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詩の空 朱の空(仮称)  作者: うっさこ
スラールの転機
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行ってきます

幢子とエルカの荷造りが始まったのは、南側の城壁の建設と用地のための伐採が始まった翌日であった。


 村人たちは、その頃には口に出さないものの、全員がそれを知っていた。

 そして、ほんの少しだけ口数が少なくなった。


 先達せんだって、滞在していた栄治が出立した日。その翌日には幢子とエルカ、コ・ジエも、随伴の衛士を伴って王都へと向かうことになっていた。


「暫く、村には帰ってこれないかも知れないけれど、さ。」

 幢子は、この世界で作ってきた小物が沢山並んだままの家の内装を見渡す。

 赤いポッコ煉瓦で統一されて作られた、この世界の自分の家。二年程を過ごした我が家は、村人たちが作ってくれた事を思い出す。


「ここが、私の家だって事は変わらないから、また戻ってくるよ。遅くならない内に。」

 そうして、幢子は思い出していた。自分がこの世界に来たその日の事を。



 少しだけ寝坊して、冷蔵庫の中にあった冷やご飯で、大急ぎで朝食を済ませた。

 焦って焼いた卵焼きが、フライパンの熱さで焦げてしまった事。

 寝入っていて、つけっぱなしのパソコン、途中まで書いて保存せずにいたプログラム。


 アイロンも掛けないまま、吊るされたスーツに袖を通して、寝癖のついた髪を直し切れずに諦めて。

 革靴ではなく、うっかりシューズを履いて家を飛び出した。

 行ってきますを言うことすら、急いでいて忘れていた。


 この三年の間に履き潰してしまったシューズも、毒餌づくりにボロボロにしてしまったスーツも、今ではもう残っていない。

 下着や小物も、一つ、また一つと無くなっていき、この家の中にあるものは、この世界に来てから作ったものばかりだった。


 強いてそうでないものがあるとすれば、それは領主の館で、自分に用意されたゆったりとした生地のラフドレスだった。あの時以来、それに腕を通してこなかったのは、それがコ・ジエの母の遺品だと後から聞いたからである。その上に、村の中では着る必要もその機会もなかった。


 そのドレスも、荷造りをした背負い鞄の中に入っている。幢子が唯一持っている、貴族の衣類と言えたからであった。死蔵されている事を知っていたコ・ジエが、王都での着用服としてそれを勧めた。



「エルカ、髪を切るのうまくなったよね。」

 子どもたちが見守る中、エルカは幢子の髪にハサミを通す。


 エルカは、幢子の黒い髪が好きだった。寝癖で跳ねる前髪や、肩の先まで伸びて、襟足から先に緩くついた癖。時折、井戸水で汗を洗い流した時に見せるたたら場や窯場で少し焼け縮れた枝毛。


 そうした髪を、幢子は時折、自分で作った鋏と串で、エルカに切り揃えさせる。

 それは村ではエルカだけが任された大役で、終わった後に必ずお礼を言われるのも好きだった。


 いつもは紐で纏めていた幢子の髪に、櫛を通し、切った毛を払う。

 切り終えた後のこの瞬間もエルカは好きだった。


「ありがとう、エルカ。」

 いつも通りの笑顔の礼の後、紐で結ばないのは、エルカにとって少しだけ物寂しさがあった。


 そうして準備は進んでいく。

 その後、エルカの髪を幢子が苦戦しながら切り揃えるのも、子どもたちに物珍しさを誘った。



 夜はちょっとした宴会になった。炭焼きや陶器焼きは、この夜は揃って窯を止めた。

 夜通しのたたら場の担当になった者は、村の面々から肩を叩かれ慰められていた。


 村人のほぼ全員が入れ代わり立ち代わり、幢子の傍にやってきて挨拶をしていく。

 そうして交わしていく一言二言に、幢子は必ず返事を付けた。


 陶器の窯場の主となっている夫婦は、やってくると、婦人が何も言わず、幢子を抱きしめる。


「大丈夫。ちゃんと帰ってくるよ。」

 耳元ですすり泣く婦人に幢子は、静かに語りかける。そうして婦人を主人に返すと、その足元に居たそろそろ二歳になったばかりのはずの男の子が、幢子の傍に歩いてくる。


「すっかり大きくなったね。お母さんやお兄ちゃんお姉ちゃんを手伝ってあげるんだよ。」

 そういって、幢子が頭をなでてやる。その小さかった手で使えるように陶琴のばち棒を作ってあげた事を思い出していた。



 朝の一番に起きた幢子は、空の雲が少ない事を確認すると、冷えた空気を一杯に吸い込んだ。

 窯の多くが休んだせいか、煙の匂いがいつもより少なく感じ、肺に清涼感を得る。


 たたら場の近くへ行くと、送風機が勢いよく回っているのが見えた。


 そうして、炊き場の丸太椅子に座って、同伴者たちを待つ。

 鏡がないので髪の毛の癖はどうなっているかわからないが、頭に手を当てて撫でつける。


 まだ村で作りたい道具はたくさんある。考えていた小物も幾つもあった。

 しかし、作りかけのものはなかったし、昨晩はちゃんと十分睡眠も取った。


 朝ご飯は食べず、暖かくなった頃合いに河原で豆を焼いて済ませることに決めていた。

 皆が起き出す前に、名残が髪を引く前に、村を出るつもりだった。


 そうして待っていると、慌てたようにエルカが早足で向かってくるのが見える。

 幢子を見ると、胸を撫で下ろし、その歩調がゆっくりとなるのを、手を振って迎える。


「行くのか。」

 声をかけられて幢子が振り向くと、そこには衛士隊長のリオルが槍を肩にかけ、座っている。


「俺が護衛したい所だが、今回はあいつに譲ったからな。まぁ、あれは隊で一番の、あんたの信望者だ。適任だろうさ。」

 幢子は既に察しているそれを聞いて、苦笑いを浮かべる。


「村の皆の事、お願いします。守ってあげて。」

 エルカが側に来るのを待って、幢子はそれだけを挨拶に立ち上がる。



「それじゃ、皆。いってきます。」

 今度は言い忘れないように、それをしっかりと口にすると、村の南へ向かって幢子は歩き出した。

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