだろう。」
エルカの取り落とした本を腕に、銀糸の様な髪を揺らし、明かりの下に声の主が現れる。
「エルカさん、どうぞ。」
そうして、自分の前に積まれた本が二冊である事に、エルカは声の主に目を向ける。
「私が先程まで読んでいた本も、たまたま、似たような詩魔法の本だったのです。うっかりと、返しそびれておりましたので、一緒に戻しておいていただけますか?」
エルカは、記憶の何処かを刺激するその本を、思わず手に取る。手にとって、その表紙を捲る。
「では、失礼いたします。ジエ様も、学長様も、エルカさんも、夜分は足元にお気をつけて。」
足音すら無いかのように、静かに去っていくその背中に、エルカは一瞬声をかけようとするも、手に持った本を見失うまいと、未だ転がる本を先にかき集める。
懐かしい空間に、ひととき充足した心を冷ましつつ、石畳の廊下を月明かりに照らされ、コ・ニアは歩く。
「折角、先に見つけてあげたのですから、今度は忘れないように。」




